失われた時を求めて14「 見出された時 Ⅱ」
マルセル・プルースト
吉川一義 訳
岩波文庫
2019年11月15日 第1刷発行
2019年12月6日 第2刷発行
底本:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(1913-27) プレイヤッド版
失われた時を求めて 第13巻の続き。
とうとう、最終巻。どの巻もそうだけれど、厚さ2cm以上の最終巻。
表紙の裏の袖には、
”ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した。時は人びとの外見を変え、記憶を風化させ、社交界の勢力図を一新していたのだ。老いを痛感する「私」の前に、サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ、いまこそ「作品」に取り掛かる時だとせまる。”
とある。
感想。
あぁ、、、おわっちゃった・・・・。
とうとう、最後まできちゃった。。。。
あぁ、、、そういうことか。
ただ、そういうことか。
時は失われていない。
人は、何度も生まれ変わる。
ジルベルトを愛さなくなった時、ジルベルトを愛した私は死ぬ。
アルベルチーヌを愛さなくなった時、アルベルチーヌを愛した私は死ぬ。
でも、忘れるわけではない。
多くの人とのつながりの中で、今の私は生き続けている。
何度も私の死を経験した私は、死を恐れなくなっている。でも明日死ぬかもしれないということもわかっている。だから、いまこそ「作品」を書こう、という決心で物語は終わった。
「私」は、あしかけ20年の療養生活を続けて、ゲルマント大公邸のサロンを再び訪れる。そこで出会ったのは、かつて、一緒になることはないであろうと思われた人々が同居している場面。あるいは、かつてと変わらない人々。しかし、その見た目は、
”髪に粉を振りかけて「変装」したよう”に変わっていて、私には奇妙にみえる。
みんな、白髪交じりで、白い髭をつけ、足元もおぼつかないものもいる。自分だって老いているのだが、時の流れを感じる。社交界の勢力図の一新の最たる例が、ジルベルトがゲルマント大公邸に招かれているということ。サロンから嫌われていたオデット(スワンの妻)は、「私」の両親ですら自宅に呼ぶことはなかった。その娘がサン=ルーと結婚したことで、社交界へ。ジルベルトは、遺産相続で金持ちにはなったものの、審美眼などのセンスはオデット(元高級娼婦)なみ。それを
”スワンの娘でありながら、メンドリの温めた卵からかえったアヒルのようなジルベルトは、、、”と。。。これ、原語はどういう文だったんだろう?
私は、ジルベルトとサロンであったときに、誰だかわからなかった。
「私を母だと思ったでしょう」というジルベルト。そして、サン=ルーの面影を残す娘は、まるで昔のジルベルトのよう。
14巻でも、社交界の人びとのスノビズム。そして、延々と続くかに思われた人々の会話は、いつしか「私」の永遠に続くかと思われる独白に変わっていく。これまでの人生を振り返り、死を意識しつつ、生きていることを実感する。そして、ジルベルトの娘の若さに触発されるかのように「書くこと」への意欲がわいてくる。こういう作品を書くぞ、という決意の独白。
そして、突然、「完」の文字。
え?!?!
これで、おしまい???
まだ、厚さの半分しか読んでいないけど?!?!
私の独白は、83歳となったゲルマント公爵に老いの姿をみとめつつ、人の一生というのは時の積み重ねであること、人生はいつ終わりが来るか誰にもわからない、私はここからの帰り道に事故で死ぬかもしれないし、死なないかもしれない、といったちょっとせつな的なトーンが続く。
そして、
” 自分の足の下にすでに遠く伸びているこの過去をなおも長い間わが身につなぎとめておく力が、 私にまだ残されているとは思われない。だからもし私に 自分の作品を完成させるために十分な時間を割くだけの力がなおも残されているのであれば、かならずや私は、その作品のなかに人間を描くさい、 たとえそれが人間を怪物に似せる結果になろうとも、 何よりもまず人間を、 空間の中で人間に割り当てられた実に狭い場所に比べれば、 逆に極めて 広大な場所を時間の中に占める存在として描くだろう。 人間は、まるで 歳月の中に投げ込まれた巨人のように、 様々な時期に同時に触れているのだから、そして人間が生きてきたさまざまな時期はたがいに遠く離れており、そのあいだには多くの日々が配置されているのだから、人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ。ーーー果てしない「時」のなかに。
完”
と、え?!終わり?!?!となってしまった。
本書を読むと、もう一度最初から読み直したくなる、という人が多くいるのがわかる気がする。最初から、「私」が過去を振り返っている物語であることはわかるのだけれど、最後、「私の過去の人生」をもとに時空を超えた人間を描こうと決心する「私」の思考は、最初から表現されていたのか、と確認したくなるのだ。また、登場人物も途中で婚姻関係が変わって名前が変わったり、あとから親戚関係が明らかになったりするので、最初から確認したくなる。
最後、「私」は、小説としての作品をかくことを決心した。もしかすると、プルーストはまだ続きを書くつもりだったのだろうか。
そして、その後のページは、いつものように場面索引、訳者あとがきが続き、そのあとに270ページを超える資料編。『失われた時を求めて」以外のプルーストの文献一覧、プレイヤッド版との異同一覧、図版一覧、作品名索引、地名索引、人名索引。。。。
気が遠くなるほどの索引。原稿チェックするだけで、1か月くらいかかりそう・・・・。人物の名前と何巻の何ページにでてきたか、、、が全て索引になっているのだ。こんな作品、みたことない。
訳者あとがきによれば、1999年に翻訳を依頼され、本格的に訳出にとりかかってからも十数年、刊行を開始してから9年の月日で14巻までたどり着いたのだそうだ。
新巻発行をリアルタイムで読んでいた人には、訳者と同じような達成感があっただろう。難解な小説というより、「私」と対話する小説だったんだ、ということが最後にわかった。
原語ではどうだったのだろう?と思う。私は、最初は、高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫で読み始めた。が、7巻以降はまだ発行されていないことに7巻を読もうと思って気が付いた。ゆえに、7巻から吉川さん訳で読んだのだが、やはり、ちょっと、リズム感というか、なにかが変わった。
訳本というのは、あくまでも訳本なのだ。
でも、日本語訳があるというのはすばらしいことで、翻訳本がなければ触れることのできないものが、身近になる。小説も、絵本も、ビジネス本も、教科書だって。
日本語の本だって、ものによっては歴史・文化などの背景を理解していなければ、ストーリーは掴めても、深さが楽しみ切れないものがたくさんある。
点と点がつながればつながる程、「知る」ということは楽しくなる。
読書の楽しみ方の一つを、教えてくれる本だったな、と思う。
プルーストが、人生観を「私」に語らせている本、ということなのだろう。小説といっていいのか、よくわからない。でも、「マドレーヌの香り」に代表される小さな「きっかけ」とそこから引き出される「膨大な記憶」が、見事に表現されている。香りだったり、景色だったり、あるいは音や感触など、五感が無意識の中にある記憶を呼び覚ます感じ、あぁ、懐かしい、そしてちょっと切ないような・・・。
ずっと忘れていたつもりだった記憶が、ふとしたきっかけで鮮明によみがえってくる感じ。人は、広大な時空の中で生きている。たのしからずや。
あぁ、達成感。
読み飛ばしたところもあるけれど、2025年中に、とりあえず一回は通読したぞ!という達成感。繰り返しでてきたギリシャ神話の神々、ドレフェス事件、聖書の言葉。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」(ヨハネによる福音書 12章 24節)
時空は果てしない。
だいぶ時間をかけて読んだので、後で、第1巻から振り返っておこうと思う。
