『マンガ日本の歴史 42 倒幕、世直し、御一新』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 42
倒幕、世直し、御一新
石ノ森章太郎
中央公論社
1993年4月5日 初版印刷 
1993年4月20日 初版発行

 

マンガ日本の歴史41 激動のアジア、日本の開国』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

41巻では、とうとう、開国を迫られる日本。戦争にならない開国を目指して奮闘した阿部正弘は、若くして逝去。。。変わって、幕府を動かそうとする井伊直弼。とうとう、不平等条約である、1858年 6月19日、日米修好通商条約が調印された。42巻では、とうとう王政復古の大号令まで・・・。

 

目次
序章 桜田門外の変
第一章 公武合体尊皇攘夷
第二章 草莽(そうもう)の志士たち
第三章 尊王攘夷から倒幕へ
第四章 大政奉還とええじゃないか
第五章 王政復古と御一新

 

序章で、いきなり桜田門外の変1860年安政7年)3月3日、大老彦根藩井伊直弼は、尊皇攘夷をさけぶ水戸 ・薩摩の藩士らによって、暗殺された。直弼、46歳。

江戸末期というのは、怖ろしい時代だ・・・。

 

老中の 安藤対馬守信正、脇坂中務大輔安宅(やすおり)、内藤紀伊守信親(のぶちか)、松平和泉守乗全(のりやす)たちは、混乱を避けるために、しばし直弼の死を伏せた。生きているかに装って、3月30日に、大老を更迭し、直弼によって退けられていた久世大和守広周(ひろちか)を老中に復活させ、後に、直弼の死を発表した。

このころ、時勢に不満をもって現状打破を望む藩士たちは、「尊皇攘夷」にはしった。外国をやっつけろ!派。

草莽の志士たちの登場。

 

薩摩藩では、大久保利通西郷隆盛らがでてくる。利通は、島津久光(藩主の実父)にみこまれて起用され、隆盛は、島津斉彬の死後、保守的空気に絶望して、一度は入水自殺。ところが助かってしまい、奄美大島に島送りになっていた。

 

土佐藩では、安政の大獄で藩主山内豊重(容堂)が、謹慎処分をうけ、大打撃。坂本龍馬中岡慎太郎武市瑞山らの新しい世代が登場。

 

長州藩では、高杉晋作久坂玄瑞桂小五郎木戸孝允らの登場。

 

1860年5月、アメリカに渡っていた「咸臨丸」が 品川に帰港。乗っていたのは、勝海舟

 

このころ、安藤・久世政権の幕府は、激しくなる 尊王攘夷派の圧力をかわすために、「公武合体」を画策。将軍家茂正室に、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を迎える計画を進める。朝廷側で積極的に動いたのは、岩倉具視。最初はこばんでいた孝明天皇をこれからは朝廷が実権をにぎるためにも、、、と説き伏せる。

 

しかし、公武合体に反対する尊皇攘夷の圧力は増すばかり。このころ、多くの外国人、外国公使館が襲われた。ヒュースケン事件、高輪東禅寺・イギリス仮公使館襲撃事件、、、生麦事件もその流れの一つ。

 

幕府が弱体していくなか、薩摩から島津光久が動いた。公武合体を支持する薩摩藩として、京都に向かった。しかし、薩摩藩士の中には、公武合体に反対する尊攘派がいて、内部で対立していた。やむなく、薩摩藩士が薩摩藩士をうつという「寺田屋事件」発生。

島津久光は、岩倉具視邸で朝廷と直接折衝。このとき、大久保利通は初めて岩倉具視と出会った。

久光は、勅使を随い、京都から江戸へ。幕府は、勅命を受け入れ、 一橋慶喜将軍後見職松平慶永政事総裁職とした。そして、目的をはたした久光が帰京する途中でおきたのが、生麦事件。久光の行列に下馬しなかった4人のイギリス人を、家臣が殺傷。この事件は、久光の意に反して尊攘派の象徴のようになってしまった。

 

久光が京都に戻ったころには、朝廷の様相が一変。公武合体派が失脚、三条実美尊攘派が実権を握るようになっていた公武合体推進派の岩倉具視も、蟄居を命じられていた。以後、5年間、岩倉具視は、謹慎生活を余儀なくされる。

 

