『おいしいもののまわり』 by  土井善晴

おいしいもののまわり
土井善晴
株式会社グラフィック社
2015年12月25日 初版第1刷発行
2020年4月25日 初版第8刷発行
*本書は、雑誌「おかずのクッキング」テレビ朝日・刊)に2007年から2012年まで連載されたものを加筆・修正し、まとめたものです。

 

図書館の棚で、不思議な色合いの表紙が目に入った。土井さんの本だったので借りてみた。

皆さんご存じ、NHK「今日の料理」の土井善晴さん。語りもおもしろければ、本も面白い。


中は1ページ3段構えになった読みやすい文字配置、そしてカラーの写真。紙の質もやや厚めで、しっかりしている。手に取ってページをめくるごとに、土井さんの声が聞こえてくるような、やさしい響き。

素敵な本だった。

お料理好きの私としては、ふむふむ、家庭料理とは確かにそうかもしれない、、、と肩の力が抜けつつ、背筋を伸ばしつつ、聞き入ってしまう、、もとい、読みいってしまう感じ。

 

「はじめに」の中に、土井さんの心からの声がつまっている。土井さんは、食べる人というのは、感情的で自分勝手なものだ、という。お腹が空いていれば、量の多いものを求め、 お腹を空かしてデパ地下をあるけば、なんでも美味しそうに見えて、気が付けば食べきれないほど余計なものを買っている、、と。時に激辛の刺激にはしったり、、、スイーツを求めたり。

 

そして、
料理とは命を作る仕事である。ゆえに、料理は作る人が主役でなければならない。つくる人は、料理の背景にある大自然、その土地の風土に育まれた食材を生かし、歴史的事件に影響されながらも、もっとも最善の調理法を見出してきた。土産土法を持って民族の命を健全に繋いできたのだ。加えて、食べる人を愛して、その人の健康を願って料理する。人は自分の都合で料理するのではない。たとえ戦地にあっても、子供の手を引いて、大切な鍋をかぶって逃げるのだ。どんな状況であっても、何か食べさせなければならない。
 料理をすることはすでに愛している。食べる人はすでに愛されている。それを当たり前のことと信じて疑わない。そうして料理を作る人が食文化を担っている。
(中略)
真の美味しさとは舌先で味わうのではない。肉体が感じる心地よさ、一つ一つの細胞が喜ぶものなのだ。”
と。

う~~ん、好きだなぁ。こういうの、と思う。

 

私が「明石の仙人」と呼ぶ知人は、御年70を過ぎた料理人でもある。彼は、「畑も見んと野菜買うてる奴は料理人じゃないなぁ」とおっしゃる。野菜だけじゃない。彼のお店で出されるお魚は、彼が明石漁港で仕入れる本当の活魚だ。どんな土地で育った野菜なのか、どこで取れたお魚なのか、それがわかって初めて料理ができる、と。そう、作る人が食文化をつくっている。

 

もくじ

はじめに
季節を感じること、信じること
食の場の区別
台所のお布巾
計量とレシピと感性
お料理をする箸
まな板
たまじゃくし
味を見ること・味見皿
パイ缶/保存容器雑 味のない味にするために
火の通り加減をみる串
落し蓋を使う煮物
白いエプロン
おひつご飯のおいしさ考
水を料理する
混ぜ合わせる
洗い物から、学んだこと
焼き色の美味しさ
食卓の味つけの考え方
お料理の火加減
肉を美味しく焼いて食べること
お料理の温度のむずかしさ
茶碗の感性
日本のだし汁
お塩の美味しさと健康のこと
海苔の香り、ゴマの香り
とろみのおいしさと効用
包丁するという調理法
器を使いこなすための器の見方
お茶を頂く「湯のみ」の話
大根の一年
日本のお米、日本のご飯
お料理の姿、人の姿
あとがき

 

どれも、 難しい料理の話ではなく、家庭料理の話といっていい。お芋は、美味しく煮えるお芋をえらべば、だれでも美味しく炊ける。おばあちゃんは、それをよく知っていたのだ。だから、おばあちゃんのお芋は美味しかった、とか。

今は、旬でなくても、野菜、魚、様々なものが手に入る時代だけれど、旬の素材をえらぶというのが、お料理の第一歩、ってこと。

 

下処理は、野菜も魚も外と中を区別すること、とか、生でたべるものと火をいれてたべるものは、別々に調理するべき、とか。。。ずぼらだと一緒くたにしてしまいそうな基本が次々と語られる。難しいことが書かれているのではない。ほんとに、基本で、おっくうがって飛ばしてしまいがちなことが、丁寧に書かれている。見習おう。

 

布巾は白で、汚れたらすぐにわかるもの。白いエプロンも常に清潔さを保つため。

 

料理中は、右手は道具を持つ手、左手は素材に触れる手、として右手はいつでも綺麗な状態に保つこと。

 

冷めて食べる物は、温め直す必要はない。かぼちゃの煮つけ、茄子の煮つけ、切り干し大根、ひじきなどは、冷めていてもよいのだそうだ。冷蔵庫から出した温度ということではない。アツアツに温める必要はないということ。たしかに、電子レンジがあるからついつい温めてしまうけれど、、、。温度で味の感じ方も変わる。冷えながら味の入るものは、そのままでもよいのだ。

