わたしの渡世日記 下
高峰 秀子
文芸春秋
1998年3月10日 第1刷2011年1月25日 第11刷
上の続き。
裏の説明には、
”名演出家、成瀬巳喜男の「浮雲」、木下恵介の「二十四の瞳」など多数の映画に出演した戦後。その一方で、スターという虚像から逃れようと、七カ月のパリ独り暮らしをしたり、谷崎潤一郎や志賀直哉、梅原龍三郎らとの交友を楽しんだり。川口松太郎が「人生の指導書」と絶賛した、女優・高峰秀子の一代記。”
そして、最後に解説を書いているのは、沢木耕太郎さん。
”私は高峰秀子の『わたしの渡世日記』を読んでみた。読んで驚いた。そこに思いがけないほど豊かな世界が存在していたからだ。・・・・高峰秀子は日本の女優では例を見ない率直さで、自ら辿ってきた道筋を述べていた。”
沢木は、高峰さんの文章を絶賛している。『わたしの渡世日記』は高峰さんが松山善三と結婚したところで終了。その夫松山は、妻のことをカワイコちゃんから結婚25年の間に次第に変貌し、孤独な、しかし毅然とした雌ライオンに変身した、と、『旅は道連れツタンカーメン』に書いているそうだ。そして、まさに、その毅然とした姿こそが本当の高峰さんなのだろう、って。
また、文章についてもベタホメ。
”・・・間違いなく高峰秀子にも苦しみや悲しみはあったろう。だが、その苦しみや悲しみが人生のすべてではなかった。美しいものを見ることができたし、美味しいものを食べることができた。いい仕事をする仲間に恵まれたし、鮮烈な人と出会うこともできた。その上心優しい人と結ばれることもできた。それでどうして人生を肯定しないでいられるだろう。
ここに高峰秀子文章の最大の特徴である、その底に貫かれている人生を肯定する意志の強さが明らかになる。人生を肯定する意志、というのが大げさならば、人生を味わい尽くそうとする意志と言い換えてもよい。”
あぁ、そうかもしれない。
下巻を読んで、楠木健さんが惚れ込んだ理由がわかる気がした。
目次
黄色いアメリカ人
赤いスタジオ
十人の旗
ハワイの花
お荷物
キッチリ山の吉五郎
鯛の目玉
「空・寂」
ウソ泣き
ダイヤモンド
色と欲
木下啓介との出会い
カルメン故郷に帰る
遁送曲
勲章
続・勲章
愛の人
パリへ
ZOO
夕日のパリ
再び戦場へ
二十四の瞳
ラスト・ダンス
イジワルジイサン
骨と皮
感想。
いやぁ、面白かった。
この時代の映画俳優や監督の作品にくわしくはないのだけれど、思わずみて見たくなる。映画の話がおもしろいのではない。やはり、高峰秀子というひとがすごい。
昭和26年、女優の人気まっさかりのとき、27歳でパリに7か月間の留学?逃亡?をしたそうだ。仕事では女優として常に世間の目にさらされ、自宅に帰っても娘に対する嫉妬でおかしくなっている母がいるという環境から、逃げ出したかったのだろう。とはいえ、ちゃんと、戻る計画をもってのパリでの人生のロングバケーションってところだろうか。知り合いのつてで、ホテル暮らしではなく、学生向けのアパートで暮らした6か月。キラキラのパリの生活をもとめたのではなく、市井の人々の暮らしと、普通の人としてするためには日本を脱するしかなかったのだろう。女優さんもたいへんだ。
そして、これだけの大女優だったというのに、出演料がネコババされたり、養母やその家族にごっそり吸い取られたり、、、自分で自由にできるお金なんてほとんどなかったという。
それでも、不要なものは持たない、今でいうミニマリスト的な思考の高峰さんにとっては、ものを持たないこと、お金をもたないことというのは、別に苦労でもなんでもなかったようだ。というか、お金がなくても、高峰さんには助けてくれる人がたくさんいた。愛されキャラ。キャラというか、根っからの「人生を本気で生きる人」だったのだろう。
上巻についで、下巻は戦後の様子から始まる。つじつまの合わない「昨日までの自分」と「今日の自分」を、無理やり呑みこむ人びと。高峰さんも、「同期の桜」から、アメリカのポピュラーソングへ、、。其のつじつまの合わなさに目をつぶり、現金な変わり身の早さに、後ろめたさを感じつつていた様子を、
”・・・人気商売とは言いながら、こんな事がゆるされていいのだろうか。人には言えない、妙な後ろめたさが、私の背後に忍び寄ってきて、夜となく、昼となく、尖った爪の先でチョイチョイと私をつつくのだ。”と書いている。
そして、アメリカ進駐軍が日本の政治に介入したとたん、「婦人参政権」が行使され、「婦人警官」が誕生した。赤い口紅を塗って、街に立つ女も生まれた。それでも、高峰さんは、”敗戦を境にして、女が強くなったと私は思わない。けれど、敗戦によって、女がはじめて男の正体というものを識ったのは事実だと思う。男は闇市をぶらつくだけ、、、”と、厳しい。それまで、封建的だった男がただうつろな日々を送るだけになったことで「男の正体」がわかったのだ、と。