尊攘派は、攘夷論を振りかざして、市中では「天誅」という名の暗殺が繰り広げられていた。
やっぱり、江戸末期、こわい・・・。

 

1862年文久2年)3月24日、坂本龍馬脱藩。下関で、高杉晋作に会う。その後、高杉晋作は、5月に上海にいって、植民地化されている中国の現状を目の当たりにする。外国はけしからん!と、強烈な攘夷論者になってかえってくる。

 

龍馬は、熊本に行って開国の理論家・ 横井小楠に話をきく。外国とむやみに戦ってはいけないという小楠の言葉に、龍馬は大きく影響を受ける。8月、江戸で勝海舟を訪ねる。小楠に影響され、海舟に弟子にしてくれといいにきたのだった。

 

1862年11月、朝廷は三条実美尊攘派)を江戸に派遣し、攘夷の断行をせまる。幕府は、攘夷の実行と、将軍家茂の上洛を約束。

 

将軍上洛に先立ち、尊攘派対策として京都守護職が設置され、 会津藩主・松平肥後守容保(かたもり)が任命された。そして警備のために関東・東北から浪人を募集したところ、定員50名のところへ300名が押し掛けた。浪士組を結成。

 

1863年2月8日、浪士組は京都に向けて出発。後に「新撰組」の中心人物となる 近藤勇土方歳三沖田総司などは、平隊員として参加していた。京都につくと、浪士のひとり清河八郎が真の目的は尊皇攘夷だといいだし、空中分解。のこったメンバーが京都守護職支配下にはいって、「新撰組」となった。新選組は、佐幕過激派。幕府のような独裁体制を支持しようとした。芹沢鴨近藤勇土方歳三ら24名。

 

1863年3月4日、将軍家茂が上洛。将軍の上洛は、三代家光以来229年ぶり。和宮はすでに正妻となっていた。この時すでに、天皇と朝廷の政治的価値が高まっていて、家茂は攘夷期限を5月10日と約束させられる。この5月10日の期限に呼応したのは、長州藩。下関海峡でアメリカ商船を砲撃。が、6月1日は横浜からきたアメリカ軍艦に長州の亀山砲台はあっさり破壊される。長州の軍艦も撃沈され、1時間余りで長州軍全滅。さらにはフランス軍も来襲。長州藩は惨憺たる被害に遭った。

そして、これを見ていた高杉晋作は、武士の力だけじゃだめだとみて身分の上下を越えた誰でも参加できる兵「奇兵隊」を結成し、攘夷実現をめざそうとした。

 

7月2日には、薩摩でもイギリスとの戦争が始まる。生麦事件謝罪と賠償をもとめてイギリス艦隊が薩摩湾に押し寄せ、薩摩との戦闘が開始。折からの暴風雨の中砲撃合戦。イギリス63名、薩摩藩17名の死者をだした。この戦いで薩摩藩は、こりゃたまらん、と開国の立場へと変化。戦いを通じて、イギリスと薩摩藩は急激に接近することとなる。

 

8月、土佐藩では、孝明天皇を支持する攘夷倒幕に蹶起。

 

公武合体を推進しようとするのは、藩主や上層部。尊攘運動は、下級公家や下級武士、豪農、豪商、知識人らを中心としていた。

 

1863年8月18日深夜、公武合体をすすめる中川宮朝彦親王京都守護職松平容保らが、突然参内。内裏に通じる9つの門が会津・薩摩・淀藩士で一斉に閉ざされた。明け方、大砲が響き、尊攘派公家を締め出す。8・18政変の始まり。

薩摩、会津を中心とした公武合体派が、孝明天皇(攘夷親政に反対、政治は幕府にまかせたかった?)とともにクーデターを実行したのだった。

この時、朝廷と共に公武合体をすすめようとしたのは
徳川慶喜
松平慶永
島津久光
・山内豊重
伊達宗城
松平容保
参与会議を設置して朝政に参加したが、三か月後に、攘夷問題の思惑の行き違いで解体。

一方、1863年9月、 新撰組芹沢鴨新見錦を粛清し、近藤勇が実権を掌握し、尊攘派と徹底的に対決。

 