 

焼き色として「キツネ色」というのはよく聞くけれど、「タヌキ色」という言葉がでてきた。え??ふざけてる??と一瞬おもったのだが、本気で料理の世界で「タヌキ色」というのがあるらしい。タヌキ色は、どら焼きの色、だそうだ。キツネがもうちょっと焼けた色。

 

もくじにもなっている「パイ缶」。一体、何の事かと思ったら、料理の保存容器で熱伝導性のよいステンレス製で蓋つきのもののことだった。料理屋さんの厨房には必ずあると言っていい。フレンチの厨房でもよく見かける。使い勝手がいいのだろう。熱伝導がいいので、料理を素早く低温にすることができ、雑菌繁殖防止にもなる。プロっぽくてかっこいいな。ジップロックのタッパーではなかなか冷めない。少し冷めてから冷蔵庫に入れよう、、、と思っても結構時間がたって忘れてしまうことがある。こんど、パイ缶、買ってみよう。また一つ、お料理が楽しくなる気がする。

 

お豆腐の話で、昔は半分に切ると、正方形になった、と。確かに!!!私が子供のころのお豆腐は、タテヨコが1:2だった気がする。半分に切ると、正方形。正しくは、上から見たら正方形ってことだけど。だから、8等分すると、たいてい綺麗な立方体。いつからスーパーで売られるお豆腐の大半が、ずんぐりむっくりになったのだろう・・・・。

お豆腐といえば、父が晩酌をするとき、かなりの頻度で湯豆腐をたべていた。8等分して綺麗な立方体になったお豆腐。しかも、我が家の湯豆腐は、昆布、豆腐、ねぎ、にタラの切り身が入っていた・・・。タラが入っているのがスタンダードな湯豆腐だとおもっていたら、大人になってそうではないということがわかって、結構、ショッキングだった。。。しかも、我が家では湯豆腐でしか登場しなかったのではないかと思われる白い陶器?の鍋があった。白い鍋にガラスの蓋の中で、白い豆腐と白いタラの身が踊っているのが我が家の湯豆腐だった。あれは、父のレシピだったのか、母のレシピだったのか?というか、レシピというほどのものでもない、、、。ぜんぶ鍋に入れて、火が通ったら出来上がり、、、。ポン酢で食べる。シンプルだけど、美味しい。

 

1つだけ、レシピの覚書。

◎そうめんつゆ
・1/4カップの醤油
・1/4カップのみりん
・1カップの水
・一つかみの鰹節
を鍋に入れて、火にかける。以上。

ただし、分量を倍にすれば、倍出来るというものではない。火にかけた時の時間で、蒸発具合、風味の失われ具合が変わる。

 

そう、レシピというのは、ただの算数ではない。
つくる分量、鍋の大きさ、火力、時間が変われば同じものは出来上がらない。
そう、それが料理。
自分の知恵と感性をはたらかせることで、はじめて美味しい料理ができる。
そう、だから、料理は楽しい。

毎回、同じ料理を作っているつもりでも、毎回、ちょっと違う。
それが、楽しい。

 

やっぱり、料理ほど実用的な趣味はないだろう。

旬の素材を手ごろな価格で仕入れて、美味しく仕上げる。

美味しくできると、「やったね!!」と思う。

コンビニの「サラダチキン」より、自分で作った「鶏むね肉ハム」の方が、何倍も美味しいし、安い!

 

お料理が、キッチンに立つことがもっと楽しくなる一冊。

お料理好きにも、食いしん坊にも、お薦め。

 

 

おまけ

Megurecaレシピ:鶏むね肉ハム

・鶏むね肉 1枚

・塩 むね肉の0.8%重量 (400gの肉なら、3.2g) *塩小さじ1は5~6g

・砂糖 塩と同量か少ないくらい。*味ではなく保水のため

皮をとった鶏むね肉をビニール袋に入れて、塩と砂糖をもみ込んで、半日程度冷蔵庫へ。

お肉がしっとりした感じになったら、ビニール袋から取り出して、ラップで丸い円柱になるように、形を整えて包む。巻きずしの要領でラップで包んで、転がしながらキャンディーのように左右をキューって絞るようにすると形が整う。包んだラップごと熱耐性のビニール袋に入れて、鍋にいれた水につけながら空気を抜いてからビニール袋の口を縛る。

そのまま、水からビニール袋ごと火にかけて、沸騰状態で5分。火を止めて鍋ごと冷めるのを待つ。完成。

 

注意事項1:鍋が小さすぎると、速く冷めすぎるので、大きめの鍋にたっぷりの水で。

注意事項2:火にかける前の肉が冷えすぎていると火が通りにくいので、室温にもどしてから火にかけると安心。

注意事項3:鍋にいれて火にかけるビニール袋は、耐熱性のシャパシャパしている素材の物を使用。スーパーで無料でおいてある不透明な素材に近い感じの物。透明で伸びるタイプはNG。

 

そのままでも薄めの塩味はついている。好みで、しょうゆでも、マヨネーズでも、ドレッシングでも。作っておくと、数日は冷蔵庫で日持ちするので、便利。サラダにしてもいいし、炒め物にちょっと肉を入れたい時にも。チャーハンにしても、焼きそばにしてもいける。

 

安く仕入れた素材で、美味しいお料理が完成すると、満足度は高い。加えて、後片付けまですっきり綺麗に終わると、気持ちもすっきり。

料理は、深い。

そして、無心になれる。

 

おいしいものにかこまれて生きていこう!

