『新自由主義と教育改革 大阪から問う』  by 髙田一宏

新自由主義と教育改革 大阪から問う』
髙田一宏
岩波新書
2024年8月20日 第1刷発行

 

日経新聞 2024年10月5日の朝刊書評で、 紹介されていた本。記事には、

教育に市場原理を持ち込み、学校・教師間の競争を促すことで「質」を高める。新自由主義的な教育政策が日本で本格的に始まって20年ほどになる。その動きが顕著だった大阪の学校選択制や入試制度改革を検証し、格差拡大などの弊害が生じたと指摘する。学力や学びとは何か、という根源的な問いも突きつけていよう。本書の主張に否定的な視点を持つ読者もいるだろうが、教育改革を議論するうえで示唆に富む。(岩波新書・1012円)”

とあった。

あえて、「本書の主張に否定的な視点を持つ読者もいるだろうが、、、」というのは、それだけ、センセーショナルなことがかかれているのだろうか?でも、岩波新書でしょ?と、興味を持った。私自身、とある一般社団法人の世代横断リベラルアーツ教育活動を支援していることもあり、やはり「教育」というキーワードは気になる。社会を何らかの方向へ変革しようとすれば、かならず教育に行きつく。

買おうかと思ったけれど、図書館で割とすぐに借りられそうだったので、借りて読んでみた。

 

著者の髙田さんは、 1965年生まれ。 大阪大学大学院人間科学研究科教授。 博士(人間科学)。 専門は教育社会学、地域教育論、同和教育論。

 

表紙の裏には、
” 欧米を中心に1980年代以降、台頭した新自由主義の教育改革。 競争原理 成果主義を主軸とする改革は、公教育の衰退など様々な弊害を生んだ。国内外で見直しも進むなか、大阪の改革は勢いを増す。 学力による子ども・学校の選別、教員への管理強化などの政策がもたらした問題を丹念に検証し、 いま改めて教育の意味を問う。”とある。

 

目次
序 検証なき改革 を検証するために
第1章 新自由主義的教育改革の潮流   歴史を振り返る
第2章 大阪の教育改革を振り返る   政治主導による政策の転換
第3章 公正重視から卓越性重視へ   学力政策はどう変わったのか
第4章 格差の拡大と地域の分断   小・中学校の学校選択制
第5章 高校の淘汰と進路保証の危機   入試制度改革と再編整備
第6章 改革は成果を上げたのか   新自由主義的教育改革の帰結
第7章 新自由主義的教育改革に対抗するために
参考文献
あとがき

 

感想。
うん、面白い。教育は、競争じゃない。

 

なかなか深い内容で、著者が述べていることに、共感できる。特に、著者が主張する「新自由主義的な政策を教育に持ち込むことへの反対」には、私も共感。教育とは他者との競争ではなく、個人が昨日の自分と今日の自分を比較し、成長を確認するものではないのか。他者との比較は、教育の本質ではないように思う。個人の学習は内面的なものであり、他人に評価されることを目的とするべきではない、ってことかもしれない。

 

一方で、入学試験などでは他者と競争せざるを得ない場面があるのも現実。しかし、その競争の場が本当に自分に適しているかどうか、受験生には分からないことが多いのではないか。実際にその学校に入ってみるまで、どのような環境なのか分からない場合がほとんど。期待を持って入学した学校が、実際には自分に合わないということも珍しくないだろう。その結果、中退を選ぶ生徒がいる。これを「ドロップアウト」と呼ぶのかもしれないけど、私は、間違ったとおもうなら「もう一度やり直せる社会」のほうがいいと思う。一年、二年、進学が遅れたからなんだというのだ。

先日ラジオで「部活動に一度入ったら他の部活に移れないのは問題ではないか」という意見を耳にした。同様に、教育や進路についてもやり直しが効く柔軟な社会があって、いいのではないか??

