『マンガ日本の歴史 現代篇4  政党政治の没落』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 現代篇4  政党政治の没落
石ノ森章太郎
中央公論社
1994年2月5日 初版印刷 
1994年2月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 現代篇3 大戦とデモクラシー』 の続き。3では、大正デモクラシーの盛り上がりから、昭和が始まるところまで。

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目次
序章 モボ・モガの時代
第1章 ゆらぐ政党政治
第2章 満州事変ー 擡頭する軍部 
第3章 5.15から2.26へ

 

1925年 大正14年3月22日 社団法人東京放送局から電波が初めて飛んだ。ラジオの誕生。
7月12日には本放送が開始された。

 

JOAK, JOAK・・・
って、懐かしい。。。。今でも、やっているのだろうか???なんと、ちょうど、100年前じゃないか。当時の人びとにとって、重要な情報源のラジオの放送が始まった。

この年の4月22日に治安維持法 5月5日に普通選挙法が相次いで交付された。

関東大震災(1923年、大正12年)からの復興は目覚ましく、東京の風景は一変した。休みの日に三越にいったり、帝劇に行ったり。 人々の生活や風俗も近代化・西洋化され、その影響は、 住居、 服装、 食事にも及んだ。そして、登場したのが モダンボーイ、モダンガール。

マス・コミュニケーションの 発達 は目覚ましいものがあり、ラジオに加えて、 新聞や雑誌が 発行部数を格段に伸ばし、人々は情報に接する機会が飛躍的に高まった。

 

大正15年に改造社から出版された現代日本文学全集』63巻を嚆矢として大流行したのが円本(一冊1円の本、全集)だった。

住まいが西洋化して、円本がインテリアだったっていう話が三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にもでてきた。

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ちなみに、本日、7月10日は、岩波文庫の創刊日。1927年、昭和2年のこと。

 

謡曲、トーキー映画、 同潤会アパートメント、なども、この時代に生まれた。

昭和元年、 東京の人口は10年前の176万人から465万人にまで増えた。
ちなみに、2025年の今、1426万人。。。。

華やかな都市文化 大衆文化の発達をバックに幕を開けた昭和だが、政治・経済の分野には暗い影が忍び寄っていた。戦争の足音・・・。

 

護憲三派憲政党加藤高明政友会田中義一革新倶楽部)内閣は、 治安維持法 普通選挙法を成立させたち直後に解散。ついだのは、加藤高明憲政党)の単独内閣、そして、 若槻礼二郎(憲政党)内閣。

 

ふたたび、憲政党に対して、政友会は政敵となる。が、若槻は、護憲三派は協力するべきだといい、互いに協力し合う方向へ導く。

 

第一次世界大戦後、日本経済は慢性不況へと一変した。

 

1927年、中小銀行があいついで倒産し、金融恐慌。対策をめぐって、内閣がふたたび総辞職。政友会の田中義一内閣が後継。経済に加えて、台湾、中国への対応が課題になっていく。

 

1927年3月24日 南京事件蒋介石の国民党軍の南京入城の際に起こした、各国領事館に対する暴行、略奪事件。

これをきっかけに、日本は、中国にいる日本人を守るために、満州に駐留する関東軍を青島・済南に派遣。 蒋介石による中国統一を阻止し、張作霖(チョウサクリン)を武力で支援して満州の権益を守ろうとする。

日本では、共産党の「赤旗が発行される。日本共産党は「君主制廃止」を叫び、大衆を味方につけようと動いた。政府は、共産党員の検挙を行う。 昭和3年3月15日 共産党員の一斉検挙により 1500人が逮捕された。

 