 

 

 

『「死んだふり」で生きのびる 生き物たちの奇妙な戦略』 by  宮竹貴久

「死んだふり」で生きのびる
生き物たちの奇妙な戦略
宮竹貴久
岩波書店
2022年9月13日 第1刷発行

 

岩波書店の図書2022年9月号で新刊紹介されていて、気になってはいたのだが、読んでいなかった。これもまた、教文堂の「おすすめの本」で「10月29日朝日新聞書評で紹介」、として紹介されていたので、図書館で借りてみた。

 

本の表紙には、
”〈動かない〉は、奥が深い。
本当に意味あるのか?
する・しないはどう決まる?
死んだふりのデメリットとは?
謎多き行動の裏側を、昆虫学者が解き明かす。”

 

裏には、
”敵から逃れるために動きを止めて「死んだふり」。
でもそれ、意味あるの?
誰もが疑問に思いつつ、誰も答えることのできなかった疑問に、昆虫学者が立ち向かう。
本当に生き残りやすくなる?起き上がるタイミングはどう決まる?すぐ死んだふりする虫はモテない上にストレスに弱い!?謎多き行動を熱量高く掘り下げる、国内初の入門書。”

国内初の入門書というか、そんなこと研究している人、、、ニッチ~~~~!!!

 

著者の宮竹さんは、1962年生まれ。1986年琉球大学大学院修士課程修了、1996年博士(理学】取得。沖縄県職員。ロンドン大学生物学部客員研究員を経て2008年より岡山大学教授。2002年に日本生態学会誌賞。2010年に日本応用動物昆虫学会賞。2016年に日本動物行動学会日高賞受賞、だそうだ。


感想。
おもしろ~~~い!!!
虫が死んだふりして、捕食者をだまして逃げる話から、なんと人間のパーキンソン病のメカニズム解明に?!?!と、マニアックな研究が、、、、。

これは、本物の研究者の書いた入門書だ。理学博士の書いた入門書だ。マテメソ(Material&Methods)も、ちゃんと紹介されている。虫の観察方法、観察対象の虫の採取場所、、、、。いやぁ、面白かった。

 

目次
1 世界はなぜ死んだふりであふれているのか?
2 死んだふりを科学する
3 死んだふりの損と得  生と性のトレードオフ
4 利己的な餌  他者を犠牲にして自分が生き残る術
5 体の中で何が起こっているのか?
6 いつ目覚めるべきか??

 

死んだふりは、奥が深い。。。
人も、死んだふりをする。「家に帰ると妻が死んだふりをしている」、「上司の前では死んだふりをしたい。。。」、1986年中曽根内閣が臨時国会開催不能におちいり「死んだふり解散」、、、と。庶民から国会議員まで今をいきる僕たちの日常は、「死んだふり」にあふれているのだ、、、と。

笑っ!!!!
なんでも、三国志の中でも死んだふりをして助かった武将がいたと。そうだっけ???読み直して確認したくなる。

と、軽快な文章で、マニアックな研究のあれこれを紹介してくれている。

宮竹さんが昆虫の研究に打ち込んだのは、もともとは沖縄県職員として、害虫防除の研究をしていたのがきっかけ不妊虫放飼法(ふにんちゅうほうしほう)という環境にやさしい害虫駆除法によって、果菜類を加害するウリミバエの駆除、サツマイモを加害するアリモドキゾウムシの根絶に関与してきた。あるとき、こうした研究の傍ら、
アリモドキゾウムシをつついて刺激してみるとけったいなポーズで動かなくなることに気が付いた。死んだふりをしたのである。」と。

本書には、本当に死んだアリモドキゾウムシと、死んだふりしたアリモドキゾウムシの写真、そして、イラストが掲載されている。どこがちがうんねん!と突っ込みたくなる写真だけれど、イラストをみるとよくわかる。死んでいるのか、死んだふりをしているのか、見極めるポイントは、3つある、と。。。。。詳細な説明がついている。

で、このけったいなポーズをみていたら、頭の中が疑問でいっぱいになってしまったのだ。
どんな状態の虫が死んだふりをするのか?
いつ刺激を与えるとするのか?
どこにいると?
どの個体がどれだけ死んだふりするの?
・・・・死んだふりの5W1Hが頭の中を駆け巡った、、、、と。

はたして、これは研究に値するのか??研究者の進化は、世界の誰もわかっていないことを明らかにすること。まずは、論文や本を探しまくった。そして、確信したのだ。死んだふりが生きのびる上で役にたっているかは、世界のだれもわかっていない謎なのだ!!

”世界の誰もやっていないなら、自分がやろう、と僕の研究者としての血はふつふつと沸いた。人類の知らない知識の獲得に向けた挑戦が始まった。”


で、仕事ではない時間をつかって、研究をはじめたのだそうだ。そして、気が付けばサイエンスにも論文が掲載されるまでに!!

