『マンガ日本の歴史 41  激動のアジア、日本の開国』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 41
激動のアジア、日本の開国。
石ノ森章太郎
中央公論社
1993年3月5日 初版印刷 
1993年3月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史40 内憂外患と天保の改革』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

40巻は、国内での一揆多発という内憂に加えて、おとなりの清がアヘン戦争に負けて西側諸国に統治されていく様を横目でみながら、不安を抱えていく日本。 水野忠邦天保の改革から失脚まで。41巻では、とうとう、開国を迫られる日本。

 

目次
第一章 列強の進出とアジアの抵抗 
第二章 開国前夜 
第三章 黒船異変 
第四章 通商条約締結と横浜開港

 

幕末に近づくにつれて、この「マンガ日本の歴史シリーズ」も海外の様子の描写が増えてくる。第一章では、アヘン戦争について。水野忠邦の三方領知替が不評を買っていた頃、清はイギリスに支配されていった。

 

1840年6月、広東沖にイギリス派遣艦隊が勢ぞろい。アヘン戦争の始まり。

18世紀後半、産業革命によりイギリスは、「世界の工場」となっていった。機械と鉄工業の発展で、イギリスは巨大な資本主義国となり、19世紀前半には「超大国」として世界に君臨した。
《具体例》
・ワットの蒸気機関:手工業から機械工業へ
・アークライトの水力紡績機
・カーライトの力織機

イギリスは、 欧米諸国の保護主義政策によって綿製品の市場が狭められると、市場をアジアに求めた。ターゲットになったのが、インド。 政府はインド 木綿に高い関税を課して、 イギリス 綿製品のインドへの輸出を奨励。(まるで、、、今のトランプ政権・・・)
結果、インドの綿製品は廃れ、インドは、木綿手工業国から綿花のみを提供する「原料生産国」となってしまった。

 

綿花とともに、イギリス 東インド会社の貴重な財源は、アヘンだった。清は、アヘンの輸入を禁じていたにも関わらず、イギリスは、インドにイギリス綿製品を輸入する資金として、インドから清にアヘンをうって稼がせた。いわゆる三角貿易
・イギリス→インド:綿製品
・インド→清:アヘン
・清→イギリス:紅茶

アヘンは、イギリスやインドを儲けさせたが、清としてはアヘン中毒による被害だけでなく、アヘン購入のために清から銀が大量に流出することが問題となった。

1830年、 国家財政の逼迫を解決するために、道皇帝(どうこうてい)は、林則徐(りんそくじょ)に、アヘン根絶を命じる。林則徐は、イギリス人所有のすべてのアヘンを没収し、溶かして海に廃棄した。怒ったイギリス本土は、1840年、イギリス艦隊を広東沖に集結。二年あまりのゲリラ戦などを経て、手こずりながらもイギリスが勝利。

1842年8月29日、南京条約締結。これによって、香港は割譲された。

 

事態の推移をみていたアメリカは、1843年に清と「望厦条約」を締結。アメリカと中国との初めての条約。アメリカは、つづいて1848年に メキシコ湾戦争で勝って、 カリフォルニアを領有。 太平洋沿岸の開発を目指した。

アメリカは、中国の市場開拓の機会を得て、 太平洋横断航路の途中補給基地として日本をみいだした。

1851年、清では、宗教団体「上帝会」による「太平天国」と名乗る叛乱がおこる。太平天国は、一時は南京占領を達したが、内部対立、資金不足などにより、理想郷の建設にはいたらず。

 

そのころインドでは、東インド会社の傭兵シパーヒーイスラム教徒、 ヒンドゥー教徒)が、新しく購入された銃の油に「豚」と「牛」の脂が塗ってあると言って反乱をおこした。反乱軍は、1年以上戦ったが、指導者の弱体などで反乱は失敗に終わった。

 

19世紀前半は、欧米列強がアジアに進出し、ほとんどの国が植民地化されたり、不平等条約を結ばされたりしていた。その流れが日本へも・・・・。

 

