伝記を読もう 北里柴三郎
伝染病とたたかった不屈の細菌学者
とある勉強会で、新日本銀行券の顔シリーズで、「北里柴三郎」を私が紹介することになっている。これまでにもいくつか北里柴三郎に関する本を読んできたけれど、シンプルなまとめな一冊として、本書を 図書館で借りて 読んでみた。
表紙をめくると、
” 「世の中の役に立つことをしたい。」
伝染病の予防や治療のために、 多くの発見をした 北里柴三郎。
それは不屈の精神と地道な努力によってもたらされた情熱の証なのです。”
とある。
目次
はじめに
一 武道にあこがれて
二 マンスフェルト 先生
三 ドイツへ留学
四 破傷風菌を制圧
五 伝染研究所の設立
六 ペスト菌の発見
七 恩師との別れ・再会
八 北里研究所の設立
九 福沢諭吉 への恩返し
十 晩年の柴三郎
おわりに
感想。実にシンプルにわかりやすく、時系列で説明されている。やはり児童書の伝記は読みやすい。目次の流れは、そのまま柴三郎の人生の流れ。
その人生をまとめておこう。
・1853年(嘉永6年)1月29日 熊本県 阿蘇郡 庄屋の家に生まれる。
・自分から歩み寄ろうとしない性格を矯正させようと、8歳から10歳まで親戚の家に預けられ、漢学者・橋本竜雲に学ぶ。
・武士の修行を目指したが、18歳の時に父より「軍人より医師になって世の中につくしなさい」といわれ、熊本医学校へいく。
・熊本医学校で、恩師・マンスフェルト先生に出会い、「医学」にめざめる。
・1883年 30歳で14歳年下の乕(とら・のちの日銀総裁松尾臣善の娘)と結婚。
・内務省へ就職
・1885年よりドイツへ留学。コッホ先生(柴三郎より10歳年上)に出会う。
・「脚気菌事件」 ペーケルハーリングや、細菌学を教えてもらった恩人・緒方正規(おがたまさのり)が発表した論文「脚気は脚気菌が原因」という説を否定する。科学的には柴三郎が正しかったが、日本人の間には「恩師を非難した北里柴三郎」という批判が広がる。
・破傷風菌の純粋培養に成功
・1892年 留学から帰国。しかし、「脚気菌事件」が尾をひいていて、だれも柴三郎に協力しようとしないし、就職先もみつからない。救ってくれたのが福沢諭吉。
・福沢諭吉の援助により、「伝染病研究所」を設立。
・香港で流行した謎の伝染病が「ペスト=黒死病」であり、ペスト菌によるものだと解明。
・1899年、「伝染病研究所」は、国立となって内務省の監督下となる。柴三郎は「国立伝染病研究所」の所長となる。
・伝染病研究所で柴三郎に師事し、活躍したメンバー
志賀潔:赤痢菌発見
北島多一:毒蛇研究
秦佐八郎:梅毒の特効薬 サルバルサンを発明
宮島幹之助:寄生虫学
野口英世:黄熱病
・1914年、第一次世界大戦勃発。軍事費がかさみ、合理化のために国立伝染病研究所の管轄が文部省に変更となる。柴三郎がめざした研究と医療現場を結びつける方針が否定される。柴三郎は辞表を提出。部下たちもみんな一緒に辞表を提出し、柴三郎についていく。
・1914年、北里研究所設立
・1920年、福沢諭吉への恩返しとして、慶応義塾医科大学、初代医学部長に就任。
・1931年 就寝中の脳溢血で逝去
本章は、割と当たり障りなく柴三郎の活躍が描かれている。とても分かりやすいけれど、やっぱり、子供向けかな。
大人が読んで楽しいのは、『よみがえる天才』の方かもしれない。
ふと、北里大学って、いつできたんだ?とおもって調べてみたら、1962年に北里研究所創立50周年を記念して創立されたそうだ。柴三郎の死後、30年以上たってからということ。よく考えると、本人が生きていたら、自分の名前を大学名にするって、かなりいけてない。。。。亡くなっていたからこそ、「北里」の名前がついたのだろう。福沢大学とか大隈大学とかいう名前だったら、なんか、ちょっと、、、かっこ悪い、、、、なんてね。
まだ、北里柴三郎の人となりが、私の中にはしみ込んでこない。共感できるところもあるのだけれど、どうしても共感できないところがあるからかもしれない。頑固過ぎるだろう、、、と思うのだ。実際に、「雷」というあだ名だったというのだから、現代に生きていたら、「パワハラ」と言われるタイプなんだろうなぁ、、、なんて。
でも、まだ、もう少し、日本の「衛生管理」という視点で、突っ込んで調べてみたいと思う。
