『マンガ日本の歴史 現代篇 1 明治国家の経営』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 現代篇 1 明治国家の経営
石ノ森章太郎
中央公論社
1993年12月5日 初版印刷
1993年12月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 44 民権か国権か』の続き、、、と言っていいだろう。現代篇。

megureca.hatenablog.com

 

目次
序章 初めての総選挙 
第一章 アジア初の議会政治 
第二章 列強と日清戦争
第三章 内外の戦後経営

 

1889年(明治22年) 2月11日、大日本帝国憲法発布。 現在の建国記念の日。よく考えると、これが建国というのも、どうなのだろう???という気もするけど。アメリカのトマス・ジェファーソンを中心に起草された「アメリカ独立宣言」1776年7月4日をもって、7月4日が独立記念日っていうのとは、だいぶ違うような・・・・。

 

そして、さまざまな勢力が、300の議席を目指して選挙活動を開始。 中江兆民は、「男子普通選挙論」を唱えた。なんで、男子だけなんねん!と突っ込みたくなる。

当時、人口約4000万人で、 選挙人の資格を有するものは 45万人に過ぎなかった。

 

当時の総理大臣は、 山縣有朋。 選挙運動では各地で 民権派と反民権派が対立していたが 立志社板垣退助がつくった政治結社)以来の歴史を持つ高知県でも、自由派、国民派露骨な構想が続けられていた。

 

1890年(明治23年) 7月1日、 日本で初めての総選挙が実施された。 92%の投票率。今では考えられない・・・・。それはそれは、みんな興味深々だったのだろう。そりゃそうだ。初めて、参加できるとなったら、、、、当たり前の既得権になっている私たちとは意識が違う。

議会開設までに再組織された 立憲自由党中江兆民がリーダー)と立憲革進党が獲得した議席は171。 政府に対立する勢力が過半数を上回った。それは、藩閥政治と議会の戦いの始まりとなる。

 

1890年(明治23年)11月25日 第1回帝国議会招集。25日に貴族院伊藤博文議長)11月26日に衆議院が成立し、初めての両院が成立した。26日に開院式が行われ、新聞記事によると身動きの取れないほどの群衆が群がり、お祝いムードの中、祝砲も討たれた。

 

総理大臣・山縣有朋、 大蔵大臣・松方正義、 法制局長官 井上毅の三人が、総理私邸(椿山荘)にあつまって、予算の討議をおこなった。松方正義大蔵大臣による 財政方針演説では、軍事力整備のための予算が伝えられた。予算審議は、もめにもめ、、、令和と変わらない?法案を通過させるために、政府は、板垣退助らを巻き込む作戦にでる。

 

反政府勢力として動いたのが、河野広中中江兆民、大井憲太郎らだった。が、土佐派の寝返りで、法案は可決。中江兆民はショックで議会を去る。

 

明治24年4月29日、山縣有朋が辞任、伊藤博文を首相に推薦したが、伊藤は固辞。5月6日に、松方内閣が誕生。 

 

明治24年 5月11日、 ロシア皇太子 ニコライ=アレクサンドロヴィッチシベリア鉄道起工式出席を兼ねて3月に長崎へ上陸し、 鹿児島・神戸・京都・奈良 などを楽しんだ後、東京で天皇と会見することになっていた。ところが、津田三蔵という巡査が大津で皇太子に切りつける事件勃発。この失態に、政府は津田の死刑によってロシアの怒りを鎮めようとしたが、結局は「狂信者」の失態という言い訳にした。最終的にロシアの圧力にも屈することなく、「津田三蔵を無期徒刑」とした。司法の独立を守った。

 

この時期、 田中正造による「足尾銅山 鉱毒 事件に対する質問書」が提出された。中学生くらいの社会の教科書で最初に知っただろうか、私の中で田中正造の正義は、子供ながらに、こんな立派な人になりたい、と思ったものだ・・・。まったく司法とは違う世界に進んだけど。昭和かと思っていたけど、明治の話だった・・・。

 

予算案だけでなく、その後も、政府と議会の対立は続いた。「鉄道敷設法」など、議員が地元の利益を考え始めるようになった。

政権も閣内不一致で松方内閣が総辞職。 第2次伊藤内閣 へ移行した。

 

総理: 伊藤博文
外務:  陸奥宗光
内務:井上馨
陸軍:大山巌
逓信黒田清隆

だんだんと、司馬遼太郎坂の上の雲』の時代に近づいてくる感じ・・・。

政府は、分裂する議会を収拾するために、天皇詔勅を利用する。官吏・軍人の俸給も10%を6年間献納させて、軍事費にあてるよう和協の道により政府に協力せよ、というものだった。これにて、予算成立。

 

1893年陸奥と伊藤は、不平等な安政条約(幕末の安政5年に江戸幕府アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ不平等条約の総称)を対等な条約に改正するための作戦に入る。

 