アヘン戦争の結果は、オランダにも危機感をもたせた。オランダは、国王の親書をもって幕府に危機をつたえ、開国するようにと促したが、老中・ 阿部伊勢守正弘、老中首座 水野越前守忠邦らは、それを無視する形で、「打払令」、鎖国を強化する。
その一方で、 海岸防御掛(海防掛)を設けて、守りを強化することとした。

 

1846年、アメリカ船が浦賀にやってくる。が、、、事件にはならずに帰っていった。

開国か、鎖国か、、、阿部は、鎖国継続派だったけれど、多くの人の意見を聞く行政を行っていたので、何度も評議した。時の将軍は、12代・徳川家慶。夷狄(いてき)対策を阿部に命じた。

 

当時の攘夷論
徳川家慶
阿部正弘(老中)
・牧野備前守忠正(老中)
・水府老公= 徳川斉昭水戸藩主。(徳川慶喜の実父)一時、致仕謹慎。
・鍋島斉正(佐賀藩
松平慶永(春嶽)(越前藩)
島津斉彬薩摩藩

 

阿部正弘派=海防強化政策反対派
・青山下野守忠良(ただなが)(老中)
水戸藩、反斉昭派
会津藩
川越藩

 

1852年、 長崎出島のオランダ商館に新しい商館長(カピタン)が着任。『阿蘭陀風説書』で、アメリカのペリーが来春にも日本に来ることを幕府に告げる。

それでも、幕府は黒船来航を否定。秘密裡にしたが、あちこちで「アメリカ船がくるかも」という噂が立った。しかし、「カピタンが儲けようとおもって噂をながしているだけだ」などとして、民衆には極力秘密にした。

 

1853年 7月8日(嘉永6年6月3日)、旗艦「サスケハナ号」(蒸気船 2450 T、乗組員300人)が、 アメリ東インド隊司令官長官 マシュー=カルブレース=ペリーを乗せて、浦賀へ。

浦賀奉行所が対応にあたった。アメリカは、アメリカ大統領の国書を、日本国皇帝陛下にわたすといってきた。国書は受け取れないといって煮え切らない奉行所の対応に、 最高指揮官に会わせろといって聞かないアメリカ。長崎へ行くようにいっても、江戸に乗り込むぞというアメリカ。結局、幕府は譲歩に譲歩を重ね、浦賀近くの久里浜で会見することとする。

立ち会ったのは、 浦賀奉行所・戸田伊豆守氏栄(うじよし)と 井戸岩見守弘道。嘉永6年6月9日、 アメリカ大統領の国書の授受が行われた。

 

国書を受け取ったものの、どう対応すべきかの評議が毎日続けられた。と、そんな最中、6月22日、家慶が逝去。

 

幕府は、 前水戸藩徳川斉昭を海防参与に任命した。斉昭は、強い「開国反対者」。

そうこうしている間に、1853年7月には、ロシアからプチャーチンが長崎に来航。長崎奉行所、海防掛は、引き伸ばし作戦ではぐらかし、プチャーチンは帰っていった。

嘉永7年1月16日、再び、ペリーが浦賀沖へ。他国が、アメリカより先に日本と条約を結ぶことを恐れての来日だった。

「初めから打払っとけはよかったのに」という斉昭。佐倉藩主・ 堀田備中守正睦(まさよし)、彦根藩主・井伊掃部頭直弼は、「そんな話に乗らなかった正弘のほうがましだ」などと嫌味をいう。つまり、二人は、開国派。

 

嘉永7年2月10日、神奈川で日米の第一回の会談が行われた。アメリカは、清とむすんだ「望厦条約」(圧倒的にアメリカに有利)と同じ内容の草案を幕府に提出。日本は、まったく異なる日本案を提出。アメリカは、日本案はまったく飲めないといって、戦いも辞さない姿勢。幕府内では、下田の開港だけを認めようという案を協議。

