意志の倫理学 カントに学ぶ善への勇気
秋元康隆
月曜社
2020年1月25日 第1刷発行
『いまを生きるカント倫理学』と同様に、図書館で 探して借りた本。シンプルな装丁の ソフトカバー 単行本。
裏表紙には、 概要が説明されている。
”カントは、 道徳的善の姿、ならびに、 それを探求する道筋について明らかにした。 本書では、 カントやその批判者たちから学びつつ、 そこから我々が生きる上での糧が得られることを示す。 第一部では、 カントの言葉を順序立てて 理論的に説明する。 第ニ部では、 そのカントへの批判を紹介し、 退けていくが、すべての 批判が回避できるわけではない。 第三部においてはカントの至らなかった点、そしてその改善策を提示していく。 第四部では他の倫理学説との比較を通じて、カント倫理学の特質について論じる。 最後に第五部 において、彼の啓蒙論と教育論に焦点を当て、カント思想の今日的意義について明らかにする。
こうした検証を通じて本書が明るみに出そうとするのは、 利己性を排除した純粋な意志のうちに善性を見いだす「意志の倫理学」である。 意志することに才能、運、結果といった偶発的要素は必要ない。己の信念を行動に移す勇気と決意さえあれば、確実に道徳善をなすことができるのだ。”
本書の著者紹介には、秋元康隆[アキモトヤスタカ]
1978年生まれ。高校卒業後に一度会社勤めをしたものの、日本大学の哲学科に入学。同学大学院において修士課程修了後、トリア大学教授であり、カント協会会長であるBernd Dorflinger教授のもとで博士論文を執筆。博士号取得後も講師として同学に残り、カント倫理学のゼミナールを担当し、現在に至る。
とある。
目次
はじめに
用語集
第1部 カントの言葉を頼りに考えてみる
第2部 伝統的なカント倫理学批判
第3部 カント倫理学への批判的考察
第4部 他の倫理学説との関係
第5部 カントの啓蒙思想と教育論
感想。
これまた、よくまとめられた一冊。
カントの倫理学が書かれているというより、著者がどのように理解しているか、がまとめられた本。タイトルは、「意志」があってこその道徳善、というカントの基本的考え方が反映されているのだろう。
用語集では、カント倫理学に使われる定言命法、仮言命法、義務、道徳法則、格率などについて、シンプルに説明されている。
第4部の他の倫理学説の比較があるのが、よりカントの考え方を理解するのに役立つ。功利主義のミル、卓越性を重視した アリストテレス、公正な正義論を唱えた ジョン・ロールズ、討議倫理学で他社との相互承認の重要性を説いた ユンゲル・ハーバーマスと比較している。
時々、図解されていて、これがまた、シンプルな絵と文字で、わかりやすい。目次も、各部に節が分かれていて、目次をみるだけでも大枠を理解できるかもしれない。テキスト的に副読本?に良い本だった。
そして、カントは「自分で考える」ことはだれでもできるのに、それをしないことを道徳悪といった、という究極の私的理解に行きついた。間違っているかもしれないけど、やっぱり、「考える」ということを抜きにして、道徳善はあり得ない、ということ。
アリストテレスが言うように、卓越性(優れていること、頭がいい、外科医なら手術がうまい、大工なら腕がいい・・・)がなくては、道徳善は為せないかもしれない。どんなに患者の手術をして救いたいという気持ち(意志)があっても、腕がなければ、救えない。でも、カント的に考えると、卓越性だけでは道徳善にはならないということ。「手術をすれば儲かる」と考えて、高度な手術をおこなう医師に道徳善はあるか?おそらく、多くの人が善ではないと感じるのではないか。
一方で、著者は、卓越性の重要性はあると認めている。本人の学生時代のアルバイトの話がでてきた。そこの店長は、自分のミスを認める心の広い人で、みんなから慕われていた。では、当時の自分が同じようにミスをみとめたらみんなから褒められたか?否。いつもミスばかりしていたので、「そんなの当たり前だ。おまえのミスだ。」と言われただけだろう、と。つまり、その店長は、誰よりも仕事ができた。卓越性があった。だからこそ自分のミスを認めるという行為が「徳」とみられた。そして、そのような「徳」を成すためにも、卓越性を身に着ける努力は大事なのだ、ということ。
なるほど。
他にも、わかりやすい例を挙げて、論じてくれている。
道で倒れている人をみて、助けるか?
ボランティアをするか、しないか?
公衆トイレを汚してしまった。そのままにして出るか、綺麗にしてでるか?
