『失われた時を求めて10「囚われの女Ⅰ」』 by マルセル・プルースト

失われた時を求めて10「囚われの女Ⅰ」
マルセル・プルースト
吉川一義 訳
岩波文庫
2016年9月16日 第1刷発行
2016年11月4日 第2刷発行

底本:マルセル・プルースト失われた時を求めて』(1913-27) プレイヤッド版

失われた時を求めて9 ソドムとゴモラⅡ』の続き。

 

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表紙裏の説明には、
”海辺を自由に羽ばたく鳥ーーアルベルチーヌをパリに連れ帰り、恋人たちの密やかな暮らしが始まる。籠の鳥となっても女は謎めいたまま。嫉妬と疑惑が渦を巻く。狂おしい日々を彩る、パリの物売りの声、芸術の考察、大作家の死、周囲の人々の流転と共に物語は進む。(全14冊)”
とある。


9巻の最後、二度目のバルベックの滞在を終えて、「私」は、アルベルチーヌを連れてパリに帰ってくる。母に、アルベルチーヌと別れる宣言をしたかとおもったら、ヴァントゥイユ嬢とアルベルチーヌの親交をしって嫉妬にかられ、「どうしてもアルベルチーヌと結婚しなければならないんだ」と宣言した私。

なんだかなぁ、、、、。所有欲にかられた男というか、、、。

 

で、10巻は、囚われの女、つまりはアルベルチーヌがパリの私の家に住み、常に私に監視されるような生活を送っている話。とはいっても、アルベルチーヌの視点の文章ではない。あくまでも、私が語り続ける。延々と・・・。

パリに連れ帰ったはいいけれど、
”同居をはじめたとたん「もはやアルベルチーヌを愛していなかった」”
といい、それなのに、アルベルチーヌが一人で出かけることを許さず、アンドレを常につきそわせたり、運転手に見張らせたり。

 

私がアルベルチーヌだったら、速攻で逃げ出す‥‥と思う。いや、、、貴族っぽい暮らしを多少たのしむか?!

 

舞台は、パリ。アルベルチーヌとの暮らしぶりの他、相変わらずゲルマント公爵夫妻の家を訪ねる私と周囲の人びと。シャルリュス男爵とモレルの交流。シャルリュス男爵がどんどんモレルに深入りしていこうとする割に、モレルはシャルリュス男爵を貴族界へのルート、あるいは金づるとしかみていないのか。。。

モレルは、シャルリュス男爵がかつてつき合っていたジュピアン(公爵の住む館に出入りする仕立てや)の姪と結婚することになるが、モレルの身勝手さでうまくいかない。シャルリュスにとっては、モレルがこの娘と結婚すれば、常に自分の監視のもとにおけると喜んだのだが・・・・。

最後の方では、私が敬愛していた作家ベルゴットの死が語られる。

 

命あるものの儚さ。
サロンで語られる芸術の永続性。

 

サロンで人々の会話に出てくるギリシャ神話、古典、美術、音楽からのメタファー。やはり、注釈がないと私にはわからない単語がたくさんでてくる。
それでも、メタファーが通じる会話、という仲間意識や、それを理解できない人への無言の不寛容。人間臭さが、今の時代とは背景が違うお話でありながら、身近な話のような気もしてくる。

モレルが弾く曲、サロンで流れる曲、聞いただけで作家をあてるような人もいれば、間違った作家だと言い張る人もいる。ヴァントゥイユ、ワーグナー、、。

やっぱり、なんとも、不思議な小説。

 

ちなみに、第5篇『囚われの女』(1923)以降の巻は、プルーストの死後に出版された。
訳者あとがきによれば、

”1913年に第1篇『スワン家の方へ』が出た時には、全3篇(『第2篇ゲルマントのほう』、第3篇『見出された時』)で刊行される予定であった『失われた時を求めて』が、第一次世界大戦による出版中断の間に『囚われの女』や『消え去ったアルベルチーヌ』などのアルベルチーヌ関係の物語が加筆されて現在の7篇構成になったこと、この二点もよく紹介される。この加筆の要因には、プルーストが運転手兼秘書として雇ったアルフレッド・アゴスチネリの同居と失踪と事故死があったこと、このニ点もよく紹介される。”

と。

 

ここでもう一度、構成の振り返り。
第一篇 スワン家のほうへ
第二篇 花咲く乙女たちのかげに
第三篇 ゲルマントのほう
第四篇 ソドムとゴモラ
第五篇 囚われの女
第六篇 消え去ったアルベルチーヌ
第七篇 見出された時

 

失われた時を求めて』の最終章は、「見出された時」なのだ。いったい、この先、どういう展開になるのか・・・・。というか、あまり展開を期待して読む本ではない。ずーっと、延々と語られる描写を楽しむものなのだろう。

 

と、アルベルチーヌが気の毒にとおもいつつも、私の監視を気にせずにあちこちへ出歩くアルベルチーヌの姿に、逞しさも感じる第10巻。でも、アルベルチーヌにあまり賢さは感じない。。。なぜ、「私」が、そこまでアルベルチーヌにこだわるのか?それもよくわからない。。。損失回避性か?!

