象を撃つ
ジョージ・オーウェル
川端康雄 編
平凡社 オーウェル評論集
1995年5月15日 初版 第1刷
キース・E・スタノヴィッチ著『心は遺伝子の論理で決まるのか 二重過程モデルでみるヒトの合理性』の中で、 「二重過程の認知システムの対立(システム1とシステム2の対立)は、優れた文学のテーマになっている。」という一例として、ジョージ・オーウェルの「象を撃つ」が取り上げられていた。気になったので、図書館で借りて読んでみた。
本の表紙に説明文がある。
” 玻瑠のように澄んだ言葉で大英帝国への憎しみを語った オーウェル。
「右であれ左であれ、わが祖国」と英国への愛を語った オーウェル。
どちらも同じディーセントなオーウェル、その自伝的エッセイを収録”
ジョージ・オーウェル、1903ー1950。 イギリスの作家。 ジャーナリスト。 大英帝国の植民地インドのベンガル州で、アヘン局勤務の官吏を父として生まれる。セント・シブリアン校(名門パブリックスクール(イートン校など)への進学を目指すための男子寄宿制予備学校(プレップスクール))、イートン校(英国屈指の名門パブリックスクール)で学んだ後、 1922年から5年間 大英帝国の警察官としてビルマに勤務、 辞職後、ロンドンとパリで放浪生活。その経験を描いた『パリ・ロンドン放浪記』 を1933年に発表。 1945年に『動物農場』を発表し、ベストセラーに。翌年、スコットランドのジュラ島に移り住み、1949年、その地で『1984年』を書く。翌年、結核で死亡。『動物農場』と『1984年』がよく知られるが、他にも生涯にわたって、時事的な批評から身辺雑記まで含む膨大な量のエッセイを書き続けた。
『動物農場』と『1984年』の印象が強すぎるけれど、エッセイもたくさん書いていたとのこと。
『1984年』は、読んでいて辛くなってくる。そして、『動物農場』の最後の強烈なスローガン。
"All animals are equal, but some animals are more equal than others."
「すべての動物は平等である。しかし、一部の動物は他よりもさらに平等である。」
強烈なディストピア。
今回借りた本は、これまでの発表エッセイから、いくつかを再編し改訳されたもの。何本かのエッセイが載っているのだが、とりあえず「象を撃つ」を読んでみた。
文末に「(1936年)」とあった。
エッセイなので、実際にオーウェルが経験したことなのだろう。
内容は、南ビルマで警察官として過ごしていた時期のこと。その街では、ヨーロッパ人は嫌われていた。オーウェルも、悪さを仕掛けられたりすることもあった。現地の人々は、自分が安全だと思われる場所からであれば、容赦なく侮辱的な野次をとばした。
当時、オーウェルはすでに、 帝国主義は悪であり 1日も早く仕事を辞めて逃げ出す方が良い、と考えていた。そんなある日、 街の向こう端にある警察署から警部補が電話をかけてきて、象が1頭、市場で暴れていると連絡があった。オーウェルは、とりあえずポニーにまたがって出かける。
「 ライフルも携行したが、 私の銃は古めかしい 44口径のウィンチェスターで、象を殺すには何とも小さすぎた。しかし、銃声がおどしとして役に立つかもしれないと考えた。」
オーウェルは、象を撃つつもりはなかったのだ。
しかし、現場に行くと「さかり狂い」で荒れている象を前に、武器を持たないビルマの住人はなすすべなく、象に牡牛を殺され、露店を壊され、果物売りの商品を貪り食われていた。
そして、明らかに象に踏みつぶされて死んでいる男をみる。死体を目にするやいなや、オーウェルは象狩り用のライフルを借りるために近くの友人の家に使いをはしらせた。ポニーは、象のにおいで暴れ出すと危ないと思って、返しておいた。
まもなく、使いの者がライフルと五発の薬包をもって帰ってきた。その間に何人かのビルマ人が、象は下の水田にいると教えてくれた。