1864年6月5日夜、池田屋事件発生。池田屋には、長州藩桂小五郎含む)、肥後藩土佐藩尊攘派が集まっていた。そこを、新撰組京都所司代守護職が襲う手はずになっていたが、守護職の到着が遅れて、新撰組だけで切り込むこととなった。桂小五郎は、逃げて対馬藩に潜伏。しばし、潜伏生活をおくることになる。

 

1864年7月19日、禁門の変蛤御門の変長州藩池田屋事件の恨みと、禁裏防衛の薩摩・会津・桑名軍と激突。長州藩は、尊攘運動の主導権奪回を狙ったが、わずか一日で長州藩は大敗。久坂玄瑞は自刃。

 

朝廷は直ちに幕府に「長州追討」を命じる。が、その時すでに長州はイギリス、フランス、オランダ、アメリカ四国艦隊に攻められていて、長州藩内で「幕府への恭順派」が主導権をにぎり、一戦も交えずに幕府側の勝利となった。

潜伏していた高杉晋作は、九州から戻り、 伊藤俊介(博文)、山県狂介(有朋)らとともに 騎兵隊を率いて挙兵し、恭順反対を呼び掛けた。尊王倒幕へと傾く。そのためには藩の兵備強化が必要として桂小五郎木戸孝允)は、武器の調達にはしる。

そして、坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋で、長州藩薩摩藩の助力の元、武器の購入に成功。
薩摩藩は、イギリスとの戦争の後、イギリスと仲良しになって武器を仕入れていた)

 

そして、坂本龍馬立会いの下で、薩長同盟が成立。

幕府が、第二次長州征討を命じた時、薩摩藩はそこに加わらず、高杉晋作は幕府に抵抗。征長軍は、各地で大敗。幕府の思惑の通りにはならず。

加えて、各地で米高騰問題などで一揆多発。

将軍家茂は、長州再征に失敗、全国的な農民蜂起に悩まされ、失意のうちに1866年7月20日大坂城で死去した。

 

1866年(慶応2年)12月5日、一橋慶喜徳川幕府最後の将軍についた。その直後、
1866年(慶応2年)12月25日、孝明天皇慶喜の良き理解者)が急逝。(毒殺されたといううわさあり・・・)

1867年(慶応3年)1月9日、16歳の 睦仁(むつひと)親王明治天皇)が践祚した。

 

天皇即位の大赦で、多くの廷臣、岩倉具視(王政復古の新政をめざす)も再び表舞台に戻ってきた。

同じころ、土佐藩は佐幕一本やりからの転換を模索し、坂本龍馬も新しい路を模索していた。後藤象二郎の奔走で、龍馬と中岡慎太郎の脱藩が許され、龍馬の「亀山社中」は土佐の「海援隊」となった。

龍馬は、新しい国の体制案を考えていた。その中には、 政権を朝廷に返すということも含まれていた。その大政奉還と公議政体論を骨格とした「船中八策」を藩の方針とするように動いた。

薩摩藩の武力による倒幕論を抑えるため、龍馬は走る。そして、坂本龍馬後藤象二郎西郷隆盛大久保利通らは、「薩土盟約」を結ぶ。大政奉還への合意。
ただ、この時、大久保利通らは、幕府が大政奉還を拒否するだろう、と信じていた。拒絶したら、その時は幕府と手を切って、挙兵に踏み切る決意だった。

 

1867年7月14日、 東海道 三河国、天から 伊勢神宮の御札が降ってきた。(と言われている)村人は、 お札の祟りを恐れ盛大な祭りを催した。それは別の100年祭りと相まって盛大な祭りとなった。次第に西にも東にもひろがり、人びとの鬱屈した世直し願望を、一揆とは違った形で爆発させ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と、老若男女が狂喜乱舞した。

 

10月13日、土佐藩の働きかけにより、慶喜大政奉還を受け入れる。翌日、慶喜大政奉還を朝廷に奏請。武力討幕派の先手をうって、新しい政権の主導権を握るつもりだった。
一方で、武力討幕派(大久保、岩倉ら)は主導権奪還にむけて、別の計画を着々とすすめる。

 

そんな中、悲劇が・・・。
1867年(慶応3年)11月15日、 坂本龍馬中岡慎太郎が 京都 「近江屋」で幕府の刺客に襲撃され、龍馬は即死。 奇しくもその日は龍馬の誕生日だった。中岡は翌々日に落命。龍馬33歳。慎太郎30歳。

