『小説、この小さきもの』 by 鴻巣友季子

小説、この小さきもの
Narrating Mortality  Why We Write Novels
鴻巣友季子
朝日新聞出版
2025年9月30日 第一刷発行

 

本のプロの知り合いが、小説とは何かという話の流れで「 他者を書くということは自己を書くことであり、 自己を書くということは他者を書くことである。」という本書の中のフレーズを教えてくださった。そして、買って読んでみようとおもっていた矢先に、「あげる」といって、下さった。

 

帯には、
” なぜ私たちは小説に「共感」を求めるのか?
翻訳という「 体を張った 読書」から散文文芸=小説の起源を探り、私たちが物語/キャラクターに没入するメカニズムを解き明かす。
ギリシア・ローマ古典、聖書にはじまり、
ウルフ、アーレント、アトウッドを経て、アマンダ・ゴードマン、市川沙央へ
古代と現代、 世界と日本をつなぐ本格文芸評論
書下ろしコラム「文化盗用」「 古典の浄化と読み直し」「市民検閲」を収録

私たちは孤独ゆえに小説を生みだし、
小説を読み書きするゆえに孤独を深めてきたのだ。”
とある。

 

著者の鴻巣さんは、1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。 マーガレット・ミッチェル風と共に去りぬ』(全5巻)、エミリー・ブロンテ嵐が丘』などの訳本の他、著書もある。

私は鴻巣友季子といわれてもよくわからなかったのだけれど、知らないうちに、読んでいたかもしれない。

本書は、「小説トリッパー」2024年夏季号から2025年春季号に掲載されたものに書下ろしコラムをくわえたもの。

 

目次
第一部 小説、感情、孤独
 第一章 詩と小説、色と光
 第二章 小説、この小さきもの
 第三章 近代化、孤独、小説
 コラムⅠ 文化盗用
第二部 神から遠く離れて――小説はいかに共感の器となり得たか
 第一章 デーモンが世界を散文化する
 第二章 散文、労働、翻訳
 第三章 共感を担う話法
 第四章 リレータブルという価値
 コラムⅡ 古典の浄化と読み直し

第三部 フィクションと当事者性――〝真実〞はだれに語り得るか?
 第一章 リアリズムから読み解く共感
 第二章 語り手から読み解く当事者性――人称と視点
 第三章 フィクションでだれになにが書けるか?
 コラムⅢ 市民検閲

第四部 個人と包摂性、独立と連帯
 第一章 咀嚼か窒息か
 第二章 語りにおける回顧と模倣
 第三章 What Are You Going Through?

おわりに 小説とロンリネス――独りきりの私のために

あとがき
主な参考文献
索引

 

感想。
へぇぇ!!
なるほどぉ。
面白かった。

 

小説とは何かなんて考えて読んだことがなかったけれど、なるほど、世の中の読者にはこういうことを考えながら読む人がいるのかとか、こういう文章を文芸評論というのか、と、なるほど、なるほど。『失われた時を求めて』とか『人間失格』とか、こういう視点でよんだら、もっともっと深く楽しめたのかも、とも思った。文芸評論が面白いと思ったのは、初めてかもしれない。

megureca.hatenablog.com

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大量の本や作家が引用されているのだが、読んだことのある作家や作品がでてくると、ふむふむなるほど、となってさらに面白く読める。特に外国の作家は、あぁ、こういう評論にでてくるくらい有名な人だったんだぁ、と思う。丁度、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ONE BATTLE AFTER ANOTHER』を観てめちゃくちゃ面白かったので、一応原作と言われているトマス・ピンチョンの『ヴァインランド』を図書館で借りたのだけど、あまりの分厚さに積読になっていた。でも、ピンチョンも本書で言及されていたので、やっぱり、読まなくっちゃ、と思った。

 

英語で、Narrating Mortality とタイトルにあるので、なんでかな?と思った。直訳すれば、「死を語る」。私たちの命は有限であり、生まれてきたということはいつか必ず死ぬということであり、その限られた時間の中で小説を読み、あるいは小説を書き、様々な「人生」を味わうことに小説の意味があるということ、なのかな?

 

本を読むのは、孤独な作業。だからこそ、そこに共感を求める。かといって、共感できる登場人物だけを求めているわけでもない私たち。代表例として、ラスコーリニコフと友達になりたいか?という話が第二部第四章ででてくる。ラスコーリニコフとは、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公で、老婆殺しをした人物。あるいは、ピンチョンの登場人物と友だちになりたいか?という文も出てくる。

「主人公に共感できないからこの本は好きじゃない」って、短絡すぎないか?とも。

 

なるほど、である。私は、川端康成の本の登場人物にはあまり共感できない。だからといって、読みたくないかというとそうではない。情景描写のうまさに、うっとりしながら読んでしまうところもある。太宰治の『人間失格』だって、葉蔵と友だちになりたい人なんて、いない気がするけれど、いまだに読まれつがれる古典になっているし、私も読んで太宰ってすごいって思った。

 