手作りの死んだふり定量観察には、100均の陶器、安いストップウォッチ。ゾウムシを刺激するのに使ったのは、絵筆のおしり。写真入りが素敵。
死んだふりを観察するには、基準がいる。それが、いかに科学的に実験するかのポイント。
一度つついただけで虫が死んだふりをすると、即座にストップウォッチを使って再び虫が動き出すまでの時間を測った。この時間がどれだけ深く死んだふりをしているかを表す値となる。一度つついただけで死んだふりをしないときは、二度、三度、と刺激を与える。三度つついて死んだふりをしない虫は、死んだふりをしない虫と定義する。そしてその虫の死んだふりの値は、ゼロとした。これが、「死んだふりスコア」

ふざけているのではない、ちゃんと、サイエンスになっている!!さすが!!

で、そこから、様々な実験が繰り広げられるのだ。

 

そして、調査の対象は、採取しやすい「コクヌストモドキ」という虫になっていく。死んだふりをすること、世代時間が1.5か月と比較的短いので遺伝的実験にも向いている。また、当時、ゲノム解析の対象生物の候補になっていたのだそうだ。ゲノム解析が進めば、変異分析もできる。穀物につく害虫で、駆除するためにもゲノム解析が有用になるとみこまれたのだろう。

コクヌストモドキを、死んだふりをする虫、しない虫(しても時間が短い)にわけ、それぞれでオスとメスを交配させると、ちゃんと死んだふりをする虫は死んだふりをする虫に、しない虫はしない虫に遺伝が伝わっていった。なんと、遺伝的にきまっているのだ。

そして、死んだふりの遺伝観察に加えて、捕食者のハエトリグモに襲われるのは、死んだふりをする虫か、しない虫か、、、といった詳細な観察研究が続けられる。なんと、実験室での観察では、死んだふりをした集団は、襲われると死んだふりをし、死んだふりをしない虫は、そのまま捕食されてしまう傾向がみられたのだ。

そして、「死んだふりは適応的か?死んだふり行動の適応度の差に見られた遺伝子しうる変異」という論文は、英国王立協会紀要に掲載された。すご~~~~い!!

そして、だんだんと共同研究者が増えていく。学会で発表することによって、自分の研究に興味を示してくれる人がいて、ともに議論できること、共同研究できるというのは、研究者にとってなによりワクワクすることだ。専門分野がことなれば、さらに研究の幅を広げることもできる。そうして、著者は、さまざまな研究の幅をひろげていった。

外部からの指摘によって、著者らはさらに研究をすすめ、野外(実際に敵も味方もいっぱいいる)環境下においては、死んだふりをすることで、敵の注意を他の虫に向け、自分から危険がさったらすたこらさっさと逃げる、ということがわかってきた。
突然動かなくなる利己的なエサは、隣人をぎせいにして生き残ることができる」という論文になった。

観察により、死んだふりをする虫のほうが、全般的に動きなのろく、死んだふりをしない虫の方が、俊敏なこともわかってきた。そして、その両者の違いは、ドーパミンによることまでわかったのだ!また、カフェインを摂取させると、求愛行動パターンが加速することまで。
まるで、人間のようではないか。ドーパミンが不足するとやる気がなくなる、、、。やる気がないから、俊敏に逃げるよりは、死んだふりで危険が去るのをまつ、、、。
そして、ドーパミンの原料となるチロシン代謝経路に、死んだふりをする虫としない虫との遺伝的差異まで確認されたのだ。

すごー-い、すごー-い。
まさか、虫にまでドーパミンがあったなんて、、、知らなかった。


死んだふりが長い虫は、ドーパミン代謝が弱く、じつは、歩き方に異常が見られていた。なんと、これは、人間のパーキンソン症候群とよく似ているのだ。そして、人のパーキンソン疾患の関連遺伝子のホモログをコクヌストモドキの死んだふり長い系と短い系でくらべたところ、うまく歩けない死んだふりロング系は、パーキンソン疾患の関連遺伝子に多くの変異がみつかったのだそうだ。これは、ホット情報で、現在、論文にまとめ中、、とのこと。

25年もの虫のしんだふり研究は、人の医療発展につながる可能性にまでつながってきたのだ。

すごー--い!!

ほんと、面白い本だった。

 

古代人のDNA分析もそうだが、2010年代に次世代シークエンサーと言われるDNA解析技術ができてから、DNA解析は飛躍的に進んだ。もちろん、ホモログ解析の計算速度も向上したということもあるけれど、基盤技術の進化というのは、さまざまな分野に影響を及ぼす。
やっぱり、研究っていいなぁ。。。

 

虫をつつく研究はしたくないけど、楽しい一冊だった。
研究、ばんざーい!!

 

自然の不思議に協にのある人なら、大人から子供まで、みんなにお薦め!!

ぜひ、このマニアックな徹底ぶりを、楽しんで読んでほしい。

 

読書は、たのし~~~~い!!