「脅しに負けず、戦えばいい」という斉昭に対し、「勝てない戦はできない」という評議メンバーたち。最終的には、斉昭がおれて、「下田開港」で決着。

 

嘉永7年3月3日( 1854年3月31日)、 日米和親条約は調印された。 下田・函館の開港、 アメリカ艦船への物資補給、漂流民の保護の保証、 外交官の下田駐在許可などの内容が含まれた。

この時、下田に停泊中のミシシッピー号に乗って密出国しようとしたのが長州藩吉田松陰金子重輔。後に、井伊直弼安政の大獄でそれぞれ死刑、獄死。

 

アメリカとの条約に続き、
嘉永7年 8月23日、 長崎でイギリスと 和親条約締結。
安政元年 12月21日、 下田でロシアと和親条約締結。
安政2年12月23日、 長崎でオランダと和親条約締結。

 

開国の大きな変化の中、 安政2年 10月2日には、安政の大地震が江戸とその周辺地域を襲った。人々は、開国のストレスと、震災のストレスとで疲弊していった。

10月9日、正弘は、堀田備中守正睦(井伊直弼と共に開国派)を老中首座に迎えた。


安政3年7月21日、下田に駐日アメリカ総領事、 タウンゼント=ハリス到着。総領事の派遣は不要という幕府代表の下田奉行に対し、「文明諸国間の常識だ」というハリス。結局、下田柿崎・玉泉寺が最初のアメリカ領事館となった。

ハリスは、 日米和親条約の追加条約の締結を目的として、江戸に行くことを要求した。

堀田は、海防掛目付・岩瀬肥後守忠震(ただなり)、海防掛勘定奉行・川路佐衛門尉聖謨(としあきら)、海防掛大目付・筒井肥前守正憲、海防掛勘定奉行・水野筑後守忠徳らと、ハリスからの親書について協議する。

その対応に追われている間、正弘は39歳の若さで逝去。。。。ストレスが過ぎたのか・・・・。

 

阿部正弘は、色々な歴史の本の中で、なんだかんだ言ってもアメリカと戦わずに開国につなげた立役者、という評価をされている。ストレス多かったんだろう・・・。

 

安政4年10月7日、ハリスは江戸に入り、13代将軍・家定(家慶の子。妻・篤姫)に謁見。ハリスは、家定との謁見の後、堀田正睦の屋敷を訪ね、イギリス脅威論とアメリカと通商条約を結ぶことの意義を熱弁。その後、1か月の間に15回の交渉をかさねた。アメリカは、江戸・大坂の開港を要求。江戸を開港したくない目付系や正睦は、神奈川の開港を支持。しかし、幕府側で妥協案が決まらず、こうなったら「朝廷に勅許をうけよう」という話に。幕府の統制力低下の現れ。

 

この時幕府は、海外対応だけでなく、家定に実子がいないことから継嗣問題でもゆれていた。

 

南紀派:紀州藩主・徳川慶福(12歳)を推す。支持者、井伊直弼ら。
・一橋派:一橋慶喜水戸藩、21歳、徳川斉昭の第七子。人望あり)支持者、松平慶永(春獄)、堀田正睦ら。

 

条約や継嗣問題を勅許にゆだねた堀田正睦だったが、南紀派(井伊直弼)が大奥を取り込んで徳川慶福の継嗣が内定し、開港の妥協案もまとまらず。

そうしているうちに、1858年 6月19日、日米修好通商条約が調印された。不平等条約
井伊直弼は、斉昭、慶永らを処罰して、一橋派の一掃をはかった。

幕府は、ハリスらの反対を無視して、横浜築港に着手。

1859年7月1日(安政6年6月2日)、横浜港開港。

と、41巻はここまで。。。。

 

やっぱり、ごちゃごちゃしている幕末。なんだかんだと、井伊直弼が自分の思うように大奥も取り込んで進めていったところまで。そして、ますますごちゃごちゃする世界へ、、、。