久しぶりに朝のZoom坐禅会。
今朝の言葉は、「泥中の蓮華」
泥沼に苦闘するところに華が咲く
蓮の花が咲くのは、泥沼の中である。
いくつかの例を紹介いただいた。
・二宮尊徳の言葉。
「専門修行者のこころは清浄なるも浜の真砂の如し、我が党(のこころ)は泥沼の如し、蓮花は真砂に生ぜず汚泥に生ず、道や徳は卑近(日常)にありて高遠(聖地)にあらず。」
(二宮翁夜話)
山の中で修行する僧侶は、浜の真砂のようにとてもきれいだ。でも、私の心は、泥沼のようで、社会の中で悪戦苦闘している。蓮華が咲くのは綺麗な真砂ではなく泥沼だ。道や徳は、聖地ではなく私たちの日常にある。
主体性のはなし。
権威を否定し、四民平等を説いている。
・インドのお役人、在家の禅者であった維摩居士にまつわる話し。
病気で寝ている維摩居士を、文殊菩薩が見舞いに行った。
維摩居士は、「悟りの境地に達した如来になるには、何から始めるとよいですか」と質問した。
文殊菩薩は「あらゆる煩悩が、如来になるための出発点となる」と答え、「たとえば高原陸地に蓮華は生ぜず、卑湿淤泥に乃てすなわち此の華を生ず」と答えた。
(維摩経―仏道品)
あらゆる煩悩、つまり社会の現実が出発点になる。そういうものがないところには、本当の悟りというものは何もない。
・江戸時代の寺子屋の教科書から。
・・君子は智者を愛し小人は福人を愛す。・・貧賤の門を出ずると雖(いえど)も、智ある人のためには、あたかも泥中の蓮(はちす)の如し・・
(実語教)
また、島津藩で農家から藩主島津侯の菩提所福昌寺の住職と、異例の大出世をした無三和尚の話も。説法をしているときに、「如何なるか これ久志良(くしら)の土百姓」と、言われて、「泥中の蓮華」と堂々と答えた。
農家出身のくせに何を偉そうに、と言われたことに対して、「泥中の蓮華」と。農家出身でなんか問題でもあるか?と。堂々と答えた。
「悟り」などというけれど、結局のところ私たちは泥沼のような日常に生きている。だからこそ、「悟り」があるのだろう。
くるしくて、もがいて、あがいて、時には助けを求め、、、人は一人では生きていけない。
もがいていると、ふと、「あれ?足がつくじゃないか、、、」と深みだと思い込んでいたところが、なんていことない浅瀬であることに気が付くこともある。
企業の成功物語も、多くは「奇跡のV字回復!」だ。どん底があったからこそ、復活がある。若いベンチャーがスクスクと育っている話は、あまり物語にならない。その後、停滞、凋落を経験し、再復活したとき、人は物語として感動し、共感する。
みんな、泥沼の中で生きているのだ。
凹んだ時は、復活の舞台が整ったと思って、もがいてみよう。
山も、谷も、、、そこを歩いているときには気が付かない。もしかすると、あとから振り返って気が付くだけかもしれないけどね。
泥中でいいじゃない。
そこには、華が咲く。