 

 

『陰謀論  民主主義を揺るがすメカニズム』 by  秦正樹

陰謀論
民主主義を揺るがすメカニズム
秦正樹
中公新書
2022年10月25日発行

 

2022年11月26日の日経新聞書評にでていて、
陰謀論カニズムから逃れるために著者が提唱するのは、情報を見極め、話し合うことの重要性だ。「『自分の中の正しさを過剰に求めすぎない』という姿勢」が社会に必要との最後の指摘は、当たり前のようでいて重く響く。”とのコメントに、興味を持った。で、図書館で予約していたのが回ってきたので、読んでみた。

 

感想。
う~~~ん、、、、、。途中まで読んで、なんだこれは???という感じになってきて、最後の方は、飛ばし読み。
書評にあるように、「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という結論に至っているのは共感するのだけれど、これまた、学生の調査論文を読んでいるような、先日読んだ『「修養」の日本近代』に近い印象を持った。内容の良しあしというより、構成なのだろうか?考察の深さなのだろうか?私は評論家ではないので、うまく表現できないけれど、、、、。物足りなさを感じる。

megureca.hatenablog.com

 

著者の秦さんは、1988年、広島生まれ。2016年、神戸大学大学院法学研究科(政治学)博士課程後期過程修了、だそうだ。
『「修養」の日本近代』の著者の大沢さんは、1986年生まれだった。世代的にこういう文章がうける世代なのだろうか?

 

表紙の裏の説明には、
”ネット上の陰謀「Qアノン」を妄信する人々によって引き起こされたアメリ連邦議会襲撃は、世界を震撼させる事件であった。21世紀の今、荒唐無稽な言説が多くの人に信じられ、政治的影響力すら持つのはなぜか。本書は、実証研究の成果に基づき、陰謀論需要のメカニズムを解説。日本で蔓延する陰謀論の実態や、個人の政治観やメディア利用との関連、必要なリテラシーなどを交え、「民主主義の病」への対処法を指南する。”とある。

 

目次
第1章 陰謀論の定義 検証可能性の視点から
第2章 陰謀論ソーシャルメディア
第3章 「保守」の陰謀論 「普通の日本人」というレトリック
第4章 「リベラル」の陰謀論 政治的少数派がもたらす誤認識
第5章 「政治に詳しい人」と陰謀論 「政治をよく知ること」は防波堤となるか?
終章 民主主義は「陰謀論」に耐えられるのか

 

2020年アメリカ大統領選挙において「選挙不正」を訴えるトランプ大統領に共鳴した支持者たちが連邦議会を襲撃する事件を起こした。事件の首謀者たちは、Qアノンと呼ばれる陰謀論を信じていたと言われている。

Qアノンは、アメリカで広まっている陰謀論アメリカのニュースをきいていると、かなり頻繁に「conspiracy」という単語を耳にする。陰謀、謀議、共謀、陰謀団。日本でも、ほんまかいな、、、、という報道はよくあるけれど、陰謀論というほどのものではない気がする。。。


著者は、
”日本にとっても陰謀論対岸の火事とはいえない、だから陰謀論受容の現状を科学的に検証し、理解しておく必要があると言える。”とまえがきで述べている。

そうか、科学的にどう検証するのかな、と期待して読み始めたのだが、、、、、残念ながら、私には、これが科学的検証といえるとは感じなかった。。。。でも、1988年生まれの若者が、どういう仮説で、どういう検証をし、どう結論するのかな?と興味を持ったので読み進めた。結局、後半は、各章のまとめのようなところを読むにとどまった。
たくさんのアンケート調査の結果が、延々と述べられているのだが、いつまでたってもそこからの考察がでてこなくて、まどろっこしい、、、図表を載せたうえで、○○が××ポイント、、、△△が××ポイント、、、、と。。。。情報が重複しているよ!!と感じたのは、私がせっかちだからだろう。。。サイエンス論文なら、即赤ペン校正だ。。。。また、アンケートは、Web調査であり、そもそもアンケートが網羅的に実施されたとはいいがたい。。。一つ一つの質問は面白いけれど、それらから導かれる考察が、飛躍していなくもない。。。「6つの防止の思考法」という思考フレームで言えば、「ネガティブな視点」から考察すると、突っ込みどころ満載、、、。

 

著者は、フェイクニュース陰謀論とは違って、その真偽を判別することが出来るタイプの言説だ、という。一方、デジタル大辞泉を引用して、陰謀論は「ある事件や出来事について事実や一般に認められている説とは別に、策謀や策略によるものであると解釈する考え方」とし、さらに、それらの考えが、何らかの政治的・社会的に重要な出来事や事実の帰結として具現化されることを含む、としている。

フェイクニュースも、陰謀論も、どっちも似たようなもんだろう、、、と思ってしまうのだが。。。。

 

著者は、陰謀論を信じる人は、現実とは異なる「あるべき現実」を強く信じている人、というが、私に言わせれば、そんなの誰だってそうなりえる。認知的不協和を埋め合わせようとして、自分が信じたいことを信じる傾向は、だれにだってあるだろう
著者は、左派と右派では、とか、SNSをよく見る人と見ない人、、といったカテゴリーで、どっちが影響をうけやすいかという分析をアンケートを通じて行っているのだが、人の思考は、そんなに単純ではない。。。。という感じがした。

 