また、戦前にハワイで生まれた日系二世たちが、自分たちはアメリカ人であるという思いにもかかわらず、真珠湾攻撃の後には敵であるかのようにみられ、アメリカへの忠誠をみせるためにもアメリカ軍へ志願していったという、胸の痛む話。
かと思えば、高峰さんの広い人脈で出会った人々の描写が、楽しい。
太宰治は、
”ダブダブのカーキ色の半袖シャツにヨレヨレの半ズボン、素足にちびた下駄ばき、広い額にバッサリと髪が垂れさがり、へこんだ胸、細っこい手足、ヌウと鼻の伸びた顔には彼特有のニヤニヤとした照れ笑いが浮かんでいる・・・・。作家の容姿にこれといった定義があるわけではないけれど、とにかく当代随一の人気作家太宰治先生は、どぶから這い上がった野良犬の如く貧弱だった。”
(笑)
太宰の原稿をもとにえいが作成中だったのだが、その原稿途中で、愛人と入水自殺しちゃう太宰。。。。映画「グッドバイ」は、脚本家が引き継いで完成させたらしい。
木下恵介監督との話の中で、話題が政治家に及ぶ。”「・・・私は映画には縁がありませんので・・・」というような政治家は、たかが映画なんか、と薄笑いを浮かべる”、と。そして、
”私が知る政治家の中で、多少なりとも映画に関心を示した人たちは、現在外務大臣の宮沢喜一、大蔵大臣の大平正芳、そして今は亡き佐藤栄作の3人だけである。”
って。
と、先日、元官僚の大先輩方と話をしていたら、「大平さんはすごい人だった」といっていた。彼らの言うすごいとは、「人徳がある」という意味。あ~う~おじさんだと思っていたけれど、さすが、映画をばかにしない、芸術を馬鹿にしない人には、徳がある・・。
「バズーカお佐和」というエッセイは、作家有吉佐和子さんと一緒にいったメキシコのお話。「恍惚の人」に出演した高峰さんは、有吉さんと親交があった。そして、JALの羽田~メキシコ路線開通第一便に、岸信介を団長とする120人の人が乗り込み、その中に高峰さんと有吉佐和子さんの2人がいた。二人で、メキシコで遊んでやろうとたくらんでいたところ、有吉さんが扁桃腺で高熱に寝込んでしまい、介抱した話、、、と思いきや、もちろん、介抱もしたのだけど、後に有吉さんからは三日目にはタオルを投げられたって。仲良しで何より。ホテルにやってきた医者が、注射用の消毒アルコールをわすれて、部屋に合った銘酒サントリーで消毒したのだとか、、、(笑)
他、いいなぁ、と思う高峰さんの言葉、覚書。
・優れた人間とは、「この人と同じ時代に生きられたことは、自分の幸せだった」と思える人のことだろう。
・ルノアールは目で絵を描いたかもしれないが、梅原龍三郎は「愛情」で絵を描いていると、私には思えてならない。
(表紙の絵は、梅原龍三郎画)
・家まで売り飛ばしてパリへいき、「平凡な生活」を求めた自分について。
”私の半生は、生まれる前からと言ってもいいほど、アブノーマルでありアンバランスの連続だった。こんがらがった針金の玉のような自分の過去を今更ときほぐして、人間並みに辻褄を合わせようとアガいてみても、しょせんは徒労に終わるだけだろう。黒を白にすることはできないし、白を黒にすることもできない。それを一番知っているのは私自身だった。”
本当に、生の現場で、人生を学んでいった人。
自分の力で生きること、みんなに助けられていること、5歳からの女優人生で学び、強くたくましく生きた人、そんな感じ。
かっこいいなぁ、と思う。
また、この時代の映画人たちもすごいなぁと思う。
知り合いに、かつて東宝だか松竹だか、、、どっちだか忘れたけれど映画作りをしていた人がいる。もう、古希をすぎた大先輩。彼は、会社がピンク路線になってしまったことで映画界を去った。そして、最近、自分でやっていた飲食店も閉店し、引退した。どうするのかな?と思っていたら、小説を書き始めた。初稿を読ませてもらっているのだけれど、とりとめもないけれど、人生の大事なことがちりばめられている。もういちど、映画界に戻って、映画にしてくれたらいいのに、、、って思った。あの時代の映画界の強さが彼の根底にも流れているのだな、、、と思った。
映画にもいろいろあるけれど、やっぱり、観る側もつくる側のメッセージが受け取れた時、あぁ、いい映画だったなぁ、って思うような気がする。
いつか、古い日本映画も観尽くしてみたい・・・・。
そんな気分になった高峰さんのエッセイだった。
今読んでも、面白い。
