『ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史』 by 芝崎佑典

ベルリン・フィル 栄光と苦闘の150年史
芝崎佑典
中公新書
2025年5月25日 発行

 

日経新聞、2025年7月5日の朝刊書評で紹介されていた本。

 

記事には、
”本書は、国際関係史や冷戦史を研究する著者が、この世界最高峰のオーケストラを題材に描く、150年にわたる裏ドイツ史である。ナショナリズムの中で生まれた楽団が、どんな苦難を乗り越え、人々を魅了する存在になったのか。それは指揮者という謎めいたカリスマの成り立ちと、聴衆の変化の歴史でもあり興味深い。
(中略)
一方、音楽が「人間が生きるために必要不可欠」であることもまた、揺るがぬ事実だ。震災やパンデミックが起こるたび、音楽は不要不急とされ、打ちのめされた。再びホールに集い、大音響に包まれた喜びを思い出すと涙がこみあげる。ベルリン・フィルが先駆けたデジタル・コンサートホールに、何度助けられたことだろう。音楽は、暗闇にも希望の光をともす。その光と影の両面を、本書は誠実に照らし出す。”
とあった。

 

私は、クラシック音楽の世界に詳しいわけではないけれど、良い音楽、本物を聴くのは好きだ。オーケストラの中でも、やっぱり、ベルリン・フィルと聞くと特別なものがある。今では、この世界最高峰と言われるオーケストラにも、戦争、ナチという黒歴史の時代があったとは、、、知らなかった。気になったので、図書館で借りて読んでみた。

 

表紙をめくると、
巨匠フルトヴェングラー帝王カラヤンが歴代指揮者に名を連ね、世界最高峰のオーケストラと称されるベルリン・フィルハーモニー。1882年に創設され、ナチ政権下で地位を確立。敗戦後はソ連アメリカに「利用」されつつも、幅広い柔軟な音楽性を築き、数々の名演を生んできた。なぜ世界中の人々を魅了し、権力中枢をも惹きつけたのか。150年の「裏面」ドイツ史に耳をすまし、社会にとって音楽とは何かを問う。”
とある。

 

目次
第1章 誕生期――市民のためのオーケストラとして
第2章 拡大期――財政危機から国際化へ
第3章 爛熟期――ナチとベルリン・フィル
第4章 再建期――戦後の「再出発」
第5章 成熟期――冷戦と商業主義の中で
第6章 変革期――「独裁制」から「民主制」へ
あとがき
参考文献  
図版出典  
ベルリン・フィル関連年表

 

感想。
いやぁ、、、面白かった。色々と、目からウロコ。ベルリン・フィルを通してみるドイツ史だ。

ただ、単純に オーケストラといえば ベルリン・フィルとおもっていたけれど、そこには ドイツの国としての威信があったのだということ。絵画ならフランス、でも音楽ならドイツはフランスに負けない!と。とりたてて、意識したことがなかった。たしかに、フランスだって、フランス 国立管弦楽団とかあるけど、それよりはバレエ、オペラ、ルーブルやオルセーといった美術館の方が惹かれる。ドイツは国として国民が音楽を守ってきたという歴史があって、コロナ禍でのメルケルさんの「連邦政府は芸術支援を優先順位リストの一番上に置いている」という発言があったのだ。なるほどぉ、、、、と、本当に読んでいて肯いてしまった。

 

ちなみに、ChatGPTによると、世界三大オーケストラと言うと、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団オーストリア)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(オランダ)だそうだ。

 

そんなベルリン・フィルが、かつてはながいこと財政難に苦しんでいた時期がある。

私は、指揮者の名前も詳しくないけれど、「カラヤン」だけはさすがに知っている。本書をよんで、日本が「カラヤン」に熱狂した時期があったということ、だから、私でも知っていたのだということがわかった。特に音楽ファンだと思わない父ですら「カラヤン」の名前を口にしていた。かつ、わたしは、当時カラヤンベルリン・フィルのCDもいくつも持っていた。力強くて、結構すきだったけれど、カラヤンは元ナチ党員であったために、ベルリン・フィルの指揮者への就任は反対の声も多かったこと、オーケストラのメンバーや経営者とも対立が多かったことなど、へぇ、、、嫌われ者だったんだ、という驚き。

 