 

著者は、教育の競争に関連して、学校間で競い合う仕組み、特に公立学校同士の競争について問題視している。例えば、学区制を廃止し、好きな学校を選べる「学校選択制」を導入した結果、人気のある学校には人が集中し、それ以外の学校では過疎化が進む傾向があるそうだ。この現象は、都市への人口集中と同じような問題を引き起こし、結果として学力格差を広げる原因にもなっているというのだ。

学校選択制が導入されたのは、私が高校を卒業してからずいぶん経ってからなので、へぇ、そんな仕組みができたんだ、、、くらいにしか、思っていなかった。でも、そんなことが起こっていたとは、、、。

 

余談だが、私は、高校授業料の無償化政策についても疑問を感じている。公立高校の授業料が無償化されるのはわかる。なぜ私立高校まで無償化する必要があるのだろうか?

大学だって、公立の方が学費が安いから、私だって国立大学を目指したけど、落ちたのでやむなく滑り止めで受けた私立に通った。中高から私立にいったら、そりゃ教育費めちゃくちゃかかるだろう・・・。

私立学校に通う理由について、「特別な教育方針」や「専門性の高いカリキュラム」があるならわかるけど。しかしそれも多くの場合、選択するのは本人ではなく親だったりしないか?まぁ、私立高校については、私はよくわかっていないけど。中高一貫の私立高校の方が受験が楽だとか、大学まで行けるコースがあるとか。まぁ、メリットもあるのだろうけれど、子供が成長するのにあたって、「楽をする」のは本当にメリットなのか???

本人が音楽や芸術、スポーツといった特定の分野に進みたいと望むなら、私立の選択にも意義があると思う。大学生の頃、家庭教師で教えていた中学生が、「音楽がやりたい!!」といって、家から遠い学校を受験することにして、私はそれを応援した。だって、本人の強い意志だったし。まぁ、教育方針が特別な普通の私立学校もたくさんあるんだろうけど。

私の世代では、女子高や女子大に通う人も多かった。現在ではその価値観も変化しているのかもしれない。 。。

とまぁ、私自身の経験から言えば、公立学校で十分楽しかったし、いろんなクラスメートがいてよかったと思うけど。

私立高校へかよう家庭への財政支援より、公立高校に税金を投入してその質や多様性を向上させるのが教育の充実というものではないだろうか?と感じるのだ。みんながもっと行きたいと思う公立高校をつくるために税金を使う方が、社会全体への投資になるのではないか?と、、、。少子化のなか、学校だって淘汰されていくだろう。だったら、公立高校にお金をかけていいのではないか??

 

と、本書は、私立とか公立の話ではなく、、、教育にビジネス的競争原理を持ち込んだことへの問題提起。実に、大事な視点なように思う。

 

なるほど!と思ったことを覚書。
・” 新自由主義は、もともとは価値の多元性と個人の選択を重視する思想だった。 しかしそれが政治において実践へ移されると、経済的な価値を一元的に強調し、個人を経済発展へと動員する思想に変質していった。格差の拡大によって社会不安が高まると、それは個人よりも伝統家族や国家という集団を上位に置く、保守的・権威主義的な道徳と結びついていくことになった。(田中拓道『リベラルとは何か ー17世紀の自由主義から現代日本まで』 中公新書 2020)

新自由主義保守主義と結びついていった過程の説明で、引用されていた。

 

・”PDCAの 考え方を教育に適用するのは乱暴だ。”

 なるほど、その通りだ。PDCA(Plan、 Do、Check、Action)は、もともと経営学に由来するビジネスの世界でつかう手法で、一つの明確な目標を達成するときに機能する。でも、教育の目標は多岐にわたるので、それをPDCAで運用するのは乱暴だというのだ。これも、大いに共感する。
教育の結果や目標は、数値だけで表せるものではないだろう。成績?テストの点数?東大への進学率?そんなものを目標にするから、、、テスト対策しかできない教育になってしまう。

