『マンガ日本の歴史 現代篇6  占領から国際社会へ』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 現代篇6  占領から国際社会へ
石ノ森章太郎
中央公論社
1994年5月5日 初版印刷 
1994年5月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 現代篇5  日中戦争・太平洋戦争』の続き。

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5では、ポツダム宣言受諾の敗戦まで。6は、戦後の日本がGHQの占領下におかれ、朝鮮戦争や冷戦など外部環境の変化で、景気が変動、国際社会に復帰するまで。まさに、55年体制の成立までの話で、実は私がちゃんと学んでこなかった戦後の日本の話がギュッと詰まっている。

 

目次
序章  焼跡・闇市・新生ニッポン
第一章  マッカーサー最初の200日
第二章 新憲法の成立
第三章  吉田政権と朝鮮戦争
第四章 《55年体制》へ

 

6巻の目玉は、私にとっては、55年体制ができるまでの歩み。

表紙が鉄腕アトムなのは、TV放送が始まった時代だったから。

 

1945年(昭和20年)初冬、東京新宿をはじめ、全国で闇市がにぎわっていた。
人びとは、占領軍を「進駐軍」と呼んで歓迎した。 ジープに乗った米軍は、民主主義と自由と豊かさの象徴であった。

 

外地からの被害者も続々 帰ってきた。 政府は兵隊の帰国を優先した。 民間人は独自のルートを頼って帰国したが、引揚者のほとんどは財産を現地で没収され、着のみ着のまま 母国へ向かった。『流れる星は生きている』の世界。

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ソ連軍の捕虜となった日本人は、シベリアなどの劣悪な環境下で強制労働に従事させられ、多くの犠牲者を出した。

青空教室では、軍国主義にかんする文章を黒塗りにした教科書が使われた。

 

1945年9月2日: 連合国に対する日本の条件降伏の調印式が 東京湾に浮かぶミズーリ号」でおこなわれた。

連合国軍最高司令官 元帥 ダグラス=マッカーサーが、演説し、署名。
日本政府代表、 重光葵(まもる)外相、 大本営代表 梅津美治(よしじ)が署名。
連合国9か国の代表が続いて署名。

約4年に渡る、 太平洋戦争は終わった。

 

9月17日、 東京 日比谷の第一生命ビルに GHQ連合国軍最高司令官総司令部)が置かれ、占領政策の拠点となった。

この、第一生命ビルは、いまでも皇居観光の際に目にする。あえて、インバウンドのお客さんに説明することはないけれど、、、。

 

マッカーサー元帥による日本占領の二本柱は、
・非軍事化
民主化

日本にとっては、 天皇の戦争責任が問われるのかどうか、 天皇制がどうなるのかが一番の関心事だった。

9月27日 吉田茂外務大臣が、 天皇擁護の立場からマッカーサー元帥に献策した結果、 天皇は 赤坂榎坂のアメリカ大使館にて、マッカーサーと面談。

平和な日本の建設に全力を尽くしたいという天皇の言葉にマッカーサーは好感をもち、 天皇の戦争責任を追及せず、むしろ 天皇を擁護する立場を採ることとなる。
吉田茂、あっぱれ。

 

10月4日、 民主化の第一歩として、 政治的・ 民事的・ 宗教的自由に対する全ての制限の撤廃が発表された。 人々は堰を切ったように自分たちの意思を行動に表しはじめた。

政治犯らも釈放され、 徳田球一や志賀義雄ら共産党主義者の「出国同士歓迎人民大会」が開催された。

 

10月11日、 マッカーサーは、新任の幣原喜重郎首相に対し、民主化のための5つの改革を迫る。

1.婦人に参政権を与え、婦人を解放すること
2. 労働組合の結成を奨励すること
3. 学校をより自由主義的な教育の場とすること
4. 国民に恐怖を与えていた秘密警察 などの 全廃
5. 独占的経済機構の民主化。 財閥と地主制度の解体。

一方、昭和20年は米が大凶作の年で収穫量は例年の60% と激減し、食糧難とインフレが国民生活に襲いかかっていた。

11月  日本社会党が結成。( 片山哲ら)
11月  日本自由党が結成。 (旧政友会系の自由主義者鳩山一郎河野一郎ら) 

11月6日  三井、三菱、住友、安田の4大財閥の解体が発表。

激動の昭和20年12月31日、久しぶりの除夜の鐘をよろこぶ人々だった。

1946年1月1日 天皇人間宣言。「新日本建設に関する詔書
天皇は2月から地方を巡行し、戦前ではありえなかった「身近にみる天皇」に、人びとは民主化の実態を感じた。

 

4月10日、 女性の参政権を認めた新選挙法による 衆議院議員選挙実施。 投票率は72%自由党が140人の当選者を得て 第1党となり、進歩党94、 社会党 92、 協同党14、 共産党5、諸派と無所属あわせて119。 当選者の80%以上が新人だった。
女性は79人中39人が当選した。

