令和ファシズム論
極端へと逃走するこの国で
井手英策
筑摩書房
2025年8月7日 初版第1刷発行
2025年10月18日日経新聞の書評で紹介されていた本。記事には、
”財政社会学者の著者が、日独の財政史とファシズムの条件の比較検討に始まり、最近の日本における政治の混迷から、最終的には危機に瀕(ひん)する財政民主主義までも射程に収めた力作である。問題は決してやさしくないので、随所で著者も苦労している跡が散見される。
さて、著者は現代日本を覆う「ぼんやりとした不安」について語っている。現役世代は将来が見通せず、生活不安から他者への配慮を欠くようになり、社会が分断されつつある。日本がバブル崩壊後、長期停滞に陥った頃から景気対策として何度も財政と金融の両面から対策が講じられたが、極めつきは、アベノミクスの「財政ファイナンス」、つまり日本銀行による国債の買い支えによる積極的な財政出動であった。それを正当化する「現代貨幣理論」MMTに飛びついた政治家たち(右派であるか左派であるかは問わない)も増えている。
だが、著者は、70年以上も前、東大の著名な財政学者だった大内兵衛が発した警告(「非常手段」が「永久手段」になり、雇用創出から軍備拡張へと突き進んだ戦前の日独の「ファシズム前夜」の歴史の教訓を忘れるなというもの)を引きながら、現在も財政民主主義が脅かされる方向に進んでいるという。
例えば、大衆受けのよい反消費税論に惑わされると、財源論こそが財政民主主義の核心だということが忘却の彼方(かなた)へと行ってしまうからだ。著者は、いま必要とされるもの、必要とされないものを慎重に見極め、どの税で誰にどれくらいの負担を求めるのかを民主主義的な空間で議論・対話することが極端な財政の暴走を防ぐ唯一の方法だと主張している。
情報発信力をもつ人間が「対話」ではなく「論破」を行動原理にし、それをSNSを通じて拡散させたらどうなるのか。著者はここに騒々しい少数の者が集団的な圧力を行使し、多数者を沈黙させるという病根を見ている。行き着く先は、財政破綻というよりは「社会」そのものの破綻であると。財政社会学者らしい警告である。
昭和恐慌や高橋是清、ヴェルサイユの屈辱とハイパーインフレからナチズムが台頭するまでの歴史を知らない学生が増えている。将来を担う彼ら若い世代にこそ読んでほしい一冊である。”
とあった。気になったので図書館で予約した。3か月近くまって、ようやく順番がまわってきたので、借りて読んでみた。
表紙裏の説明には、
”令和の日本社会をおおう〈ぼんやりとした不安〉。
その輪郭を描き出すべく、「ファシズム前夜」を経験した、かつての日本とドイツに光を当て、両国がファシズムに屈した背景を、財政史という観点から分析。
そこで得た基準をもちいて、現代日本の危機的状況を浮かび上がらせていく。
多くの人が生活不安をかかえるなか、「人気取り」の政策案が打ち出され、
「極端」な議論を展開する〈小さな権威主義〉が力を得ていく──。
居場所を追われる「自由と民主主義」をまもるための立脚点を探求し、
肯定的未来への道を切りひらく渾身の書!”
とある。
また、裏表紙の袖には、
” この本には 私なりの希望が込められている。 だが、日本社会が破局的な結末を迎えたとしても、かつて真にこの国の行く末を案じている人間がいたことを記録しておきたい、そこまで追い詰められた気持ちで私はこの本を書いた。” と 本文からの抜粋がある。
著者の井手さんは、1972年、久留米市生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。日本銀行金融研究所、東北学院大学、横浜国立大学を経て現在、慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。著書多数。
財政社会学という学問分野があったということを初めて知った。経済学ではなく、社会学なんだね。。。
目次
はじめに
第一章 歴史の転換点ではなにがおきるのか?
1 混同されるファシズムと全体主義
2 家族のふたつの顔――時代の方向感覚をもつ
第二章 昭和恐慌からの脱出と高橋是清の苦闘
1 昭和恐慌の衝撃と不安定化する社会
2 積極財政への転換
3 決定権限の集中と政局にあけくれる人びと
第三章ファシズムへの道程でなにがおきたのか?