オーウェルは、象がいるという水田へ向かう。ビルマの人たちがぞろぞろと後ろをついてくる。
象は、群衆が近づいてくることなど気にもせず、草をむしりとって食べていた。象は、ビルマの人にとっては、労役用であり、本来射殺などしてはいけない。象を殺すことは、巨大で高額な機械をぶち壊すことに匹敵する。
オーウェルは、平和そうに草をはむ象をみて、「撃つべきではない」と確信する。
が、2000人は下らないだろうという数の群衆が、オーウェルが象を打ち倒すのをいまかいまかと待っている。
”白人は「土民たち」の期待に応えるようにふるまわなければならない。”
気がつくと、ライフルを手にした自分が、象を撃たないなどということがありえない状況と感じられた。撃たなければ、連中は自分を笑うだろう・・・・。
そして、オーウェルは、象を撃った。
人々は、一斉に倒れた象に向かって走り出した。象の肉が欲しいのだ。象は、あえぎながらもまだ動いていた。そして、オーウェルは、至近から象の心臓めがけて2発を撃ちこんだ。さらに、自分の小さなライフルでも、次々と弾丸をあびせた。象は、それでも苦し気なあえぎを上げ続けた。
オーウェルは、耐えられなくなってその場を立ち去った。後で聞くと、象が死ぬまで半時間かかったということだった。ビルマ人たちは、あっという間にその死体を骨だけにしてしまった。
その後、象を撃ったことをめぐって果てしない論議が繰り返された。象の持ち主は猛烈に怒ったけれど、狂った象が持ち主の手に負えなくなった場合には射殺することになっていたので、オーウェルのやったことは正当化された。象を殺したことに対する十分な言い訳になった。
だが、
”ばかにみられたくないというだけの理由で、私が象を撃ったのだと見抜いたものがだれかひとりでもいたかどうか、私は何度となく思いをめぐらしたものだ。”
と、エッセイは締めくくられる。
「システム1」(ばかにみられたくない)と「システム2」(象を撃つべきではない)の葛藤の中で、オーウェルは、象を撃った。「ばかにみられたくない」という感情が勝った。そして、それをオーウェルはそのままに吐露している。
うへぇぇぇぇ、、、とうなりたくなるエッセイだった。
見栄、プライド、つまらない意地、、、、そして、本当はそうしたくなかったけれど、そうしてしまった経験、それを文章に書き残すというジャーナリスト魂。
なんとなく、アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961)と、似た骨太さを感じる。戦争を経験しているジャーナリストということか。
すごいエッセイだとおもい、最初のページに戻って、一つ目の「絞首刑」を読んだのだが、暗澹たる思いになって、一旦本をとじた。処刑されるヒンズー人、周りを取り囲むインド人の衛兵、処刑後の遺体をステッキでつつく所長。何事もなかったように、酒を酌み交わすヨーロッパ人と現地人。それが、オーウェルが逃げ出したいと思っていたリアルな世界だったのだ。
その後、パラパラといくつかのエッセイを読んだ。あちゃ~、エッセイを読まずして、オーウェルを知った気になってはいけなかったんだな、と思った。
「『動物農場』ウクライナ版への序文」というエッセイでは、自分がなぜこういう政治的思想を持つに至った、育った環境や戦争の経験が語られている。なんというか、本当に賢い人だ、と感じた。
若くして亡くなっていなかったら、ノーベル文学賞をとっていたかもしれない、と思う。
圧倒される。
今じゃなくていいや、、、、。
エッセイに描かれているのは、創造のディストピアではなく、リアルな世界なのだ。ちょっと、キツイ。
今度、ゆっくり読み直してみよう、、、という気持ちになった。
でも、やっぱり、文章はすごく力強い。
翻訳もいいのだろうと思う。
川端康雄さん、初めて読んだかもしれない。
あぁ、今日から6月か。
いやはや、、、時がたつのは、はやいなぁ・・・・。