そして、本書の中で何度も出てくる巨匠フルトヴェングラー、私は知らなかったので Spotifyで検索して聞いてみたら、カラヤンよりすっとやわらかい音のような気がした。フルトヴェングラーが生きていたのは、世界大戦を含む1886年~1954年。ベルリン・フィルが録音を残すようになったので、彼の音も今でも聞くことはできる。ただ、アナログの時代の大人なので、音質には限界があるけれど、、、。音の雰囲気は、カラヤンの挑戦的な感じとはだいぶ違う気がする。二人が犬猿の仲だったというのはわかる気がする。

 

オーケストラ―は、奏者はもちろんのこと、指揮者でも変わってしまうものなのだ。ベルリン・フィルの伝統の音とは、何なのか?戦争中でも、空襲の中でも、オーケストラの演奏は行われていたというドイツ。日本では考えられない、、と思う。あっただろうか?戦時中にオーケストラって、、、、。西洋の楽器ですら、敵視されてしまっていた可能性の方があるきがするけど、、、どうなんだろう。日本人がピンチの時におもわず「かみさまほとけさま」とか「なみあみだぶつ・・・・」的なことを口にしてしまうのと同じくらい、ドイツの人びとにとっては音楽が心のよりどころになっているということなのだろうか。

一方で、戦時中もプロパガンダになりすぎないようにしつつも、ベルリン・フィルが政策的に利用されていた側面もあったということ。だからこそ、戦火を生きのびたともいえる。のちには覆されてしまうが、オーケストラの団員は徴兵されないというルールもあった。また、国家力の広告として、軍事関係者以外の一般のドイツ市民が国外にいくことが許可されない中、海外遠征することができたのだそうだ。そして、多くの演奏会はほぼ満席。ただ、ユダヤ系団員への嫌がらせや侮蔑もあり、ユダヤ系団員の離団が続いた時期もあった。


本書を読んだ後、オーケストラの音楽を聴くときには、もっと指揮者の名前も気にしてみよう、と言う気になった。かつ、いつかベルリン・フィルもホールで聴いてみたい。

ちょうど、今月は2回オペラを鑑賞して、オーケストラの違いをつくづく実感したところ。一つは某区民ホールで開催されたクラシックオペラで、もう一つは新国立劇場の新制作創作委嘱作品『ナターシャ』だった。施設の違いもあるけれど、演奏、歌、踊り、全てにおけるの圧倒的な違いを体感したところ。S席のチケット価格は倍も違わないのに、質の違いは10倍以上だった気がする・・・。やっぱり、、、本物の、良い音楽を聴くのはよい。。。

 

やっぱり、人生に音楽は必要だ。

 

気になったところ、覚書。
・”1871年に統一されたドイツ国家が成立。 音楽こそがドイツの中心的な芸術であるという認識が急速に強化されていった。 造形芸術を国家の中心的芸術と位置づける政策を展開していた隣国 フランスに対抗するソフトパワー戦略として、ドイツの芸術は音楽であるという自己意識が強化されていった。”

 

・1905年、 チェリストパブロ・カザルスベルリンフィルと共演。
パブロ・カザルス 、『永遠を探しに』で和音がきいていたチェリストだ!

megureca.hatenablog.com

 

第一次世界大戦がはじまった背景。
” 人々は100年間の「平和」に慣れきっていて大戦争に対する警戒心が緩んでいた。 帝国主義政策の展開の中で、各国とも譲歩し合う国際関係に鬱屈した気分になっていた人々も少なくなかった。平和に飽きていた多くの人々は大戦勃発に活気づき、戦争に参加することに熱狂した。”
なるほど、、、、そういう歴史・・・・。

 

ベルリン・フィルの初めての録音は1913年。当時 メトロポリタンオペラの指揮者であった アルフレート・ヘルツ指揮の「パルジファル」( ワーグナー 最後の楽劇)。
演奏を録音することができるようになったことで、私たちは、ベルリン・フィルの「過去」に触れることができるようになった。

 

第一次世界大戦中は、演奏会のプログラムも「ドイツ音楽で固めるべきだ」という声はあったものの、圧倒的圧力ではなく、敵国ロシアのチャイコフスキー音楽などの演奏も行われた。政治と音楽の分離。

 

・クラウス・プリングスハイム:世界大戦中、ベルリン・フィルとしての初めてのマーラーの公演を指揮。バイエルン出身の指揮者・作曲家・音楽評論家・ピアニスト。レオニード・クロイツァー、マンフレート・グルリットらとともに日本におけるクラシック音楽の普及・定着に尽力するとともに、作曲や指揮の教師として、日本人音楽家の育成に多大な貢献を行なった。彼の双子の妹カーチャはトーマス・マンの妻として知られている。

