『無意味なんかじゃない自分 ハンセン病作家・北條民雄を読む』 by 荒井裕樹

無意味なんかじゃない自分
ハンセン病作家・北條民雄を読む
荒井裕樹
講談社
2025年5月19日 第1刷発行

 

日本経済新聞 2025年7月5日の朝刊で紹介されていた本。書評を書いていたのは、文学紹介者の頭木弘樹さん。

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記事には、
”すごい本だ。著者が北條民雄にぐいぐい迫っていき、読者に北條民雄がぐいぐい近づいてくる。
私は20歳で難病になり、それをきっかけに文学を読むようになった。そういう人間にとって北條民雄は特別な存在だ。激しい偏見と差別にさらされていたハンセン病にかかり、隔離生活の中で、体験を基に文学を書いた人だからだ。

ただ、ずっと気になっていることがあった。重い病にかかり、社会から虐げられ、それでも何かを成した人は、聖人あつかいされやすい。また、書かれていることが悲惨であればあるほど、人はそこに希望を見出(みいだ)そうとする。うまく見つかると、真っ暗な洞窟で出口の光を見つけたように感動する。結果的に、病人がその苦しい体験を書いた小説は、聖人による希望の書ということにされてしまいやすい。差別され嫌悪されるか、あがめられもてはやされるか、どちらかの極端になりやすいのだ。

本書の最初に「彼が残した言葉に見られる、痛々しいまでに卑俗で、小心で、自己中心的な部分と向き合ってみるつもりです」と書いてある。好感度の高い人物のダークサイドに興味を持つ人は多いが、もちろん著者のねらいはそこではない。「あまりにも高くて遠いところに置かれてしまった一人の青年を、その体温と息遣いが感じられるくらいの距離に置き直してみましょう」つまり、北條民雄の実像に迫ろうとしているのだ。

私は個人的に、自殺についての著者の考察にうなった。難病になった人間は自殺を考える。北條民雄も何度か自殺を試みている。代表作『いのちの初夜』では「死について考えれば考えるほど〈益々死に切れなくなつて行く〉と書かれています」。なぜか。単純に、生き物としての本能と考えることもできる。しかし、「自分の生命が、自死という究極の行為をもってしても意味付けられないほど無意味なものだったとしたら……

怖(おそ)ろしい指摘である。難病になったとき、闘病だけの人生になることの無意味さに愕然(がくぜん)とした。自殺しても、「難病だから自殺したんだな」と一瞬で理解・分類されてしまうだろうと、ぞっとした。

『無意味なんかじゃない自分』というタイトルが、あらためて胸に迫った。そう思いたくて、誰もがもがいているのではないだろうか。”
とあった。

 

もう、この書評をよんだだけで、十分、胸が痛くなる・・・。図書館で本書を手に取ったとき、タイトルの重さと不釣り合いなほどにカラフルな表紙に驚いた。装画ミロコマチコとあった。なかなか、印象的な絵。

 

著者の荒井さんは、1980年東京生まれ。 二松學舎大学文学部教授。文筆家。 専門は障害者文化論、日本近現代文学東京大学大学院人文社会系研究科 修了。博士(文学)。著書多数。 2022年 第10回 (池田晶子記念わたくし、 つまり Nobody 賞受賞。

 

目次
はじめに
第一章 差別の歴史を振り返る
第二章 差別の感覚を掘り起こす
第三章 北條民雄の生涯
第四章 隔離の中の北條民雄
第五章 差別される自分
第六章 光の中の毒
第七章  無限ループを走り続ける
第八章 「作家」という 生存戦略
第九章 言葉と心の落差
第十章 麗しく迷惑な友情
終章
あとがき

 

感想。
ほぉ。。。ふぅ・・・。
なかなか、印象的な一冊。

私は、北條民雄を読んだことがない。名前も知らなかった。だから、すごく感動するというより、おぉ、、、そういう世界か、、、と。

頭木さんの書評だけで、十分なにかが心に響いた。差別、偏見、、、、。

数年前に「多様性」をテーマにした勉強会で、「ハンセン病」についても学んだことがある。それでも、当時罹患した人々がどういう苦しみに直面したのか、わかっているとはいいがたい。

 

興味深いのが、松本清張の『砂の器を題材にして、秀夫(恩人である三木を殺害)の父・本浦千代吉(ハンセン病患者)をどう描くか、という話。原作は、ハンセン病患者となった千代吉は、息子である秀夫と故郷を追われて、放浪し、困窮する。それを救ったのが三木と言う親切な巡査だった。が、秀夫は三木の元を出奔し、戦後の混乱に乗じて、他人に成りすまして人気音楽家となる。成功者になった秀夫は、三木に呼び出された時に、過去を暴かれるのをおそれて殺めてしまうというお話。
砂の器』は、1974年には映画化され、その後も何度も映像化されているが、そのたびに本浦千代吉の隠れた過去は、ハンセン病ではなく殺人犯の逃亡者など、設定がかえられてきているという。
それだけ、当時のハンセン病患者が抱えた「闇」のような部分が、今の人たちにはもう想像しにくくなっているのでは、と。

本書で大きく取り上げられえている北條の作品の一つが、『いのちの初夜』。NHKの100分de名著でもとりあげられたことがあるらしい。

 

著者は、北條の作品から、「自分が生きている意味を得たい」という猛烈な衝動がうかがえる、と書いている。部分的に引用され、解説されているので、本書をよむだけでも、『いのちの初夜』を読んだような気になる。いつか、読んでみるか・・・・。でも、つらいな・・・。

患者が患者のことを「彼ら」や「私たち」とよぶ違いとは何なのか。。。治る見込みのない患者と、治るはずの自分。自分だけは特別と思いたい本音がそこに出ているのでは?と。

 

たくさんいる患者の中で、自分だけは違うとおもいたい、、、それはまさに、北條自身で、だから、「作家」というアイデンティティを欲し、川端康成に認められることを熱望した。

 

最初と最後に、問いがある。

・ 差別された人が傷つけられた自尊心をなんとか 守りたいと思った時、同じような境遇にある人たちに対し以丈高になったり意地悪になったりすることは認められるのか?

・ 自分が差別されている集団に所属していたとしても、その痛みや苦しみから逃れるために、「自分だけは違う」と言ったり考えたりすることは許されるのか?

こうした問いは、是非や可否を判断することは難しいし、場合によっては危険だと著者は言う。

 

著者が、とことん北條民雄に向き合った姿勢が、なんとも頼もしく、読み応えのある一冊だった。やはり、差別の話を読むのは心が痛む。

 

私も、色々な意味で「私だけは違う」って、思っていると思う。

『魂の教育』の森本あんりさんの「原坦山(はらたんざん)と諸嶽奕道(しょがくえきどう)」の話、そして”倨傲(きょごう)や慢心と紙一重”という言葉を思い出した。

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読書には、学びがある。

でも人間は忘れる。

だから、読み続ける。。。

 

わすれてもいい。また、思い出せばいいよね。

読書は、その機会を提供してくれる。

 

う~ん、なかなか興味深い本だった。

松本清張の『砂の器』、読んでみようかな。