失われた時を求めて8「ソドムとゴモラⅠ」
マルセル・プルースト
吉川一義 訳
岩波文庫
2015年5月15日 第1刷発行
2018年6月5日 第3刷発行
底本:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(1913-27) プレイヤッド版
『失われた時を求めて7』の続き。
表紙をめくると、
”悪徳と罪業の都市ソドムとゴモラ。 本篇に入り、同性愛のテーマ がいよいよ本格的に展開される。 不意によみがえる死んだ祖母への想い。 祖母を失った悲しみの感情に「私」は 突然とらえられる(「心の間歇」)。「私」はアルベルチーヌに同性愛の疑いをいだくが・・・・。”
とある。
岩波文庫の吉川訳にもだいぶ慣れてきた。
「ソドムとゴモラ」と言われても、日本人にはピンとこない人が多いのではないか。ソドムとゴモラは、旧約聖書『創世記』に登場する都市の名前で、住民の不道徳や暴力、神に背く行為が横行したために、神に滅ぼされた都市。極度の堕落や罪の象徴として「ソドムとゴモラ」が使われることがある。
そして、『失われた時を求めて』の中では、第四篇「ソドムとゴモラ」が同性愛というテーマになっていく。
これまでにも時々出てきた、シャルリュス男爵の妙な行動は、つまり、同性愛者だったということが、本書で明確に書かれている。7巻で描かれていた、 ゲルマント公爵邸訪問の直前の場面から始まり、公爵邸での晩さん会でも人々の会話が主な内容。ここでもまた、ゆったり、まったりと、「私」の回想記録のように話が進む。祖母を看たE医師とか、がりがりにやせ細ったスワンもでてくる。スワンの死は近い。バルベックで出会った小娘だったアルベルチーヌが、大人の女性として登場。私は、アルベルチーヌとの性愛に溺れるようになる。
そして、場面は、二度目のバルベック訪問へ。かつて、祖母と避暑におとずれ、アルベルチーヌやサン・ルー(ロベール)と出会うきっかけとなったバルベック。ホテルマンたちは昔のまま。でもみんなそれなりに歳を重ねている。
バルベックに来て、祖母の不在に祖母の死をようやく認めた自分に気が付く私。祖母との思い出だとか、第一巻ででてきた子供の頃の「夜、お母さんが二階にあがってきてキスをしてくれる可能性がないとわかったときの絶望」を思い出す。
思い出語りの小説なんだな。
シャルリュスの男性愛は、見目美しい男の子へ向かう。 ユピテル やミネルバといった比喩で若い兄弟が形容されている。
晩さん会やサロンなどでの話題は、いまだに「 ドレフェス事件」を引きずって、反ユダヤと親ユダヤとが公言するのが憚られるような、話題から逃げるのがかっこ悪いような。そんな中、 ゲルマント大公(ジルベール)は、ドレフェスの無罪を信じるスワンを非難していたのが、軍の陰謀を知ったことで180度意見が変わる。人々が、ドレフェス事件を軸に対立していた様子がわかる。
社交界の様子が描かれる中、言葉遊びのような「間違った言葉」を用いる人々の描写も楽しい。難しい地名や名前も多いのだが、中でも笑ったのは、「カンプルメール公爵夫人」のことを「カマンベール公爵夫人」と呼び間違える使用人。そうか、フランス人にとっても難しい固有名詞は、わかりやすいものに間違っちゃうんだな。しかも、何度も「カマンベール」と連呼しているリフト(バルベックのグランドホテルのエレベーターボーイ)。
本篇の最初に、私は、シャルリュスが若い男性(ゲルマント家に出入りする仕立てや)と絡み合う姿を目撃し、これまでの様々な疑問が氷解するようにシャルリュスの性癖を理解する。当時、同性愛は珍しいものではなかったけれど(当時からというべきか)、違法であった。例えば、オスカー・ワイルドは、1895年に「背徳的行為」の罪で禁固2年の重労働刑を受けている。そして、本篇の後半では、コタール医師がアルベルチーヌとアンドレが踊る姿を見て、私に「あの二人は愛し合っている」と同性愛であろうと告げる。実際のアルベルチーヌに関する描写をみていると、そうとは思えないけれど・・・。
気になった言葉など、覚書。
・メリッサ水:レモンバームの精油にハーブをまぜた気付け薬。美人を前に緊張した私が「メリッサ水」を勧めるわけにもいかず、、、とでてきた。修道士がつくり始めて、今でもストレス・疲労・消化不良への効用をうたって存在している。
