仏教と陽明学
荒木見悟
法蔵館文庫
2024年12月15日 初版第1刷発行
* 本書は 1979年8月31日に 第三文明社より 「レグルス文庫」の一冊 として刊行された。
図書館で新着図書の棚にあって、 ふと目に入ったので借りてみた。仏教はともかく、 陽明学 って知っているようで知らない。知行合一とか、現代のビジネスにも通じるとか、色々言うけれど、朱子学に対抗して生まれたとか、あいまいなものとしてしか理解できてない。丁度、安岡正篤さんの著書の勉強会がはじまることもあって、思想史のようなものを勉強しておきたいなぁ、とおもっていた。なんとなく、出会うべくして出会ったような気がしたのだ。
でも、借りて読み始めて、これは、大変、、、、難しい本だった、、、と気が付いたけれど、わからなくてもとりあえず一度は目を通しておこう、、、と思って最後までページはめくってみた。
裏の説明には、
”諸思想が交錯する明代の思潮を解きほぐし、「心即理」「知行合一」等に代表される概念を説明して陽明学とは何かを闡明するとともに、高僧たちの個性的な思想を活写して明末仏教思潮を浮き彫りにする。日本思想界にも多大な影響を与えた陽明学と禅仏教を中心に明代の思潮を解きほぐす。中国近世思想史を知るための必携の手引き書。解説=三浦秀一”
とある。
借りる前に、この文章を読んでいたら、躊躇して借りなかったかもしれない。 幸か不幸か、 怖いもの知らずというのか・・・借りてしまった。
著書の荒木さんは、 1917年広島県生まれ。 九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業。 長崎師範学校、 福岡学芸大学助教授を経て、 九州大学文学部助教授、 教授を歴任。 1983年定年退官。同大学名誉教授。著書多数。2017年3月逝去。
目次
はしがき
序 章 ――明代仏教思潮の見方――
第一章 太祖の宗教統制
第二章 成祖と道衍
第三章 明代前期仏教界の動向
第四章 儒家の仏教観
第五章 心学と経学
第六章 心学より理学へ――禅と朱子学――
第七章 陽明学出現の意義――新心学の誕生――
第八章 陽明学の性格
第九章 明末における仏教復興の原点
第十章 新仏教をになう群像(上)
第十一章 新仏教をになう群像(下)
第十二章 明末仏教の性格
第十三章 頓悟漸修の実践論
第十四章 楞厳経の流行
第十五章 異端のかたち――李卓吾をめぐって――
終 章
感想。
むむむ。なんだか、すごい本かもしれない。読み終わってから、「はしがき」をもう一度読み直したら、本書が書かれた理由がわかるような気がした。
借りて読み始めた時は、日本における仏教と陽明学の話だと思っていたのだけれど、まずもって、書かれているのは大陸の話。「明」の時代。1368年から1644年の明の時代を軸としている。その前の宗の時代にはすでに朱子学が生まれている。そういう、中国の時代の流れが頭に入っていないので、読みながら迷子になる感じがしなくもない。
中国の歴代王朝は、
「夏・殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢・三国・晋・南北朝・隋・唐・五代・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国」
この順番すら、私の頭の中ではあやふや。
陽明学ができるきっかけとなる朱子学は、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体。
「はしがき」に書かれていて、読み直してなるほどと思ったのは次の文。
” 日本で治安維持法による 思想 取り締まりが厳しく行われた時期に「赤」というレッテルをはられることが、 社会人としての致命傷に当たるとされていたものであるが、 これに類する現象が中国の近代思想史にも見られるのであって、そこでは「禅」というレッテルをはられることが、直ちに 危険思想 の持ち主とみなされたのである。”
つまり、中国のある時代において、「禅」は異端者だったということ。日本においても、朱子学と陽明学とのせめぎあいの時代があった。従来の権力者が支持してきた思想を否定するような思想は、すなわち「異端」であり「危険」とされたわけだ。
と、つまり、どのように陽明学ができてきたのか、そこに仏教はどのように影響したのか、というのが述べられているのが本書、だと思う。中国の思想家や政治家の名前がたくさんでてくるのだけれど、ほとんどが私には????だ。それでも、なんだか、世間で言われているような簡単なことではないんだよ、と著者がいっている感じは伝わってくる。
わからないなりにも、最も記憶に残ったのは、「知行合一」の理解。ただ、知ったことを行動せよ、ということではないらしい。心の底から行動にうつれるほどに知か身につくこと、と理解するのが正しいみたい。
気になったところ覚書。
・元を駆逐して天下を掌握した明太祖は、新体制として1369年に科挙試を復興し、朱子学を基準教学とした。
・” 完全に国境と化した朱子学は、禅を最大の異端とする論理を依然としてその内部に 抱き続けており、、、、”
・心学としての禅:仏教であれば、天台宗に法華経、華厳宗に華厳経といった経典がある。が、禅には経典がない?臨済宗は「経典なんて、不浄をぬぐうほご紙さ」といった?