ツイッターをよく見ている人が陰謀論を信じやすいかといえば、若者はツイッター利用頻度はたかいけど、陰謀論は信じない傾向がでたから、ツイッター陰謀論にはあまり影響しない、とか、ちょっと、短絡的だなぁ、、、という感じが・・・。若い人より、ミドル層以上の年配の人々の方が、ソーシャルメディア陰謀論受容の関係性が高い、と結論づけているのだが、Webアンケートの結果でそういわれても、あんまり腹落ちしない。

政治リテラシーについては、政治に興味をもって情報に触れるほど、陰謀論に触れる機会も増えるから、ほどほどに情報に触れていた方がいい、、という主張。これも、私には共感できない。

情報に触れる機会がふえる、ということと、それを信じる、というのはまったく別の話だ。思考基盤がしっかりとした人は、なにか一つのリテラシーが高かったからといって、そこでなにかを妄信したりはしないと思う。

 

終章で、「自分だけの正しさを求めすぎない社会へ」という項があるのだが、そのわずか2ページ足らずの文章のうち、まさに、この一文だけは、強く共感する。そして、「人々が自らの正しさに固執すれば、そこに陰謀論が付け込む余地が生まれる」だから、ほどほどがいいのだ、、、と著者はいうのだが、、、。

 

いや、違うんだなぁ。自分の意見が正しいかどうかを知りたいからこそ、人は興味を持ってさまざまなことを経験したり、学ぶんだろう、と私は思う。

この、なんか、一歩引いた姿勢が、今どきの若者なのかな。いいとか、わるいとかではないけど。。。わたしには、なにか物足りなかった。

 

書評に取り上げられていた割には、ちょっと肩透かし、、、。そう、書評も丸ごと信じてはいけないってことだね。そんなのわかっているけど。
本書の売り上げを伸ばそうという陰謀だったのかもね、なんてね。

私の感想も、あくまでも私の感想でしかない。

 

大事なのは、たんに情報を遮断することではなく、あふれる情報の波に流されないこと。自分でその良しあしを判断できる判断力を養うこと。

コロナワクチンに、マイクロチップがうめこまれていて、、、なんて普通にサイエンスの常識があれば、信じるわけがない。

 

なんだかんだ言っても、人が接することができる情報なんて、極めて限定的だ。自分の正しさを求める前に、自分の無知さを自覚する方が大事ではないだろうか。フェイクニュースというけれど、意図的にフェイクニュースにしたつもりはなくても、人間が間違って判断、報道することはある。冤罪だって、あとからすれば当時の逮捕はフェイクニュースだ。子宮頚ガンワクチンの副作用の話だって、いまではフェイクと言われても仕方がない。でも、当時はみんな信じたんだから。あわせて厚労省までワクチン接種をひかえちゃったんだから、、、、。

 

いつの時代も、どこでも、だれでも人は間違った判断をすることもある。陰謀論は、間違っているとしっていて、洗脳する策略なのかもしれない。そもそも、陰謀論って、なんなんだ?っていうことに興味が向いた。だって、敵の策略だから、陰謀なんだよね。

 

やっぱり、大事なのは自分の頭で考えること。

その判断材料を養うのは、情報だけでなく経験。

 

何事も、経験。

こういう本をよんで、なんじゃこりゃ?とおもうのも、経験。

 

やっぱり、自分の頭で考えよう、に尽きる。

本は、そのきっかけになる。

だから、読書はやめられない。

 

 

『邪馬台国の女王 卑弥呼』 by  真鍋和子

邪馬台国の女王 卑弥呼
真鍋和
講談社火の鳥伝記文庫
1997年7月28日第1刷発行
2007年5月31日第6刷発行

 

図書館で、時間つぶしになる本を探して児童書のコーナーで見つけた本。日本史の勉強になるし、とおもって読んでみた。

 

歴史の本かと思ったら、伝記文庫ということで、物語だった。中国の歴史書魏志倭人に基づいて、物語風になっている。

 

1997年の本で、邪馬台国の九州説、畿内がそれぞれ、どのような考察にもとづいているかも解説にでてきた。それは、『魏志倭人伝にかかれている邪馬台国への行き方を頼りにどっちとも決定付かずにいる。。

 

中国からは、朝鮮半島の南の端にある狗邪(くや)韓国から海を渡り、対馬国(とやまこく:対馬)の一支国(いきこく:壱岐)を通って、九州の末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)に来るまでの道順は分かっているが、問題はこの先。奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)、投馬国(とうまこく)、邪馬台国については次のように書かれている。

奴国:東南に百里
不弥国:東に百里
投馬国:南に水行(船で行くこと)、二十日
邪馬台国:南に水行十日、陸行(陸地をいくこと)一月

二つの読み方があって、一つは奴国から順番に通って邪馬台国にいくこと、もう一つは伊都国からの行き方として読むこと。
実は、どちらの読み方をしても、邪馬台国の場所は、九州のはるか南の海の中になってしまう・・・。

 

邪馬台国の戸数は7万戸となっていて、そんな大きな国は、遺跡の発掘状況からすると、九州か畿内奈良県大和地方)のどちらかしかないだろう、ということ。

 