過半数を得た政党がなかったので、自由党総裁の鳩山一郎を中心に連立政権を巡る 主導権争いが繰り広げられ、 次期政権の行方は混沌としていた。

なんだかなぁ、、、令和もかわらない・・・・。
しかし、この投票率。既得権になって、その重みを忘れてしまった現代の人びとに知ってもらいたい。

 

鳩山は、後継者に吉田茂を求めた。吉田はあれこれと条件を出しつつも、懇請を受諾。 戦後日本の最大の政治家 吉田茂が登場した。

 

5月3日、市ヶ谷法廷で「東京裁判が始まる。
戦争犯罪者は、A 級 B 級 C 級と分けられ、 東京裁判で被告とされたのは 国家的指導者としての永久戦犯28人。

戦争を企てたとか、戦争を指導したということ自体が犯罪になるというのは、以前には国際法にも慣習法にもなかったことで、 ドイツの指導者が裁かれた「 ニュルンベルク裁判 」が最初で、ついで 「東京裁判」となった。戦争裁判はこの2つが最初で最後

よく考えたら、後だしじゃんけんのような裁判で、死刑宣告ってどうなんだろうか?

 

東京裁判が続けられてる最中の7月1日、 広島のほぼ1年後、 アメリカの核実験が太平洋のビキニ環礁で行われた。

7月12日 中国では国民党と共産党の間で全面的 内戦が始まっていた。

 

10月7日、「日本国憲法」が成立。
1946年(昭和21年) 11月3日 日本国憲法を公布。 全国各地で祝賀行事が行われた。

国民学校初等科が小学校となり、6・3制の小学校・中学校、 義務教育・授業料無償が施行された。

1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法施行。

1948年(昭和23年) 笠置シズ子の「東京ブギウギ」が大ヒット。

1948年5月2日、 サマータイムの導入。5月第一土曜日~9月第二土曜日をサマータイムとして1時間早められた。

 

しらなかった。 日本にも、サマータイム導入されたことがあったとは。。。調べてみたら、導入したけれどうまくいかなくて、1954年には廃止されたらしい。現在では、サマータイム導入による悪影響のほうがよく研究されている。生物学的には、悪影響のほうが多いという報告が増えている。だいたい、日本だって北から南、東から西で日の出も日の入りもだいぶ違うんだから、サマータイムを導入するのではなく、単に夏季には早起きにシフトすればいいだけだと思う・・。

と、歴史に戻ろう。

 

戦後3年、日本は相変わらずインフレに苦しんでいる。朝鮮半島は、大韓民国朝鮮民主主義人民共和国の2つの国に別れた。東西の冷戦が深刻化。アメリカは、日本に対して、 安定と経済再建を求め始める。

 

1948年(昭和23年) 11月12日、 東京裁判の判決の日。 2年半の間に818回の審議が重ねられ 4月16日に 結審していた。

後半の途中で死亡した2名と精神病で免訴された 1名を除き、 25 被告に対して 判決が言い渡された。

東条英機ら7人が死刑
荒木貞夫ら16人が 終身刑
重光葵は禁固7年。
東郷茂則は禁固20年。。。。

判決は多数決 だったが 少数意見も5人いた。
インドのパル判事は全員無罪を主張し、 オーストラリアのウェッブ裁判長は 死刑を宣告するべきではないと主張した。

 

私が子供の頃、父はよく「東京裁判」の映画を繰り返し見ていた。どういう思いだったのか、聞いたことはなかったけど、、、、。どう思っていたのか、もう、聞けない。。。聞いておけばよかった。

 

12月、首相官邸の吉田首相のもとに、佐藤栄作官房長官からマッカーサー元帥の書簡が届けられる。トルーマン大統領からの指示で、経済安定のための9原則を実施せよ、と。

それは、日本政府の進めているインフレ抑制と生産復興の二兎を追う政策を否定し、インフレ終息のため、一切の赤字を許さない超均衡財政を求めるものだった。

経済安定9原則。
1  支出引き締めによる予算の均衡
2  税収計画の促進強化
3  融資の規制
4  賃金の安定
5  価格統制の強化
6  貿易及び為替管理の強化
7  輸出振興のための物資割り当てと配給制度の改善
8  生産増強
9  食料供給計画の能率向上
くわえて、 単一為替レートを早く設定すること。

吉田首相は、安定政権を求めて衆議院を解散して総選挙を実施。吉田の民主自由党は圧勝して戦後初めて過半数を占める政権となり、第三次吉田茂内閣誕生。

この間、 経済安定9原則を実施させるため、 GHQ 経済顧問として ジョセフ=ドッジが 来日。 大蔵大臣 池田勇人が対応にあたった。ドッジは、あらゆる補助金をやめさせることでインフレを終息に向かわせた。日本経済は黒字になったものの、 深刻な不況となり失業者が急増した。

