『昭和ノンフィクション名作選』 by 石戸諭

昭和ノンフィクション名作選
石戸諭(いしどさとし)
インターナショナル新書
 2025年8月12日 第1刷発行

 

 2025年9月6日の日経新聞朝刊書評で紹介されていた本。面白そうなので、図書館で借りて読んでみた。

 

記事には、
”日本のノンフィクションは、戦後に隆盛を迎えている。開高健『ずばり東京』、向田邦子『父の詫び状』など全11の昭和の名作ノンフィクションを、ライターの著者が読み解いた。「集まったファクトをどう文章に落とし込むのか」とは、ファクトを集める取材と同じくらい重要だと説く。昭和の転換点を文章で伝えた人たちの思いを、動画メディアが存在感を放つ今かみしめたい。”
とあった。

 

著者の石戸さんは、 1984年、東京都生まれ。記者、ノンフィクションライター。立命館大学卒業。毎日新聞社、 Buzz Feed Japanを経て独立。2020年、「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞。

 

表紙の裏には、
”日本の「ノンフィクション」は、昭和期、とりわけ戦後に隆盛を迎えた。そこには転換点となった、重要な作品たちが存在する。女性の発見と言える『女たちの二・二六事件』、スポーツノンフィクションの金字塔「江夏の21球」、戦前と現代との断絶を取り続ける『昭和16年の敗戦』、ジャーナルでは書かれない事件の裏に迫る『誘拐』など・・・。
昭和100年の今こそ読みたい、読むべき名作の数々を深掘りする。”
とある。

 

目次
1 開高健『ずばり東京』  記録文学としてのルポルタージュ
2 本田靖春『誘拐』  社会部記者からノンフィクション作家へ
3 柳田邦男『マッハの恐怖』  読者の心の澱
4 澤地久枝『妻たちの二・二六事件』 「女性」の発見という先駆的視点
5 山際淳司江夏の21球」  スポーツノンフィクションの分水嶺
6 後藤正治『スカウト』  淡々とした日常から本質を掬い上げる
7 猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦』  事実への畏怖は……
8 沢木耕太郎『一瞬の夏』  方法の冒険を続ける作家
9 向田邦子「父の詫び状」  生活のリアリティが時代を超える
10 立花隆田中角栄研究』と児玉隆也「淋しき越山会の女王」   理と情のノンフィクション

 

感想。
ほぉぉ、面白かった。面白いのは、それぞれのノンフィクションが面白そうというのではなく、ノンフィクションを書くということに、その書くスタイルに焦点があてられているということ。小説のようなフィクションではないなら、事実を淡々と書き並べればいいかというと、そうではない、ということなのだろう。

 

ノンフィクションで夢中になるというのは、私の世代あるいは私の世代よりちょっと上なら沢木耕太郎の『深夜特急』を読んで、放浪の旅にあこがれた人なら理解しやすいだろう。著者が言うように、ノンフィクションと言っても色々なスタイルがある。新聞のように事実を時系列に並べたものがあえれば、『深夜特急』のように劇場型?!もある。あるいは、「父の詫び状」のように思い出を語りながら思考がめぐり、自分事にも重ね合わせながら読めるタイプ。

 

私は、どちらかというとノンフィクションが好きな方だった。でも、ノンフィクションの文体とフィクションの文体は別物だと思っていたけれど、実は違うのかもしれない。新聞に心動かされる記事が少ないのは、事実の羅列だからだ。そうではない新聞記事のほうが、読者の心には残りやすい気がする。


開高健は、自分の文体に悩みつつもノンフィクションの形を作り上げていった、と言われると、そうか、そうだったのか、、、、フィクション作家を目指しつつも、気づけばノンフィクションにも読み手の感情をゆさぶるような表現のしかた、解釈や理解を相手に委ねるやり方等、普段気にしないで読んでいたノンフィクションにも、さまざまなタイプがあるということに気づかされた。

 

例えば、私のブログは、ノンフィクションなわけだけれど別に特別の取材をして見聞きしたことを文字にしているわけではない。気の向くままのただの私の感想であり、私の中の覚書。というわけで、客観性をもたせようなんて思わないし、主観のかたまりみたいなもので文章をかいている。でも、雑誌、新聞、書籍にするのではれば、視点の定め方、第三者として記録するのか、時系列なのか、結果からきて起承転にもどるのか、、、なるほど、さまざまなわけだ。

 

本章は、ノンフィクション好きだけでなく、文章を読むこと、書くことが好きな人ならだれにでも、「お!そうか」と思うような一文があるような気がする。

 