経典によるのが経学で、経典によらず心によるのが心学。禅は、心学。
心学と経学が対立した時代があった。この対立を折衷しようという試みもあり、それを「教禅一致」という。
・儒教は「道(理)は器(気)を離れず、器は道を離れない」といい、仏教は「色即是空、空即是色」という。儒教と仏教の違いは、「離」なのか「即」なのかという違い。「離れない」といえば二者の間に一線が画されるのに対し、「即する」といえば、 完全な抱合関係 となり、理の指導性が失われる。
・朱子が槍玉にあげた張九成の言葉。「造化の功」。「みずからが造化のわざの主」となり、時局の難関打開に立ち向かうこと。そのためには、その内奥であれ、表皮であれ、 隅々に至るまで 目覚め、 はたらいてなければならない。その造化にふるいたつ心を直指し、 その覚醒をもたらすものが仁である。
ちょうど、安岡正篤の『東洋倫理概論』で「造化」という言葉が出てきて、チンプンカンプン、、、になっていたのだけれど、こんなところで「造化」という言葉に出会うとは。『東洋倫理概論』では、「造化: 天地万物を創造し育てる、神霊・造物主・宇宙や自然の根本にある霊力」とあった。
ますますわからなくなるような、、、わかるような、、、。
もう一つ「造化」がでてきたのが、
「宇宙手に在り、造化は身より生ず」という明末の流行語。もとは、道教の書『陰符経』にあるが、宗の時代にも引用されているが、明の時代には、王陽明の歌にも引用された。「宇宙手に在り」という壮大な自負心と、「世界に欠陥がある」という認識。
???が飛ぶけれど、、、。「造化」というキーワード、覚えておこう。
・朱子学が国教化している時代、相手を禅だときめつけることほど、相手の骨身にこたえる悪罵はなかった。
・朱子学においては、心が物に即して理を見出し、価値判断を行うにあたっては、とにかく客観的に定まった制度・権威・秩序・習慣などをそのまま前提し、その与えらえた条件の上に心が理を求めていくのに対し、陽明においては、心が状況変革の可能性を見通しながら、理への自由裁量の余地を残している。
・ 知行合一とは目の前に知と行を並べ、 この両者を結びつけようというのではない。 何よりもまず 念頭に置かれねばならぬのは、知も行も心の知であり、心の行であって、 両者の結びつく地点は、この一心をおいて、他にないということである。 知る主体も、心行う主体も心である。
知ったことを行う、というようなことではない。こうだからこう、という理屈で動くのではなく、心がそのままに動くのが「知行合一」ということ。
ビジネススクールだと、単純に知識をえたならそれを実践しろ、というけれど、そんな単純なことではないらしい。この理解は、なかなか深い。
とまぁ、なんだか一割も理解できなかったように思うけれど、こういう話がある、ということが分かった。ちょっと激しい思想論だなぁ、という気がして、元の出版社である「第三文明社」を調べたら、創価学会関連だった。あらまぁ。
まぁ、中国における陽明学を知らずして、日本の陽明学は語れないだろうから、背景を理解するのに役立つ本、なのだと思う。日本の思想を知ろうとするとき、中国王朝からの影響は避けることができない。でも、その背景はあまりに大きいので、まず、中国王朝思想の何を知りたいのかを自分の中で整理しないと、漠然としたままでは向き合えないなぁ、、、ということが分かった。ということで、やはり、日本の思想に立ち返りつつ、またいつか復習しようと思う。
わからないなりに、キーワードがみつかればそれはそれで儲けもの。
読書は楽しい。