1949年 (昭和24年)の一年間で、50万人近くが解雇された。中でも9万5千人の人員整理が発表された国鉄は大打撃をうけ、労使対立の問題が深刻化した。国鉄の役員の原因不明の事故が多発し、社会不安をかきたてた。

 

一方で、昭和24年には、NHKが「全米水上選手権大会」を戦後初めてロサンジェルスから実況中継し、「フジヤマのトビウオ」と言われた古橋広之進の活躍に日本中がわいた。

 

1949年10月1日、 毛沢東中華人民共和国の成立を北京天安門広場で宣言。

 

1950年(昭和25年)1月1日、マッカーサー元帥は国際情勢を反映した年頭声明を発表し、 日本国憲法自衛権を否定せず」 と強調した。

 

6月25日未明、 北朝鮮大韓民国の領域に侵入し、 朝鮮戦争が始まった。 南北両国軍は 38度線 全域にわたって 全面戦争に突入した。

 

アメリカが国連に国連軍の創設と韓国派遣を提案、決定されたため、マッカーサーが総司令官として朝鮮へ行った。

朝鮮戦争勃発 2週間後の7月8日 マッカーサー元帥は米軍に代わる部隊として7万5000人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8000 人の増員を指令した。

不況で失業していた多くの人が警察予備隊に応募した。

アメリカが参戦したことで、韓国はソウルを奪回した。が、翌月には中国人民義勇軍が参戦し、アメリカは歴史的敗北を喫してソウルを明け渡す。こうして、朝鮮戦争は、アメリカ・韓国 対  北朝鮮・中国・ソ連 の戦に拡大した。

日本は軍用物資の需要でドル収入が一気に増加。 日本中が特殊景気にわき ドッジ・ライン 不況は一気に 吹き飛んだ。

国連軍は再び ソウルを奪回。 中国軍を38度線以北に押し返し、 マッカーサー元帥は独自に共産軍に対する威嚇声明を発表。しかし、それが休戦を志向していたトルーマン大統領の逆鱗に触れ、マッカーサーは左遷される。日本に対する最高司令官も解任される。帰国の日、マッカーサーは、夫人とともに、星条旗と日の丸を持った多くの日本人に見送られた。離日の模様はNHKが実況放送し、衆参両院は感謝決議を行った。
マッカーサーの時代は終わり、リッジウェイ中将が着任した。

 

帰国後、マッカーサーは演説で
老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」との言葉を残した。

 

1951年(昭和26)年9月4日@ サンフランシスコ オペラハウスにて、 世界52カ国が参加し、対日講和会議が開催。 講和会議議長・米国務長官・ ディーン=アチソン、 アメリカ大統領 ヘンリー=トルーマンらにより、日本との和解が提案され、各国全権の演説が終了した後、 吉田首相が受諾演説を行った。

8日の 対日平和条約の調印式では、 アメリカ、 イギリス、 オーストラリアなど49カ国が調印 したが、 ソ連 など3国が調印を拒否、 中国は 招待されず、 インドは参加を拒否した。

平和条約と同時に日米安全保障条約も締結。これが、 国内に激しい対立と紛糾を呼ぶこととなる。が、ひとまず、日本は国際社会に復帰した。

日本は、6年8か月の占領から解放された。

 

だが、 独立後初めてのメーデーには、「 破壊活動防止法」の制定をめぐって反対運動が起き、日本共産党の指導する全学連が集会を禁止されていた皇居前広場に突入し、激しい衝突が起きた。「血のメーデー」。

1954年(昭和29年) 3月1日、 南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁アメリカの水爆実験が行われ、近くで 操業中の日本のマグロ漁船 「第5福龍丸」が「死の灰」を浴びた。被爆した船員のうち重症者のひとりは、9月に死亡。原水爆反対の署名活動が広がる。

一方、吉田内閣によってアメリカとの緊密な政策が着々と進められた。
1954年3月8日  日米総合 防衛援助協定(MSA協定)調印。
1954年6月9日 防衛二法案(自衛隊法・防衛庁設置法)公布。

12月には、 日本民主党鳩山一郎内閣が誕生。 そんな日本をリードしてきた 吉田茂の時代が終焉。

 

1955年(昭和30年)、 講和条約と安保条約への対応をめぐって 分裂した日本社会党が統一大会を開催。 左派と右派が再び一つになった。

 

同年11月、 日本民主党(総裁鳩山一郎)と自由党(総裁緒方竹虎)の保守も合同して、 自由民主党を結成。 鳩山が初代総裁となる。

 

この1955年に成立した「自由民主党」と「日本社会党」の二大政党を中心とする政治の枠組みは その後も大きく変わることがなく、〈 55年体制〉と呼ばれるようになる。

戦後10年、日本の針路に一区切りがつけられ、経済は目覚ましく復興。翌年からはかつてない好景気神武景気が始まった。 

 

う~ん、そういう時代もあったんだなぁ、、、と。

どん底があったからこそのV字回復。高成長の前には、ドボンがある。

そして、高成長と言うのはどこかで飽和する。。。