まずは治外法権の撤廃と関税自主権の回復をめざす。 青木周蔵駐英公使は10月からイギリスと改正交渉に入った。が、 第5回帝国議会で、 立憲革進党などが、内地雑居、時期尚早を唱えて反対。またしてももめて、議会解散へ。

 

話は、朝鮮や清国に対する政府の弱腰への非難へとなり、日清戦争を支持する土台ができあがっていった。朝鮮から清国を一掃すべし!との流れ。


そのころ、朝鮮では東学東軍の戦いが反日闘争に変化し、内乱は収まりつつあった。清国としては、日本の介入は否、という姿勢。欧米諸国、特にロシアとイギリスが、清国と日本の調停に乗り出してきたが失敗。イギリスは、朝鮮で清国と戦うよりも、と「日英通商航海条約」を提案してきた。1894年7月16日に調印。

イギリスとしては、日本と手を組んでおくことで、南下してくるロシアの防波堤となることを期待していた。


1894年8月1日、日本は清国に対して宣戦布告。9月15日 平壌攻撃。 9月16日 平壌陥落。 日本軍戦死者 180人、清国軍戦死者 2000人。 10月24日、日本の第一軍は鴨緑江(アムノッカン)を渡って清国領へ侵入。第二軍は 花園口(ファユエンコウ)へ上陸。12月、 遼東半島の大部を占領。 11月21日、第二軍が旅順を占領。日本軍は次々と清国軍を破って 進撃していった。

 

日清戦争は、清国に対する優越感が醸成されていった。中国文化の影響下に育った日本人が持つ劣等感の裏返しだったともいえよう、、、と、著者談。

 

日清戦争福沢諭吉は「文明と野蛮の戦い」、 内村鑑三は「義戦」と擁護した。そうか、、、そうだったのか。。。。、国木田独歩正岡子規の特派記者としての記事にも 日清戦争に対する批判的な視点はないとのこと。

 

2月12日 北洋艦隊の降伏によって、日清戦争は事実上終結。司令官の丁汝昌(ティンルーチャン)は、服毒自殺。下関で講和会議。 清国全権大使は李鴻章、日本全権大使は伊藤博文。両者は、 西欧列挙にあなどられないように同盟するべしという話し合いを持つ。が日本側は強硬姿勢をくずさず、 4月17日 日清講和条約は調印された。そこには、 遼東半島と台湾・澎湖(ポンフー)諸島を日本に割譲、との条件も含まれた。

 

そして、三国干渉である。

4月23日、外務省にロシア公使がやってきて、林董外務次官に 遼東半島の返還を迫る。フランス、イギリスの公使も同様に押し掛けてきた。

5月4日、日本国政府は、京都における閣議遼東半島の永久放棄を決定。翌日、ロシア、フランス、イギリスに伝え、5月8日に、清国と日清講和条約の批准書を交換した。

 
結局のところ、三国干渉に妥協したことで、国民の感情は、「反露」となっていく。

 

日本は、日清講和条約にて台湾を手に入れたがゲリラを含む反日運動で苦戦することとなる。同時に、朝鮮では、ロシアと関係を深めて、日本排斥を狙っていた王妃の動きが活発となり、日本は、王妃暗殺を企てる。実施には、内部のクーデターかのように装った、汚いやりかた、、、。読みながら、恥ずかしくなる。。。それをすすめたのは、井上の後任公使三浦悟楼。世間の流れに逆らえなかったか・・・・。

 

まぁ、台湾でも、朝鮮でも、日本は決して歓迎されてはいなかった。それが、1990年代の石ノ森章太郎マンガでの説明。

 

日本政府は、二次議会以降、産業育成、軍事的要請から製鉄所の建設を求めてきたが、日清戦争を経て、ようやく第九議会にて予算が通貨。官営八幡製鉄所の第一溶鉱炉に火が入れられたのが、明治34年、2月5日。

 

明治29年板垣退助自由党総理を辞任して、伊藤にたのまれて内務大臣に就任。だが、板垣と大隈との確執により、各論不一致で伊藤が辞任。第二次松方内閣が成立。大隈が外務大臣として入閣。

第10回帝国議会では、金本位制のための貨幣法案、新聞紙条例などが成立。新聞紙条例では、内務大臣の発行禁停止、発売の行政処分を廃止した歴史的に画期的な改正。

だが、次年度財政計画で、地租増徴をめぐってまたも紛糾。第11回帝国議会で、内閣不信任決議案をつきつけられ、松方内閣は衆議院は解散、総辞職。

いやぁ、、、いそがしくて、ついていけない・・・・・。

 

そして、第三次伊藤内閣。
まぁ、色々あったんだね・・・・。

 

世論が戦争の空気を盛り上げたという事実。これは、先の大戦も同じこと。。。。この残念な歴史から、私たちは学ばなくてはいけない。。。。軍部の暴走を招いたのは世論だったということ。