紹介されているノンフィクションの中には、読んでみたいお思うものもあれば、そうか、そういう文体なのね、としるだけで納得してしまうものもある。それは、あくまでも個人の趣味嗜好。「江夏の21球」なんて、野球好きならすでに知っているのかもしれないし、知らなくても読んだら手に汗握る大興奮!なのかもしれないけど、私にはふ~~ん、って感じ。ただ、内容より、どのように表現しているのか、っていう点では気になる。読んでみてもいいな、と思う。

 

『妻たちの二・二六事件では、陸軍の青年将校たちの未亡人の声をひろった記録。事件についての記録は膨大にある。でも、処刑された、あるいは自決した青年将校の未亡人たちの視点では?おそらく、ここに紹介されている澤地久枝(1930~)の『妻たちの二・二六事件』は、読むべき一冊、と私には思えた。

 

「父の詫び状」は、いうまでもなく、やはり、素晴らしい。

megureca.hatenablog.com

個人的には、佐藤優さんの『15の夏』は、最高に面白いノンフィクションだ。

megureca.hatenablog.com


本書をよんでいると、やっぱり、ノンフィクションっていいよなぁ、って思った。しかも、息の長いノンフィクションは、やはり、すごいと思う。

 

ちょっと、覚書。
・ニュー・ジャーナリズム:アメリカの作家でジャーナリストであるトム・ウルフの定義
1.シーンから清へと連続しながら描写を積み重ねていくこと
2.会話をそのまま記録すること
3.三人称の視点を採用して描くこと
4.ディテールにおいて象徴的な事実を記録すること

 

開高健は、ベトナム戦争を取材していた記者だった。

 

・『ベスト&ブライテスト』(1972、デイヴィッド・ハルバースタム):ベトナム戦争で犯した致命的な過ちの克明な記録。軍の発表を正確に発信することばかりに熱心なジャーナリストに疑問を持った。後に立花隆と対談し、それを「ワイヤ・サービス(通信社)メンタリティ」とよんだ(『アメリカジャーナリズム報告』立花隆、文春文庫、1984)。

 

陰謀論は、「無知な人々」がはまり込むのではなく、積極的にニュースを知りたいという人々が接近する。科学的に確かなニュースを求める人々の思考法と陰謀論的な発信を好む人々の立ち振る舞いはしばし似ている。

 

・ニュースを「他人事」ではなく「自分事」にするために恐怖を刺激するのは現在まで新聞、テレビ、そしてインターネットメディアでも王道として使われている。むしろ現在では奨励されると言ってもいい。地球温暖化にしても、新興感染症にしても、あるいは貧困にしても、性差別にしても、政治にしても遠い世界の出来事ではなく、明日は自分の問題になるという伝え方はそこかしこに存在している。

 

・『空白の天気図』柳田邦男、新潮社、1975: 1945年9月17日の広島。原子爆弾が投下されたわずか一ヵ月後の日本を襲った枕崎台風が、広島を直撃した。広島県の死傷行方不明者は3000人を超え、2012人の死者・行方不明者をだした。爆心地の南3.7キロメートルに位置する広島気象台でも被害は甚大で、そのような状況でも気象データを取り続けていた若者がいた。

 

『妻たちの二・二六事件:「女性」の視点から描かれる二・二六事件は大きな問いではなく、小さな分岐点、小さな問いの連続を強調することで「生活」を発見した。生活を捨て去ることでマクロに接近した男性とは全く異なるものだった。
 ”その発見は、決して小さなものではない。大きな出来事から時代を論じることは決して悪いことではないが、大きな論は往々にして小さな声を捨て去る。小さな声を求めようとしても罠がある。東日本大震災のような災害であっても、犯罪被害者遺族であっても、私も含めたメディアは望ましい被災者像、被害者像を強いてしまうことだ。”

 

・9 向田邦子「父の詫び状」から
”向田作品は社会的な体裁を気にしながら、不器用に生きてしまう父のように人間のいい加減さをちょっとだけ肯定しながら、ある人物について、語り合えるだけの幅も同時に肯定した。何かにつけ白か黒かをはっきりさせていく潮流が強まっていく中にあり、あらためて作品価値を考えてしまう。やはりいつ読んでも、新しく発見できる人間の面白さがある。”と。

 

私は、ライターを目指しているわけでも小説家を目指しているわけでもないから、文章の書き方を学んだことなんてない。読んでいると、自分でも好きなもの、そうでもないものがあることに気が付くけれど、文体の違いというのは、あまり意識したことがなかった。まぁ、川端康成とか、三島由紀夫とか、口ではうまく説明できないけど、文体の個性が際立つ人っている気がするけど。

 

でもやっぱり、フィクションって、伝え方次第なんだな。そこは、ノンフィクションとかわらないのか、、、というのが、すごーく目からウロコ。

 

読書好きな人に、お薦めな一冊。

わりと、あっという間に読める。

 

読書は楽しい。