史実として参考にあることを覚え書き。

・紀元前1世紀頃の日本は、倭の国と呼ばれていた。

・西暦57年、奴国(九州北部玄界灘に面した所)の王が、中国の都・洛陽に使者を送り、皇帝から金印をもらった。この金印が、江戸時代にいまの福岡県志賀島の農民、甚兵衛によって発見され、現在は福岡市立博物館に展示されている。「漢委奴国王」と刻まれている。国宝。

卑弥呼は、239年、魏の国に使者をおくる。狗奴国(くなこく)との戦いで苦しいを状況をうったえた。魏の皇帝は色々と智恵をさずけ、はげまし、邪馬台国親魏倭王という金印をさずけた、と魏志倭人伝にある。でも、これは、発見されていない。

・当時、鉄は貴重なもので、鉄の材料を得るために、人々は大陸に渡った。

卑弥呼の時代、中国大陸では400年の間支配していた漢王朝がたおされ、魏、呉、蜀の三国時代が60年続いていた。三国は、流民を地主のいない土地に引き入れ、田畑を耕作させ、新しい生産と社会の仕組みをつくっていた。大陸に派遣されていた邪馬台国の使者は、これを卑弥呼に伝えた。

邪馬台国卑弥呼が亡くなる日、日の出のすぐ後に皆既日食が起き、人々はこの世の終わりだと思った。


児童書なので、あっという間に読める。でも、ちょっとだけ歴史の復習にはなる。
火の鳥伝記文庫、なかなか、面白い。

 

そうそう、この時代はべつに邪馬台国だけが国だったわけではなく、たくさんの国があったのだ。日本というのは一つの国ではなかったのだ。そして、卑弥呼がいたことで邪馬台国が有名だけれど、「親魏倭王」は、文献にでてくるだけで、金印そのものは見つかっていない。「漢委奴国王」の金印が有名だけど、奴国という国が邪馬台国と同じころに存在していたということ、あまり意識していなかった。こうして、児童書でも読んでみると、再認識することってある。大人の記憶なんて、いい加減なもんだ。ま、歴史は新たな発見で新事実に塗り替えられることもあるけどね。

 

歴史を、一人の人の視点から見るという点で、伝記というのは実によくできた本なのだ、ということに気づかされる。他の伝記も読んでみよう、って気になった。

 

児童書でも、大人でもそこそこ楽しめる。

絵本を読んでいるのに近い感じだったけど、気分転換にわるくない。

 

 

「言志四録」 佐藤一斎:5 胸中虚明

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

「言志四録」から。


5 胸中虚明

胸次虚明なれば、感応神速なり。

 

訳文
胸中が空っぽで透明であるならば、(万事に誠の心が通じ)その感応は実に神のごとく迅速である。

 

付記
・元の阪大学釜洞博士の遺文集『青雲』から。
博士が、「人物とはなにか」と数人の人に聞いたところ、司馬遼太郎だけは「人物とは何か真空の部分があって、それが人を引き付ける。」といった。それはつまり、一杯我欲がつまっていては、ひとが寄り付かないということではないか。

 

・禅の和尚さんの言葉から。
ある田舎の婆さんが、お寺の和尚さんから「 応無所住而生其心(おうむえしょじゅうしょうごしん)」という文句を唱えれば、願い事が叶えらえると教えられた。そこで婆さんは人が頼みに来ると、さっそくお祈りをしてやり、大変よく効くので大評判になった。
この話を和尚さんがきくと、どうも教えてやった文句と違うようなので、婆さんを呼んでたしかめると、大得意に「大麦小麦二升五合」とお祈りをするのだという。和尚さんは、「それは間違いだ。『応無所住而生其心』というのだ。」というと、婆さんは心の虚明をうしなって、お祈りはきかなくなったのだと。


「 応無所住而生其心」というのは、「まさに住する所なくして、その心を生ず」ということ。「こだわりのないところに、悟りの心が生ずる」という意味で、中国禅の開祖といわれる六祖慧能(えのう)禅師の逸話から生まれた言葉で「金剛般若経」にある。

 

慧能禅師は、3歳で父を失い、母子家族の貧困児だった。教育を受ける機会もなく、文字もしらない。体は小さく、恵まれていなかった。あるとき、街に薪を売りに行くと、お坊さんの読経の声が聞こえる。よく聞いているとそのうち、「 応無所住而生其心」という言葉が聞こえ、耳にするや否や全身全霊に強く感じるものを覚えた。読経をしている人に、そのお経はどこで教えてくれるのかと尋ねると、黄梅山の弘忍禅師(五祖)だという。
慧能さんは、母を知り合いに託して、弘忍禅師の元を訪れた。
弘忍禅師は尋ねられた。
「おまえはどこの人か」
「広州からまいりました」
「何しに来たか」
「ただ作法を求めて余物を求めず」

「おまえのような田舎猿がどうして仏になれるか」とたしなめられた。

人に南北ありと雖(いえど)も、仏性もと南北無し。田舎猿の身、和尚と同じからざるも、仏性何の差別か有らん」と直ちに答えられた。

五祖は、見所のあるものだとして入門を許された。そして、この慧能さんが、中国禅の開祖、六祖となるのだ。

 

胸中が空っぽで透明であること、私利私欲にかられないこと、それが肝要。

 