1 不安定化する経済、貧弱な生活保障
2 民主主義の後退か? 不自由への逃避か?
第四章 ファシズムの条件をさぐる――ドイツとの対比から
1 第一次世界大戦の敗北がもたらしたもの
2 雇用創出から軍備拡張へ
3 憎しみが憎しみをよぶ呉越同舟の政治
第五章 強まる将来不安、崩れ落ちる民主主義
1 経済の衰退と社会の分断
2 崩壊する財政規律、よわりゆく予算統制
3 あとずさりする財政民主主義
4 混迷をふかめる政治と社会
終章 エクストリーミズムをのりこえる
注
あとがき
感想。
おぉ。すごい。
すごく、面白い。
面白いというか、極めて真面目な本なので、難しいけれど、そうかそういうことか!と、膝を打つ。著者は、言語化するのがうまい。力作だ。
今の漠然とした「社会の不安」が、何が原因で、何がやばいのか、それを説明している。タイトルから、もっと「今」に焦点をあてた書なのかと思ったら、第一章~四章、三分の二くらいは、戦前の日本、ドイツ(ナチ党台頭時代)の解析に充てられている。そして、第五章で、日本の現状分析となっている。
「財政民主主義」という言葉は、私にとっては、とある勉強会の割と最近のテーマタイトルになっていて松元崇著『山縣有朋の挫折』をテキストに話をきいたところだった。
本書を読んだことで、元財務省の松元さんが財政民主主義の意義を語っていた意味が分かった気がする。
一言で言えば、安易な財源確保(現代なら国債発行とか)は、民主主義の崩壊につながりかねない、ということ。緊急事態の特別措置だったはずの財源確保が、永久的措置になり、戦前であれば軍事費拡大に使われていった。政治は予算確保のために権力闘争に明け暮れ、大政翼賛会への合流。軍事費は非公表となり、闇の中。その後に2・26事件、太平洋戦争だ。
戦前の日本は、元老政治がまかり通って、議会制民主主義の否定、権力闘争から呉越同舟の不幸な連鎖がおきた。それは、ドイツでのナチ党と社民党の対立からおきた呉越同舟の権力闘争とも近い。日本が元老政治なら、ドイツでは大統領権力による政治。
与党に対抗するために、政策が必ずしも一致しない政党であっても連合する呉越同舟は、今まさに目の前で起きている。問題は、それによって政策が曖昧になり、目先の投票率確保のための公約がだされ、「社会不安」の中に生きている人はわかりやすい目の前の提案に賛成してしまう。財源の問題があいまいなまま「減税」であったり「バラマキ」がちやほやされる。それでいいのか?いけないのだ、というのが著者の主張。うん、私もそう思う。
私たちは、税金を払っている。そして様々な社会保障を享受している。財源に自分の税金が使われているからこそ、使われ方をみて「賛成」したり「反対」したりする。でも、その財源は自分とは関係ないと思ったら?政治に無関心になっても仕方がない。そこに、財政民主主義の崩壊がある。
興味深かったのは、第五章で語られる日本の習慣としての「救済されることを恥だと考える社会」という言葉。生活保護を受けるのは恥である、とか、憲法第27条にみる「勤労の権利と義務」は、「労働」でなはく「勤労」であることが求められているという事実。二宮尊徳の「報徳仕法」を崇拝する社会。「報徳仕法」は、至誠、勤労、分度、推譲という自立を求めている。それは間違っていないのだろうけれど、清貧のすすめみたいで個人的にはあまり好きではなかったのだけれど、本書をよんで、「報徳仕法」への私の中の違和感の正体がわかった気がする。「自助努力の強要」のような感じがするのだ…。悪いことではないけれど…。
人は、贅沢になれると堕落しやすい。人のお金だと思うと無駄遣いする。「身銭を切る」ことの大事さというのは、国の運営においても「税金を納める」という行為が大事ということにつながるのではないだろうか。そんな気がする。
新聞書評にあるように、ぜひ、若い世代に読んでもらいたい。今の日本に戦前の日本と相似の環境がありつつあるということ、その先に何があるのかということ、知るべきは将来を担う若者たち、そして現役世代だ。1972年生まれの著者が、こうして日本の未来をおもって一冊の書にしてくれたことを、広く読んでもらいたいと思う。
