マンガ日本の歴史 23
弥陀の光明をかかげて
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年9月5日 初版印刷
1991年9月20日 初版発行
『マンガ日本の歴史 22 王法・仏法の破滅 応仁の乱』の続き。22巻では、足利義教亡き後の世の中の混乱ぶりに拍車がかかり、かつ、幕府の主導権争いから応仁の乱勃発。23巻では、宗教の集団がそれぞれに対立し合い、かつ勢力を増して一揆をおこし、幕府を揺り動かす。
目次
序章 法華・一向両教団前史
第一章 蓮如教団の発展
第二章 法王国と寺内町
第三章 天文の争乱
第四章 法華一揆の興亡
戦が続くなか、顕密の宗教の改革者たちが分かれて新たな宗教をつくっていく。
鎌倉時代に入って、栄西の臨済宗の、 道元の曹洞宗が伝えられ、 座禅によって自ら 悟りを開こうとする禅の精神は、 新たな権力者である 武士や、それにつながる 上層農民の心をとらえていた。が、一般の貧しい農民たちには、厳しすぎた。そして、その日暮らしの人々の心により強く訴えたのは、法然の浄土宗や、一遍の時宗や、親鸞の一向宗(浄土真宗)といった 念仏宗教だった。
日蓮の 法華宗(日蓮宗)は、「 南妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を唱え、
親鸞の一向宗( 浄土真宗)は、「 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えた。
この二つが対立し合う。
宗教に興味のない私だが、先日ロンドンの友人が「チャントの会」に行こうと知り合いに言われて断れずに行ってみたら、参加者が「 南妙法蓮華経」と唱えていてビビった、という話を聞いて、日蓮宗ー創価学会、の流れを認識したところだった。そうか、あの 南妙法蓮華経って、日蓮宗だったんだ、、、、。そして、それが、創価学会で、公明党につながって、、、、と、、、、。
まぁ、そもそも、私は念仏で救われるとは思っていないので、 法華宗も一向宗もあまり興味はないけど、、、、。
そして、親鸞こそが、「 善人なおもて往生をとぐ 言わんや悪人おや」のひと。だれもが 南無阿弥陀仏と唱えることで救われる、、、と。
吉川英治の『親鸞』は感動ものだが、こうして、純粋に宗教としてみると、やっぱり、なぞだ・・・。
親鸞亡き後、一向宗のなかで内部抗争が起こる。西洋のキリスト教の歴史で、 教会が金で免罪符を出したことに対立してプロテスタントができたように、一向宗の中に「各帳」「絵系図」といったものに名前を書いてもらえば救われる、としてお金を儲けるやからが生まれてきた。そして、内部抗争。
親鸞の一向宗は農村に普及し、日蓮の法華宗は町衆の心をとらえていく。
そして、互いに互いの寺を襲撃し合うようになる。
宗教間の対立、内部抗争、、、と、、、宗教って対立を生むためにあるのか?ってくらい。
第1章の蓮如とは、親鸞の教え(一向宗、浄土真宗)を引き継いだ、本願寺八代法主。その蓮如が山門の衆(比叡山延暦寺・天台宗の総本山)に、地元で勝手に教えを広めているといって襲われる。 争いを好まない蓮如は、吉崎の拠点を出て布教のためにあちこちを転々とする。「弥陀の光明」をかかげて、、、。
人びとは、日蓮の教え、蓮如に感謝し、「 南無阿弥陀仏」、、、。
長引いていた 応仁の乱は、 1471年2月 越前国の国人朝倉孝景(たかかげ) が守護斯波氏、守護代甲斐氏を裏切り東軍に鞍替えをしたことで、流れが変わる。
1477年、応仁の乱が終わる。
が、そこから、加賀国での一向一揆勃発、集団は奈良へむかい、東大寺や興福寺へ火を放つ。
幕府の足利義晴、細川晴元は一向宗の暴動を抑えるために、法華集団に軍勢を頼む。蓮如やつづく九代法主実如の政争に巻き込まれたくないという願いとよそに、両教団の対立は激しさを増していく。また、宗教を軸に町衆の自衛組織も活発化していく。それは村と町の対立につながる。町衆の法華宗への帰依と市民軍の活動は、法華宗有力寺院の存在があったとされる。
戦いを避けようとしてきた山科本願寺(一向宗)も焼け落ちる。続いて、 石山本願寺も、、、。
和議が成立し、両宗の対立をようやくおさめたのは、 千熊丸(せんくままる、三好長慶)、11歳の少年だった。
そして、信長の時代になるまで一向宗は機内での攻撃はおさまる。
政治的な両宗の影響は衰えることはなく、各宗の「集会(しゅうえ)の衆」が治安を維持し、裁判権を持つなどと影響力を持ち続けた。そのやり方は、時に反抗する勢力の斬首など、激しいものだった。
そして、両宗の争いは、ふたたび京の街を焼き尽くす暴挙に発展・・・。その中で、とうとう法華一揆の火も燃え尽き、京から追放されることとなる。
そのころ、種子島に鉄砲が伝えられる。
あらたな時代の幕開けへの銃声。。。
応仁の乱から戦国時代へ、、、、
続きは、24巻へ。