『マンガ日本の歴史34 米将軍吉宗と江戸の町人』 by  石ノ森章太郎 

マンガ日本の歴史34 
米将軍吉宗と江戸の町人 
石ノ森章太郎 
中央公論社
1992年8月5日 初版印刷 
1992年8月20日 初版発行

 

 『マンガ日本の歴史 33 満ちる社会と新井白石』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

33巻では、綱吉の死後、6代将軍徳川家宣を支えた新井白石の活躍と家継(7代)、そして、白石を排除した吉宗(8代)の時代への変遷。 34巻では、時代は、暴れん坊将軍、吉宗の活躍。

 

目次
序章 《幸運児》 吉宗
第一章  米将軍財政再建
第二章  暴れん坊将軍専制
間章  吉宗の好奇心
第三章  享保飢饉と百姓・町人
第四章  幕藩国家制度の充実

 

7代家継の夭逝により、紀州藩 5代藩主吉宗は、幸運にも将軍となって紀伊国和歌山城から江戸へ向かうこととなった。 吉宗は 6尺を起こす長身で巧みな 乗馬術と武技、加えて書画にも独特の才気を示すなど、 文字通り「文武両道」に秀でた人物だった。

 

吉宗(新之助→頼方→吉宗)は、徳川光貞紀州藩第2代藩主)の四男で、家を継ぐことはないと思われていたが、光貞の後をついだ長男(綱教)の病死、その次子頼職も早世したため、1705年(宝永2年)に22歳で紀州藩藩主となった。なんだか、運のめぐりあわせのよい人だったのだ。

そして、藩主となったとき、将軍綱吉より「吉」の文字をもらって、「吉宗」と改名した。

それからの活躍は、あのTVドラマ「暴れん坊将軍」である。

 

余談、「暴れん坊将軍」では、冒頭の背景にお城が映っていたのだが、江戸城天守閣はすでに、1657年の明暦の大火で焼けてしまい、再建されていない。なので、あれは姫路城だったらしい・・・。映像は確認していないけれど、そういわれれば、白いお城だったような気がする・・・・。

 

将軍となった吉宗は、「享保の改革」をすすめる。幕政を進めるにあたり、吉宗は、先代の側用人間部詮房、本多忠良、新井白石を罷免し、紀州藩からつれてきたメンバーを側用人とする。 加納遠江守久通(44歳)、 小笠原胤次(元家老)、 有馬兵庫頭氏倫(49歳)。先代の老中たちは、年をとっていたし、江戸の財政についての知識も乏しく、形ばかりの存在と吉宗の目にうつったから。

 

吉宗は、御用取次とその下に三奉行(寺社・町・勘定)を配し、幕政をコントロールした。

 

吉宗は、飽食、過食を嫌い、食事は 一汁三菜を守った。正室と五年で死別した後は、正室を迎えることもなかった。勉強家で、もっぱら 中国の史書経書農書などの実用書を愛読した。

う~ん、個人的には、そういうストイックな人、好きだ。

 

吉宗は、 武家諸法度を綱吉時代 のものに戻すなど、 新井白石の否定となる幕政をすすめる。けちんぼ白石が簡素化した 朝鮮通信使への接隅も、元に戻した。行動は活発で、容儀は簡素、儀礼廃止、財政再建などを手掛けた。

 

1716年、しばらく途絶えていた鷹狩を復活させ、鷹場管理の「鳥見役」を再置し、 江戸から五里の地域を鷹場とした。

 

1717年に起きた大火事のときには、 火の粉が降りしきる中自ら屋根に上り、将軍家宣未亡人・天英院へ避難指示を与えるなど、大胆な行動をとった。

合理的でバランス感覚に優れた吉宗だったが、幕府の財政難は続いていた。

 

1722年、 幕府財政の増収を図るため「上げ米制」を採用。他にも、新田開発、定免制、米価調整など、米にまつわる政策を多く導入した。ゆえに、吉宗は「米将軍」とも呼ばれる。この間に、多くの新田が開発された。

米の凶作、豊作にかかわらずに米価格を安定させるように、備蓄米の調整などもした。経済学者の側面もあった。

 

「日本国総図」の作成事業にも取り組み、日本の地図をつくった。

 

1728年(享保13年)、65年ぶりに「日光社参」をする。大勢の部隊をつれての社参は、出発するだけで10時間の大行列だった。その狙いは、 諸大名や旗本に忘れかけていた封建主従性を思い出させ、大掛かりな 軍役動員を行うことで広く将軍権力を認識させようとすることだった。
 
吉宗は、徳川御三家尾張藩主が相手でも、幕政に反する贅沢をつくしているということで、断固処罰した。吉宗による将軍権力の専制だった。

 

以前から百姓一揆は起きていたが、年貢の負担が増えることなどで、一揆が頻発するようになる。強気な吉宗は、一揆代表を処刑するなどした。が、1732年(享保17年)に西国で虫の大量発生による飢饉が起こり、この享保飢饉では餓死者1万2千人と言われる規模で、米価は急騰。米商人の店が襲われるなど「打ちこわし」、も起こり町は荒れた。南町奉行大岡越前守忠相らは、町人の騒ぎに動じることはなかった。

 

当時の江戸の町民は、大きく3つの階層に分けられた。
大商人:三井などの豪商
中間層:江戸50万町民の多数。小さな店持ち商人、職人
都市下層民:下級職人、日用、棒手振りなど、大商人の持つ裏長屋に住む

 

吉宗の時代の幕政で、有名なのが1721年に導入された「目安箱」。庶民の意見を取り入れるために設置された。その成果の一つが、弱者の医療施設である小石川養生所。吉宗は医療だけでなく、新田開発、農業開発などの分野でも才能のある人材を次々と起用した。

 

吉宗の世子徳川家重(いえしげ)は、病気がちで柔弱なうえ、酒色に溺れる問題児だった。次男・徳川宗武(むねたけ)は兄とは大違いの勤勉家だった。それは、吉宗の悩みの一つでもあり、そのことが「将軍個人の力」にたよらない将軍職の権威が必要だと考えるきっかけとなった。

 

吉宗は、林大学頭ら儒学者を動員して、国政充実のための法令発布、法典編纂をすすめる。また、朝廷対策にも意欲を注いで、朝廷儀式を再興させることでその権威を確立し、ひいては将軍の権力を補強しようと考えた。

 

1738年、桜町天皇即位に際して、大嘗祭を復活させる。また奉幣使、武家伝奏なども復活した。奉幣使は、神社や陵墓などに幣帛(へいはく)を捧げる使者。武家伝奏は、武家と朝廷の間の連絡や交渉を担う朝廷の役職。どちらも、それなりにお金がかかる。

奉幣使一行が沿道を通る時には、「仏事」に関わるものはすべて菰(こも)や垣で目隠しをするようになり、作業に駆り出される人々の生活にも影響をあたえた。吉宗が行った朝儀復興策は、後年、王政復古・神仏分離思想の萌芽となった。

 

吉宗の幕政は長く続く。家重のことを心配しつつも、将軍職を家重に譲ると西丸に隠居。6年後の1751年、68歳の生涯を閉じた。

 

ストイックでかっこいい吉宗という印象だったけれど、享保の改革は、必ずしもうまくいったわけではなく財政難はつづいていたということ。出来が悪くても、長男が将軍をついでいくんだな。。。。

次は、さて、どうする、家重!