ビジネスの世界でも、「目標管理制度」なるものができて、人間的におかしくなってきたと思う。個人の貢献が数字に転換されて、人事評価されるのだ。それは、給料に結びつく。だから、点数で評価されないことを行動しない社員がでてくる。私は、5年間の海外赴任を終えて古巣の研究所に帰任したとき、落ちているごみを拾う、いっぱいになったゴミ袋を交換する、困っている人を助ける、、、そんな当たり前のことができない若手社員が増えていることに、愕然とした。ここは、幼稚園かと思った。

PDCAにはまらないことは、やらない。。。。おいおい、嘘だろう、、、、と思った。でも、彼らは、学生時代から目標管理制度のような仕組みでそだってきたのだ・・・。内申点につながるならやるけど、、、って。。。

これは、間違った教育だと思う。

 

・” 新自由主義的な改革のもとでは、社会経済的に不利な立場に置かれている子どもたちの状況は一層厳しくなり、 格差・不平等が固定化する。社会的・文化的 バックグラウンドが異なる人々の交流は乏しくなり、社会的な分断や差別が助長される。”

 

・「アレントクラシ―」: イギリスの教育社会学者 フィリップ・ブラウンが、親の資力や教育への期待が子供の学力や学歴を左右する社会体制を「ペアレントクラシ―」とよんだ。教育の社会実態は、「メリトクラシー」よりも「ペアレントクラシ―」が支配的になっているということ。

マイケル・サンデルさんの『実力も運のうち』とつながる。

megureca.hatenablog.com

 

格差是正の成果を上げている学校の取り組み
 ・ 教職員集団の組織力
 ・ 家庭や地域との連携・協力
 ・ 子どもたちの集団作り
 ・ 教師と子供との信頼関係
 ・ 授業改革
 ・ 生活習慣・学習習慣の形成
など、 学校全体の総合力の充実。

 

色々と、考えさせられる内容だった。学校教育や、育児の当事者でなくても、やはり「教育」というのは国の将来に関わることであり、常に頭の隅に置いておくべきテーマだと感じた。

 

ちょうど、国際的な経済協力開発機構OECD)が実施した、大人が社会生活を送る上で必要な能力を測る「国際成人力調査(PIAAC)」の結果のニュースがあった。16~65歳で、ランダムに選ばれた人が回答したらしいが、日本の平均得点は「読解力」と「数的思考力」が2位、「問題解決能力」が1位で、トップ水準を維持したとのこと。そして、ニュースではそれを褒め讃えつつも、日本の生産性が低い理由は、学んだことと実業が一致しているひとが半数しかいないから、という専門家コメント。そのギャップを埋めるのが重要だって。はぁ???学生の時学んだことが実業になっている人が半分もいたら、すごいじゃないか。だいたい、人は一生同じ仕事をしているわけではなく、社会の仕事の半分以上は、大学で学ぶようなことじゃない。ピンとのボケたコメント、、、と思った。加えて、科学技術の世界では、日進月歩の中、10年前に身に着けたスキルは、何の役にも立たなくなるのも日常茶飯事。学生として学んだことしかしない社会人が多数を占めている社会なんて、恐ろしいわ。だから、リスキルリングが重要だというのだが、社会人になったらリスキリングをOJTでやっているようなものではないのか???

 

教育とは何か、もう一度かんがえなおしたほうがいいのではないか?それは、別に国、地方自治体ということではなく、社会全体が考え直さないと、、、、。社畜になってくれるグライダー思考の便利な人間を育てるのが教育だというのなら、それは違う。

megureca.hatenablog.com

 

私は、それは違う、と強く思う。

 

豊かさをGDPだけで測るのと同じくらい、そんなテストだけで能力を測るのは、ばかげている。

なんでも数字で測ると、わかりやすい。でも、数字で測れるものしか見なくなるのは危険だ。そういう社会をつくったのが、新自由主義の功罪かもしれない。

 

うん。答えはわからないけど、

やっぱり、こういう課題を与えてくれる読書は楽しい。