 

1867年12月8日、松平慶永らの参加した朝廷会議で、岩倉具視三条実美ら公卿政治犯の全員赦免が決定される。大久保、岩倉らによる武力討幕派のクーデターの開始岩倉具視は5年ぶりに表舞台に立つ。

岩倉らは、明治天皇に「徳川慶喜大政奉還はまやかしだ・・・」と吹き込んで、「王政復古」を宣言し、直ちに幕府と摂関を廃絶した。同時に、国事用掛、京都守護職などもすべて廃絶と宣言された。

新しい政治体制は、
「神武創業ノ始ニ原ツキ」
とされ、大政奉還による公議政体制とは、全く異なるものだった。まさに、岩倉らの王政復古クーデター。

 

新たに、総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」となった廷臣と大名が明治天皇の前で「小御所会議」を開催。徳川慶喜に辞官・納地を奏請させることを決議。天皇統治以外の過去のすべてを否定。近代日本の出発宣言だった。

 

大政奉還から王政復古のクーデター、そして戊辰戦争へ。

大坂城で反撃の機を窺っていた慶喜は、会津藩を中心とした強硬派に押されて新政府(岩倉ら)に対して決戦を求めた。

 

1868年(慶応4年=明治元年)1月3日、慶喜は1万5千の大軍で京都へ進撃。新政府は薩長を中心に5千の軍で鳥羽・伏見で迎え撃った。わずか3日間で、新政府軍の圧倒的勝利。6日深夜、慶喜は密かに大坂城を脱出。軍艦「開陽丸」で江戸に逃げ帰った。

この5千の兵で新政府が勝利したことに寄与したのが「錦の御旗」と言われている。

 

2月9日、新政府は「東征大総督」に有栖川宮熾仁(たるひと)親王を任命。西郷隆盛が参謀となり、薩長を軸に5万の兵で江戸へ進撃を開始。西郷隆盛らによる江戸総攻撃は3月15日と計画された。

 

3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛が江戸三田・薩摩藩邸で会談。

「江戸を焦土とするな」という勝の説得に西郷が同意。

「明日の総攻撃は中止じゃ」ということで、4月11日の江戸無血開城につながる。

 

勝海舟西郷隆盛が合意にいたった3月14日、京都では新体制の基本方針、五箇条の御誓文が発表された。
1.広く議論を行う (万機公論)
2.身分に関わらず協力して国政を行う
3.官民それぞれが志を達成できるように努める
4.旧来の悪い慣習を改める(天地ノ公道)
5.知識を世界に求め皇室の基礎を固める

 

一方で、新政府に対する旧幕臣や脱藩者のゲリラ戦が各地で展開。江戸は、彰義隊が薩賊殲滅を叫び、上野戦争となる。それは、江戸総攻撃の代理戦争となった。

奥州では、奥羽列藩同盟仙台藩等25藩)が形成された。

会津では、松平容保が新政府に戦闘を宣言。軍制の様式化につとめ「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」など年齢別軍隊を編成。

 

今更気が付いたけれど、白虎隊は4隊の中の一つで、その4つの名前は、「方位の四神」(東西南北の四方を守る神(守護神))からつけられていたのだ。。。

 

会津藩は、9月22日に敗北。
奥羽列藩同盟も次々と敗れた。

 

江戸は東京と改称され、9月8日「明治」と改元1世1元となった。

10月12日、天皇が東京に到着。13日に江戸城に入る。以後、東京が首都となった。

 

10月20日箱館五稜郭を拠点に、榎本武揚が「新政府は薩長の独裁」と非難して独自の体制を求めたが、1869年5月18日に新政府軍に投降。

 

一年半近くに及んだ戊辰戦争が終わり、本格的に新政が始まった。土方歳三は、榎本武揚とともに五稜郭で新政府軍と戦った側にいたが、新政府に起用されて陸軍奉行並となる。

 

西郷どん西南戦争で自刃するのは、まだ8年先のこと・・・・。 

 

いやぁ、中身の濃い42巻だった。

じっくりと流れをおっていかないと、誰が誰の味方で、いつ方針を変えたのかがわからなくなる。。。。けど、だいぶ、頭の中が整理された。明治維新はクーデターってことなんだな。。。

 

っていうか、テロだよな・・・・。