いずれも、結果だけをみて、よいとかわるいとか言えない、というのがカント倫理学。
第1部では、そもそもその問いは正しい問か?という例がでてくる。実際に、大学で学生たちに投げる質問だそうだ。
Q.2人の医者がいるとします。 あなたはどちらの方がよい医者であると思いますか?
1) 浜田君は収入や ステータスを求めて医者になり、そつなく仕事をこなしている。
2) 松本君は人のために生きることを志し 医者になったが、仕事はあまりできない。
この質問では、「よい医者」の定義がされていないので、人によって答えが違って当たり前、ということ。そして、 多くの人はそれが何を意味しているのかよくわからないまま、「 何がよいか」「 どちらがよいか」という判断を下しがち、ということ。
なるほどなぁ、と思う。
好きとか嫌いなら、主観でこたえられるけれど、「よい」「わるい」は、時と場合による。
人間としては、松本君が「よい」ひとかもしれないけれど、手術してもらうなら、浜田君と、多くの人が思うだろう・・・・。
本書も、部ごとに、さいごに「まとめ」が付いている。一般の人にわかりやすく説明しようという著者の姿勢が、「よい」と私は感じる。
気になったところ、覚書。
・ 自由について: 本来の意味における自由とは、ただ感性的である自らの欲求に従って生きることではなく、理性的に考え、判断を下し、感情に流されずに行動できることなのです。つまり 自分自身を律することなのです。
・ アイヒマンの事例から: 倫理的責任と法的責任は全く尺度が違うものであり、混同してはならない。
・黄金律=The Golden Rule: 「 自分がして欲しいことを他人にもせよ」「 自分がされたくないことは他人にもするな」
正しいことのようにも聞こえるが、「自分が何をしてほしいか」は、人によって異なる。それをバーナード・ショーは茶化して
「 自分が欲することは相手にしてはならない。 人の好みは同じでないから」と言った。
・間接義務の役割。自身の幸福の確保の重要性: 倫理的善をなすためには、まず自分が満たされている必要がある。自分の幸福を確保することは、倫理的に価値がある。
私はこの考え方が好きだ。 周りの人を幸せにしたければ、 まずは自分が幸せになれ!ってこと。自分に余裕がないと、 周りのことなんて気にする余裕ができない。 周りが見えていない人の多くは、自分が幸せな状態ではない。これは、金銭的なこと、健康についてもいえる。
・ カントの掲げる3つの最上級の格率(定言命法)
1. 自分で考える
2. 自ら あらゆる 他人の立場になって考える
3. 常に自分自身と一致した考えをする( 自分自身をごまかさない)
・ 善きサマリア人の法: カナダや アメリカのいくつかの州には実際に存在する。聖書のルカ書にでてくるイエスの話「 善きサマリア人のたとえ」に由来する。
強盗に襲われ、 瀕死の状態にある旅人に対して( 身分的には高いと考えられている)レビ人や司祭は 見て 見ぬふりをして通り過ぎ、 その後通りかかった( 身分的には低いと見なされている) サマリア人は旅人を介抱した。
「善きサマリア人の法」は、 窮地の人を救うために無償で善意の行動をとった場合、 たとえその対処の仕方に過失があったとしても、結果責任を問わないことを謳った法律。
・カントの「啓蒙とはなにか」:ドイツの大学生なら暗唱できるほど有名な言葉。
”啓蒙とは人間から自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。 未成年状態とは他人の指導なしには自分の悟性を使用し得ない状態のことである。 この未成年状態の原因は悟性の欠如ではなく、他人の指導なしに 自分の悟性を使用する決意と勇気の欠如にあるとすれば、未成年状態の責任は本人にあるのである。”
つまり、未成年状態とは、自分の頭で考えようとしない人間。 啓蒙された人間とは 自分の頭で考える人間。
うん、なるほどなぁ、である。
他の倫理学との比較をしてみると、どれもそれなりに筋が通っているし、正しいとも思う。ようするに、「たったひとつの正しいこと」なんていうものはないのだろう。
カントの言うことにも、正しいことと間違っていることがあるかもしれない。ただ、それも時代の変化で価値観が変わってきたことによって、判断が分かれるものもあるだろう。
唯一つ、普遍だな、とおもうのは、やっぱり
「自分の頭に考える」
だ。
思考停止は、悪だと思う。
まぁ、私だって思考停止になる時はある。でも、、それは、再び自分のCPUを稼働させるために必要な休息、、、、ってことで・・・・。
自分の頭で考えよう。
そういえば、池田晶子も、ひたすらにそれを言っていたな。
禅の問答も、大事なのは「自分の頭で考える」ということ。
やっぱり、「自分の頭で考える」は、普遍的道徳善だと思う。