政治も経済も、予測はできない。でも、過去から学ぶことはできる。著者は、まさに渾身の力でかいている。その思いが伝わってくる一冊だった。読んで損はない。歴史の話はすっ飛ばしたいなら、第五章だけを読んでもいい。お薦め。
ちょっと、覚書。
・「左派」と「右派」: 人間の理性や知性の力を信じ、あるべき未来図に従って社会を変えていけば、世の中はきっと良くなると考える人たちを左派と呼ぶ。 反対に理性や知性の限界を知り歴史的に根拠を持ち、権威あるものに従って秩序を保とうとする人たちを右派と呼ぶ。 前者は、革新派、リベラル派、後者は保守派とかさねられながら、 政治や政策を語るときの思想的な配置大枠は示される。
「はじめに」ででてくる著者の文章。わかりやすい。
・高橋是清財政:1929年の世界大恐慌、悪天候による不作などで貧困にあえいでいた農村出身の人々を救うために、農村救済のための「時局匡球(きょうきゅう)決議」が採決され、「満州事件費」と「時局匡球事業費(現代でいえば公共事業費)」のために国債を日本銀行に引き受けさせて予算化した。が、景気が回復すると国債を削減し、健全財政へ回帰しようとした。が、軍事費の拡大に悩まされ、、、、。農村救済費の削減は、結果的に陸軍青年将校の憤激、2・26事件につながった。
当時、陸軍は、農村出身の貧しい若者が少なくなかったということ。彼らは、恐慌の波で苦しい生活のなか、兵になることで社会階級の上昇をはたそうとした。そして、農村における中間層こそが、ファシズムに連なる運動の中心だった。
ドイツにおいては、ヴェルサイユ条約による厳しい経済制裁の影響をうけた中間層がファシズムに連なっていく。
・『分断社会を終わらせる』:所得制限をもうけることは受益者と負担者の境界線がひかれ、社会が分断する、と主張している著書。著者の書籍。ちょっと、読んでみたい。
・ ”日本では通俗道徳の実践は、現世での成功と結びつけられている。だから経済的に失敗したものは、道徳的に失敗したもの、精神的に堕落したものとみなされることとなった。”
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』との対比として。
通俗道徳の伝承者が二宮尊徳。「惰民」には、推譲が行われにくい。
・第五章の中で、「自治は民主主義の学校」という言葉が出てきた。そして、地方交付金によって自治が衰えているという現状を指摘。『山縣有朋の挫折』と同じことを言っている。
地方自治においては、限られた財源だからこそ何が住民のニーズであるかを真剣に考え、不要な支出はその削減につとめなければならない。が、国からお金が流れてくるのなら??身銭を切らないお金の使い方は、、、、将来に遺恨を残す。
ふと思うのは、大企業の社員ほど、地方自治に無関心なのではないだろうか。グローバルに活躍しているつもりで、民主主義の基盤を理解できていない気がする。私がまさにそうだった…。と、いまも地方自治に関心が高いとはいえないし、民主主義を理解しているわけではないけれど。大会社にいると、会社が社会保障のようなもので、地方自治体に所属しているという意識が薄くなりがち。
・不安な社会であっても、絶対的独裁者が登場しえない現代においては、ときに気楽にSNSでコメントを寄せてくれるような〈身近な指導者〉を求める。〈身近な指導者〉たちは、あやまった情報を公然と拡散し、ときには法にふれるような行動も辞さない。
固有名詞は出していないけれど、誰を意図して書いたかは言うまでもないだろう…。
・” 私たちは 税を通じて連帯の領域を少しずつ広げ、 安心の足場を固めることで人間の自由 自立の条件を整えるべきである。”
本文の中に、「減税」することで「個人の懐を増やす」というのは、「だから自助努力で頑張ってね」というのと同義だという説明がでてきた。実のところ、NISAやiDeCoの導入も、自分で努力してね、という誘いに他ならない。税金はそのままでいいから、社会保障費にしっかり使うという政策の方が妥当ではないのだろうか、と、思う。
本書を選挙前に読んでよかったと思う。
選挙に行って、民主主義に参加しよう。