ベルリン・フィルの本を読んでいて、トーマス・マンの名がでてくるとは、、、。

megureca.hatenablog.com


・1929年4月、当時12歳の ユーディ・メニューイン(20世紀最高峰のヴァイオリニスト)と共演。演奏後、神童を讃える爆発的な拍手は延々と続いた。この日の演奏を聞いた一人に物理学者のアインシュタインがいた。 アインシュタイン も 趣味でヴァイオリンを弾く。

 

・1943年3月、ベルリン市は、イギリス空軍による大規模空爆をうける。禁止されているはずの非軍事施設や一般市民をねらった空爆も日常的になった。 空襲に備えて各地に設置されていた掩体壕施設を避難所として、ベルリン・フィルの団員たちは優先的に利用できた。

 

・1945年2月、団員にも召集令状が出ることになったが、軍需大臣のシュペーアは、フルトヴェングラーには事前に亡命するように促し、団員たちへの令状無効化にうごいた。軍にも楽団の味方がいたのだ。

 

・1945年4月30日、ソ連軍が総統地下壕まで 数百メートルのところまで迫ってきた。 ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーは青酸カリを服用した上で、 自らのこめかみを拳銃で打ち抜いた。ヒトラーの死がラジオで伝えられると、予め録音された ブルックナー交響曲第7番の第2楽章とワーグナーの楽劇「神々の黄昏」の葬送行進曲が流された。 演奏は、ベルリン・フィルハーモニー、指揮は ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。

 

・レオ・ボルヒャルト:ベルリン・フィル、戦後最初の指揮者。ロシア生まれでロシア語ができたために、仲間をソ連兵から殺害するのを阻止することができた。

 

カラヤン成功の背景にあった音楽ビジネス、 コロンビア・アーティスツ・マネジメント(CAMI)を通じたアメリカツアー決行。カラヤンは、フルトヴェングラーカラヤンとは仲が悪かった)が死去するとすぐ、ツアー契約を結んだ。そのCAMIは、2020年に倒産。 クラシック音楽に関わる産業のありようが大きく変化したことの現れ。

 

・ 1956年、 ドイツの建築家ハンス・シャロウンがベルリン・フィルの新しいホールを設計。 それまでの多くのコンサートホールと異なり、 オーケストラ の舞台はホールのほぼ中央に位置し、聴衆の客席は舞台前面だけでなく、左右に300人 背後に270人分配分された 座席数は2400。以後、このようなコンサートホールの形態は、「 ヴィンヤード型」(ワインのブドウ畑のように聴衆が配置される)と呼ばれる。従来の形を「シューボックス型」と呼ぶ。
身近なところだと、サントリーホールがヴィンヤード型。

 

・1969年10月、ベルリン・フィルがかつての敵国モスクワ、レニングラードで演奏会を開催。さまざまな嫌がらせもあったものの、概ね成功に終わった。 レニングラードでの演奏会では、 17歳の少年が 演奏を聴きたいがために女性用トイレから会場に忍び込もうとして逮捕する事件があった。少年は、後にカラヤンベルリン・フィルの後継指揮者として名をあげた セミオン・ ビシュコフ

 

1973年10月、ベルリン・フィルの日本ツアー開催カラヤンも同行。 この時 来日したカラヤンが予定されていなかったにもかかわらず、上智大学の学生オーケストラを指導するというサプライズがあり大きなニュースとなった。
 そうか、そんなことがあったから、日本でのカラヤン人気が根強いのか。そして、私の父も知っていたのか・・・。

 

カラヤンの衰弱は、ライム病が原因。立っているのがやっとのときもあったが、コルセットを着用して指揮台にたつこともあった。

 

・ 土屋邦夫:日本人初のベルリン・フィルメンバー、ヴィオラ奏者。

 

・1990年以降、聴衆のクラシック音楽離れが進み、ベルリン・フィルは若者に音楽と接する機会を与える教育プログラムを推進。「Zukunft@BPhil」さまざまなプロジェクトをすすめ、『 ベルリン・フィルと子供たち』という映画(2004年)もある。

 

安永徹樫本大進ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに就任した日本人。

 

・ ミーシャ・アスター著『 第三帝国のオーケストラ』(2007年): ナチ期の ベルリンフィル そのものを実証的に論じた研究。

 

クラシックに詳しくない私でも、とても楽しく、興味深く読めた。でてくる演奏家や指揮者の名前はしらないものばかりだったけれど、知っている人にはもっと楽しめると思う。

結構お薦めの一冊。

 

読書は楽しい。

と、BGMも大事だよね。