一方、北京では、張作霖が、駐中華大使・芳沢謙吉によって北京を放棄し、満州国に独立政権をつくるように促される。だが、しぶしぶ北京をあとにした張作霖は、関東軍によって移動中の電車を爆破され死亡。高級参謀・河本大作(こうもとだいさく)の陰謀だった。
憤った政府だったが、関東軍の仕業とみとめることで中国との関係を悪化することを懸念し、河本への処分は、軽いものだった。こうした対応策は、天皇の不信感を呼び、田中内閣は総辞職。

 

政党政治が揺れ動く中、陸軍内部には横断的結社としての紐帯がつくられていった。「一夕会(いっせきか)」は、その一つ。後の皇道派・統制派の出発点となる。

一夕会:木曜会( 石原莞爾・ 鈴木貞一・ 東条英機永田鉄山ら)と双葉会( 河本大作・ 板垣征四郎東条英機)が合体。


1930年 ロンドン軍縮会議、開会。

出席した元首相若槻、海相財部(たからべ)は、政府の主張する7割を維持することができず、6割で歩み寄り。その責任は内閣にあるとして、国会は紛糾。天皇統帥権についてもめる。軍縮条約は強引に批准されたが、軍部・右翼・政界の復古派などの反対派が集結し、反政党内閣、反軍縮、反英米を唱えた。そして、浜口が東京駅で撃たれる。幣原が臨時代理となるが、浜口内閣は総辞職。

 

金融恐慌以来、市場経済は低迷しつづけ、株価低迷、操業率、生産量の減退、倒産と失業者が激増。昭和5年の大豊作で、米価大暴落。昭和恐慌となっていく。

右翼の大立者・大川周明らが中心に、陸相の宇垣一茂を内閣にかつぐクーデターを計画するが、宇垣がのってこなかったので、失敗。しかし、政界におおきな動揺を引き起こす。

 

1931年(昭和6年) 9月18日、 午後10時20分頃満州奉天付近、柳条湖で 線路の爆破事件が起こる。関東軍による、自作自演。中心となったのが、 石原莞爾満州事変へつながる柳条湖事件発生。 関東軍は、 政府の軍中央の不拡大・局地的解決の方針を無視し、満州の各地へ手を伸ばし、満州ほぼ全域を軍事的制圧下においた。

関東軍は、線路破壊は中国側の行為であるとしたが、中国は日本との交渉を拒否し、国際連盟で日本を提訴した。

 

国際連盟理事会は9月24日、日本の速やかな撤兵と、日中関係の修復を求める決議案を採択したが、関東軍はこれを無視。 中国全土に「抗日」「 反日」の声が渦巻いた。
関東軍は、着々と満州の独立工作をすすめる。

 

関東軍特務機関大佐・土肥原賢二は、溥儀清朝廃帝)を満州国建設に利用することを画策。土肥原の謀略で発生した暴動に乗じて溥儀は天津を脱出し、関東軍に保護された。

反日運動は、上海まで及び、1932年、政府は抗日運動を抑えるために日本海軍を派遣。一か月に及ぶ上海事変へ。

 

そのころ、日本では、政友会の犬養毅内閣。大陸での戦火拡大を抑えるため軍の統制回復を考えていた。が、政党政治をきづいてきた要人が相次いで暴漢に襲われる事態が勃発。井上準之助(前蔵相)、團琢磨、が 相次いで襲われ、2つのテロの犯人の背後に、 日蓮宗行者井上日召(いのうえにっしょう) を指導者とする結社 「血盟団」の存在があることが 判明。一味を逮捕する。暗殺計画は、他に、政財界の要人の多くが含んでいたことが明らかになる。

 

昭和7年3月1日、溥儀を執政とする満州国の建国が宣言された。関東軍の野望達成。

傀儡国家、満州国は、面積120万平方メートル、人口約3400万人。首都は長春

 

昭和7年5月15日、5.15事件犬養毅海軍青年将校らによって暗殺された。政党政治の終焉と軍部独裁政治への道がはじまる。

 

5.15の襲撃者たちは、「日本国民に檄す」というビラをまいた。 政党、財閥を批判し、政治、外交、 経済、 教育、思想、 軍事、あらゆることのために立ち上がる、と。