とまぁ、この、滔々と流れる物語を味わうのは、日常の会話の中にあふれるメタファーを自分なりに解釈することなのかもしれない。本当にそれができるのは、あらゆる古典、芸術を知っている人だけなんだろう。

 

自分なりに、ちょっと覚書。
・パリに戻ってきて、まもない時の私のことば。
”アルベルチーヌをこのように女友達から引き離した首尾は上々で、私の心に新たな苦痛が生じることはなくなった。おかげで私の心は休息の状態、ほとんど不動の状態に保たれ、これでわが心の傷は癒されるかと思われた。とは言えわが恋人がもたらしてくれたこの安らぎは、要するに喜びというよりも苦しみの鎮静である。この安らぎは、あまりにも激しい苦痛のせいで私に閉ざされていた数多くの歓びを味わわせてくれなかったわけではないが、私はアルベルチーヌをもはやきれいだとは思わず、一緒にいても退屈するだけで、もはや愛してないことがはっきりと感じられ、その歓びは、アルベルチーヌのおかげでもたらされたものではなく、むしろアルベルチーヌがそばに居ない時に味わったものだ。”

なんというか、自分が嫉妬から自由になったと感じることが歓びということ?
9巻の最後から10巻の最初、バルベックからパリに戻ってきたとたんの心変わり。というか、最初から私はアルベルチーヌを愛しているわけではなかったとおもわれる。

さらには、
”・・・アルベルチーヌからは、もはやなにも学ぶものがなかった。その美しさも日ごとに減じてゆくような気がした。”とでてくる。

だけれど、ずっとアルベルチーヌを自宅に同居させている私。母たちは不在で、フランソワーズだけが、相変わらずアルベルチーヌのことをよく思っていないままに私の世話をしている。


・ゲルマント夫人がメーテルランクを嘲笑するのを理解した私のつぶやき。
メリメがボードレールを、スタンダールバルザックを、ポール=ルイ・クーリエがヴィクトル・ユゴーを、メイヤックがマラルメを嘲笑しても理解できるのに似る。”
注記によれば、前者はいずれも文体が端正で作風が均一、後者は前者よりも文体が個性的で破格の策が多い。

 

・”そもそも人間は深く考えなかったこと、他人の真似をしたり周囲の熱狂に煽られたりして口にしたことなど、たちどころに忘れてしまう”

 

・”ダレイオスの息子クセルクセスが、自軍の艦隊を呑みこんだ荒海を鞭打たせたという行為ほどに誌的なものがほかにあるだろうか?”
 *ダレイオスの息子クセルクセス:前480年のギリシャ遠征で、ヘレスポントス海峡に架けさせた二本の舟橋を破壊した海の嵐に怒り、「家臣に銘じて海に300の鞭打ちの刑を加えまた足枷一対を海に投ぜしめた」。ヘロドトス『歴史』

 

・”われわれはある人のために財産も命も投げ出そうとするが、しかし十年も経てば、それより早いか遅いかはともかく、今度はその同じ人にそんな財産を与えるのを拒み、自分の命の方をずっと大切にすることは火を見るより明らかだ。というのも、その時になれば、その人は我々から離れて、ひとりに、つまり無になるからである。”

 

・”「・・・そんな人たちの思いやりなど、ぼくはありがたくないね。」このようなことばは、どれも母が口にするのを聞いてきたものだ。というのもわれわれが発する言葉の大部分は、誰かの発言の復唱にすぎないからである。”

うん、、、ひとは、コピーをすることから学び始める。

そして、「私」は、アルベルチーヌの話し方が、だんだん自分に似てきていることに気が付き、アルベルチーヌは自分の「作品」と思い始める。

 

・”・・・・私が今や他人にそんな言葉を使い、それがごく自然に私の口をついて出てくるのは、私が無意識の模倣や記憶の連想によって、それを呼び出しているからか・・・。”

 

・”そのような夜、私がアルベルチーヌのそばで味わったのは、もはやコンプレーで母の接吻が与えてくれた心の鎮静ではなく、それどころか母が私に腹を立てたか、招待客のそばにとどまらざるを得なかったかで、ろくにお寝みを言ってくれなかったり、私の部屋まで上がって来てくれなかったりした後の劇しい不安である。”

大人になった私は、いつも子供の頃の母や祖母への感情を記憶から呼び起こしている。

 

・”・・・・一方ではアルベルチーヌの外出にだれかを付き添わせるために、、、シェラザード以上の話術を駆使せざるを得なかった。”
シェラザード:『千夜一夜物語』の女性話者。巧みな話術でシャフリヤール王の興味を翌日につなぎ、千夜にわたり物語を語り継いで、女性不信に陥った王が一夜を共にした娘を次々と殺す事態を食い止める。

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フェルメール『デルフトの眺望』プルーストが「世界で最もすばらしい」といった絵。
デン・ハーグマウリッツハイス美術館が所蔵。本巻のなかでは、ベルゴットが死ぬ前に展覧会で目にする。そして、その美しさに自分の最後のころの本は無味乾燥だったと感じたまま、倒れる。
これまでにも、『失われた時を求めて』のなかで、何度か出てきている。

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・”アルベルチーヌに話を戻すと、これほど生き生きした嘘、血のかよった色合いそのものに彩られたような嘘をつく都合のいいいい才能に恵まれた女性を私はほかに知らない。”

 

「私」が人々を描写する言葉の海。言葉の渦。言葉の沼。。。。

原語で読めたら、もっと深く楽しめるのだろう、、、と思うけど、、、

ようやく、10巻まで通読。

 

囚われたアルベルチーヌの話は、11巻に続く。