たしかに、私の場合も、必ずしも共感を求めて小説を読んでいるわけではない。だけど、原田マハが大好きなのは、登場人物に強く共感してしまう人が多いからだ。

 

う~ん、なぜ小説を読むのかと聞かれると、私にはとくに明確な方針があるわけでもないけれど、やっぱり、読書は楽しいのだ。それは、孤独な行為でありつつ、著者との対話があり、「生きる」を感じるからなのかもしれない。ついでに言えば、小説を読むのがこんなに楽しいというのは、歳をとってから思ったことかもしれない。もちろん、子供の時から嫌いではなかったけれど、別に読書家だったわけではない。でも、読書はすればするほど、小説も読めば読むほど、それぞれの本の面白みがわかるようになってくる。
経験を重ねないと、この層が増えていく感じはわからない。

 

渡邉さんの言うように、もっと真剣に「感想文」にも取り組んでいたら、もっと若い時から古典の小説を読むことを楽しめたのかもしれないな。。。

 

共感できなくても、読書がたのしめるということを、鴻巣さんは、自撮り型読書でなはく冒険型読書と言っている。シンパシー【共感】ではなく、エンパシー【他者洞察、洞察的理解】も、読書の楽しみなのだ、と。ついでにいうと、楽しみだけでなく、学びもあるかもしれない。

 

気になったところを覚書。
・「 アルファベットはインターネットよりさらに革命的なテクノロジー だった」:スペインの文献学者イレネ・バジェホの言葉。紀元前千年頃、フェニキア人がアルファベットの基礎をつくった。文字ができたことで、口頭伝承から書き物に残すということができるようになった。より長い文章の記録、伝承が可能になった。

次の革命は、活版印刷

 

・小説の始まりは、叙事詩(ホメロス、ヘシオドスなど)、抒情詩にあり、アルファベットができて「散文」が生まれたこと。のちに、生活言葉(書き言葉ではないもの)で物語が書かれるようになった。詩の時代(日本の和歌も含む)は、韻文だったけれど、話し言葉で文章がかかれるようになったことをバジェホは、「文学は韻文の規律の外に新しい道を見出した」と言っている。

 

・ヘレニズムの時代に、小さな町は大きな帝国に組み込まれた。人々は、気が付くと寄る辺なく、不安になった。現代のグローバリズムと似て、人々は孤独になった。そして、個人主義が進むと、人々は人生訓・倫理観といった大きな主張より、個人の恋愛感情のような小さな物語を求めるようになった

 

・『 恋ははかない、あるいは、ブルーの底のステーキ』 川上弘美、長編:”感染症拡大下での不安と息苦しさ、人びとの触れあえなさと孤独を描いたという点では、一番”だと。

私には、微妙、、、、な一冊だったけど。鴻巣さんは、「本作は記憶をめぐる物語集でもある。 人が存在するとは、 どういうことなのか? 少なくとも 自分が存在するという自覚は、 記憶を手繰ることによって生まれるのだろう。」と。

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「文化盗用」:cultural appropriation。 ある文化、特に少数派や被抑圧側の文化に伝統的・象徴的な要素を他の文化、特に優位にある国や文化圏で創作物や表現に取り入れられ、 利用されること。日本人、黒人をステレオタイプに描いたような・・・・。
問題は、盗用している側はそれに気づいていない。かなり、微妙な話だ…。

 

・細部がストーリーを凌駕して膨れ上がる極端な現象:小説の型の進化で20世紀に起きたこと。ユリシーズ』『 失われた時を求めて』『百年の孤独』、トマス・ピンチョンやロベルト・ボラーニョの諸作、など。

 

「否定的エウレカ:「自分には理解できない」ということを発見すること。それも、小説の面白さの一つと言っていいのかもしれない。例えば、ラスコーリニコフや葉蔵を理解できないとか。あるいは、『雪国』の島村や駒子。

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・書簡体:近代一人称小説の発達に不可欠な形式。『若きウェルテルの悩み』『あしながおじさん』『こころ』など。書簡体のテクストは書き手が三人称客観描写を延々と広げない部分で、日本語に移しやすい。 

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なるほどぉ!と膝を打つ文章がたくさん出てくる。ついでに、読んだことないから読んでみたいな、っていう本も。

 

索引もついている本なので、本の辞書?!がわりににもなりそう。小説好きなら、楽しめる一冊。特に翻訳本の話もたくさん出てくるので、読んだことがあるとちょっと嬉しくなる。

 

自分で小説を書いているわけではないので、小説の形や形式を意識したことはなかった。でも、年齢とともに読書の傾向が変化して、50代になってからは小説も多く読むようになり、自分の本の嗜好が共感ということだけでなく、形式にもあったかもしれない、と気づいた。時間が交差するもの、現実と仮想世界が交差するもの、だんだんと複雑なプロットが楽しめるようになってきた。そうしてみると、村上春樹の文体も年齢とともに変わってきたのかもしれない。

 

小説を分析するって、これまで考えてもみなかったけれど、そういう楽しみ方もあるんだね。

 

人生、一生学び。

読書は楽しい。