・ピュティア: デルポイのアポロン神殿で大地の裂け目をまたぐ三脚石に座り、裂け目から立ち上るガスで神がかり 状態となって神託を告げた巫女。美男子をみつめるシャルリュスの描写。
・”スワンの両頬は、 病によって かけゆく月のようにそぎ落とされ、 おそらく 鏡で自分の顔を眺める時のような 一定の角度から見た場合をのぞくと、目の錯覚だけで見かけの厚みを与えられているはかない 舞台装置のように今や見る影もなかったからである。” 余命数か月と告げられているスワンの姿の描写。
・ジョルジョーネ『眠れるヴィーナス』:絵画。私があこがれるヴェネツィアの画家の作品。夭折。とても美しい女性への比喩。
・フランスの中に遠い地方で、似たような方言を話す場所がある。フランソワーズの方言の話から。思わず、『砂の器』を思い出した。
・ベルゴット:第一巻からでてきた私がかつて崇拝していた作家。私は、ジルベルト(スワンの娘)が私のためにつくってくれたベルゴットの小冊子のカバーを、それをみて美しいといったアルベルチーヌにあげてしまう。私の中のジルベルトは、もう、何の未練もない。
・”フランソワーズの口づてで告げられたら死ぬしかないとまでおもいつめた欲求”。子供の頃の母を求めた欲求。今は、アルベルチーヌを求める欲求。
・”ユーラリの部屋の呼び鈴とそっくりの鈴の音”、を思い出してうっとりとした私。ユーラリは、第一巻ででてきたレオニ叔母(家の2階にこもっていた)を見舞いに来ていた女性。私がときどき過去の思い出にひたって、うっとりしている姿は、目の前にいる人には、まるで「今」あるは、「自分」に対してにうっとりしているようにうつっていた。
・”そんなわけで私は、祖母の両腕の中に飛び込みたいという苦しい欲求に駆られつつ、 たった今 ー 事実のカレンダー と感情のカレンダーとの一致をしばしば 妨げる アナクロニズムのせいで埋葬 から1年以上も経ってー ようやく祖母が死んだことを知ったのである。もとより 私は祖母が死んでからしばしば 祖母のことを語ったし、 祖母のことを考えもしたが、 恩知らずでエゴイストな冷酷 極まりない 若者であった私のことば考えの底には、祖母に似たものはけっして何一つ 含まれていなかった。”
バルベックにきて、祖母の不在を思う私。わたしが3つのノックをおくると、祖母が飛んできてくれた思い出も語られる。
人は、家族を亡くしたとき、本当にそのことを知るのは、何年も経ってからかも知れない。
・”なにもヨナタンの首みたいに銀のお盆に載せてもってきたりはいたしません。”
英雄「ヨナタン」の比喩をだした貴族の言葉に対して、使用人がサロメの「ヨカナーン」と勘違いした。 『サロメ』、同性愛、オスカー・ワイルドについて、さりげなくでてくる。
・”アンドレがグリサードをしながら私のそばにやってきた”:グリサード。グリッサード。バレエ用語で床をすべるようなステップ。アンドレが、女同士で踊っていた途中で、私をみつけて近寄ってきた様子の描写。
・”「それじゃあ、アルベルチーヌ、きみはぼくよりその婦人や 女友達の方が大切なのかい?だってその退屈な訪問を欠かさないために具合が悪くて、 悲嘆にくれているぼくを一人置いてゆくんだから。」
私がアルベルチーヌへ投げた言葉。こんなこという男、めんどくさいだろうな・・・。
・マナ: エジプト脱出後に荒野をさまようイスラエルの民に神が与えた食べ物。”マナはニケへの欲望であり”とでてくる。 ニケは勝利の女神。
本篇の最後には、ひとたび燃えたアルベルチーヌの同性愛への疑惑と嫉妬が、私の中から薄れていく。『失われた時を求めて』を読んでいると、物語の中の時間感覚がなくなっていく。だから、こんなタイトルなのか?とふと思ってしまうくらい。
だんだんと、世の中の理不尽さや、貴族社会の虚しさがみえてくる「私」。年齢不詳のまま物語は進む。。。
有名な「マドレーヌと紅茶」の話だけでなく、「私」のなかでは常に古い思い出と新しい出来事が同居していて、ふとした時に思い出、多くは胸がキュンとするような思い出がよみがえってくる。すべてがつながり合った回想なのだろう。いったい、このお話は、どういう結末をむかえるのだろうか?さすがに、8巻まで来て、残りは半分をきった。よくわからないとおもいつつ、惹きこまれていく不思議な本だ。