 

政治の立て直しをはかるため、西園寺は上京する。侍従長鈴木貫太郎から天皇陛下の次期首相についての希望をきき、熟慮のうえ、次期内閣を推挙。海軍出身の斎藤実(まこと)の非政党内閣が成立。斎藤は、犬養が承認をしぶっていた満州国について、承認をすすめる。

9月15日「日満議定書」の調印。

 

10月2日、リットン調査団(イギリスのリットン卿を団長とする 国際連盟派遣の満蒙問題調査団)は、「日本軍の 軍事行動は正当なる自衛手段と認めることを得ず・・・」との報告を公表した。

 

1932年 昭和7年10月22日 ジュネーブに向かったのは、首席全権・ 松岡洋右(ようすけ)。満州国をみとめないという国連の採決に、賛成42、反対は日本のみ。そして、松岡は、国連脱退を宣言する。日本が世界の孤児になる道をすすんだ。帰国した松岡は、凱旋将軍のようにもてはやされた。

 

満州事変以来 陸軍の政治力が強大になるにつれて、その派閥抗争も激しくなる。

皇道派:反ソ・復古的革新、荒木貞夫陸相)ら
統制派:軍の統制再確立、より革新的な国策立案、永田鉄山ら。

 

昭和10年天皇機関説問題」で岡田内閣震撼。

 

東京大学名誉教授 貴族院議員 美濃部達吉が、「 天皇を国家の一つの機関と解する」とした。 貴族院議員・ 菊池武男は、反国体思想として批判した。

 

天皇機関説:国家を一つの法人(法律上の人格を持つ団体)とみなし、天皇はその最高機関であると考える学説。天皇の権力は、内閣や議会などの他の機関の輔弼によって支えられ、憲法によって制限されると解釈される。

 

8月12日:陸軍省で軍務局長・永田鉄山陸軍戸山学校道教官中佐・相沢三郎に殺害される。陸軍内の皇道派と統制派の対立がうんだ悲劇。

 

1936年2月26日未明、2.26事件勃発。陸軍の青年将校らが決起し、首相官邸を襲撃。他にも警視庁、陸相官邸など東京中心部を占拠したクーデター事件。斎藤実内大臣高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。


蹶起部隊は、陸相・川島義之に面会を強要し、「蹶起趣意書」をもって統制派を批判した。政府は、対応を話し合う。29日の朝、「兵に告ぐ」のビラがまかれ、蹶起部隊の意見が取り入れられることはなかった。「蹶起趣意書」の筆頭人である陸軍大尉・ 野中四郎は、自決。他の将校たちは、法廷闘争を期待して陸軍刑務所にはいったが、銃殺刑となり、2.26事件は幕を閉じた。

 

が、暗雲が日本をおおっている。。。。

う~ん、こうして、戦争へ突入していくのか。。。。

コロコロ変わる内閣。政党内閣がなかなか長続きせず、軍の力が拡大していき、クーデター、暗殺が相次ぐ世の中だったのだ。内輪もめしている場合じゃないだろう、、、、と思うのだが、、、、。振り返ると、愚かさばかりが目に付くけれど、その時には、みんなそれぞれが正しいと思っていたんだろう、、、、。むずかしいね、政治っていうのは。

 

少なくとも、今は、暗殺やクーデターが頻発する日本ではない。2022年7月8日、不幸な安倍首相の暗殺事件はあったけれど、、、、。平和のためにも、選挙にいかないとね。平和の基本は、協力だと思う。○○ファーストといっているうちは、心に平和は訪れないよ。カントが言っている。

”利己性を優先すると、それに囚われてしまうことで、実は幸福な生き方にならない。”

 

戦前の軍将校によるテロは、やはり、利己性を優先していたのではないだろうか・・・。

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歴史に、学ぼう。