お婆さんの「大麦小麦二升五合」でも、いいじゃないか、、、と。相手のことを心からおもって、お婆さんはとなえたのだろう。

 

柳澤さんの『リズムの生物学』にでてきた「ダルマサンガコロンダ」を思い出す。

megureca.hatenablog.com

 

「ダルマさんが転んだ」と繰り返し唱えているうちに、激痛が和らいでいった、、、という話。

 

「大麦小麦二升五合」も、実際に声に出してみると、何とリズムのいいことか、、、。願いが叶いそうな。。。

 

理屈じゃなく、屁理屈じゃなく、ただ純粋に心がそこにむかっていることが大事。

儲けようとしてやるビジネスより、これこそ人のためになると思ってやったビジネスの方が、地味に長続きする。無欲の勝利って、ホントにある。

 

夢を持つ、野望をもつ、もいいけど、時々、空っぽになってみるって大事だ。

 

あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、あれもしたい、これもしたい、、、そういう気持ちになったときは、とりあえず自分が一番心地よく感じる時間を大事にしよう。

 

いったん、気持ちをサラにしてみると、意外と余裕ができたりする。

 

サラリーマンをしていると、休日があるのが当たり前なのだが、個人で仕事をしていると、毎日が休みの様で、毎日が仕事の様で、、、実は、メリハリがないような気がしている。休むときは、休もう。

 

心を空っぽにする時間も、大切にしよう。

本当の心の声を聴くには、インプットもアウトプットもやめて、ただ空になる時間も大切なんだと思う。

 

 

「言志四録」 佐藤一斎:4 修養の工夫 

「言志四録」(三) 言志晩録

佐藤一斎

川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

先日読んだ、『「修養」の日本近代』の中で、『西国立志論』を書いた中村正直が愛読していたのが本書『言志四録』だったという話がでてきた。

megureca.hatenablog.com

 

最近、坐禅会もなく、禅の言葉から離れていたので、久しぶりにこちらから。


4 修養の工夫

吾人の工夫は、自ら覔(もと)め自らうかがうに在り。義理混混(こんこん)として生ず。物有るに似たり。源頭来処(げんとうらいしょ)を認めず。物無きに似たり。

 

訳文
われわれの精神修養上の工夫は、自らの心の状態を求め、自ら観察するにある
そうすると正しき道理がこんこんと水が流れ出るように出てきてそこに何物かがあるように思われる。
しかし、その根源はどこにあるかわからないから、何物もないようでもある。これが心の本体というものであるのだ。

 

語義
源頭来処:根源、本体。

 

付記
一休禅師の作という歌。
春ごとに 咲くや吉野の山桜
木を割りて見よ、花のありかを


修養というのは、知識をつめこむことではなく、自分のことをよく観察してみることにあるってことかな。

桜の歌は、桜色の染物を作るときには、花ではなく、樹皮や枝を煮だして使うという話を思い出す。
桜は、桜の花が桜色なのではなく、全身で春の桜色を蓄えているのだ。

初めてこの話を聞いたのは、小学生の時。国語の教科書だったか。鳥肌が立った。色の不思議に魅せられ、将来、綺麗なお花の色の絵の具を作る人になりたい、と思った。。。

科学の不思議と、生き物の不思議。結局私は、生き物の不思議の道に進むのだが。。。

 

目に見えているのは、物の本質ではない。
見えないところに、本質がある。

 

自己啓発や自己を高めるというのも、人に見せるためにするのではない。自分のうちにこめたエネルギーのような活力が高まっていくということなのだろう。

 

学ぶというのは、そもそもその知識を何かに役立てるためにあるのであって、知識があることを自慢するためにするのではない。誰かの言っていることが、自分の知識からすると誤っているように思えても、それを正すことが必ずしも正しいことではないこともある。

 

年齢を重ねれば、若者よりも知識も経験も増える。だからといって、自分の知識や経験が若者のそれを否定するものになってはいけない。

かつ、自分より年配の方の考えについても、違うと思っても、あえて意見しない方がよいこともある。たとえそれが圧倒的に間違っていたとしても、、、、。アドバイスも意見もしない方がいい関係というのは、世の中にある。

 

megureca.hatenablog.com

 

50歳を過ぎると、そんなことを思うもある。

そして、「口を慎む」という言葉の深い意味も考えるようになる・・・・。

 

何か反論したくなったときに、ぐっと言葉を飲み込み、なぜ意見の違いが生じているのか、相手の内在的論理を考える、っていうのができるようになると、ホントに大人っていえるのかもしれない。

 

と、修養とはちょっととんじゃったけど。

「言志四録」も、『「修養」の日本近代』の著者に言わせれば、通俗道徳のひとつだけれど、それでも、やっぱり私は良い本だとおもう。

読んでみて、自分の頭で考えてみる。

そういう機会を与えてくれる本というのは、良本といえるのではないだろうか。

私にとっては、ね。

 

読書は楽しい。

 

 

 

 

『夜はもう明けている』 by  駒沢敏器

夜はもう明けている
駒沢敏器
角川書店
平成16年6月1日 初版発行

 

ボイジャーに伝えて』が面白かったので、他の駒沢さんの作品を図書館で検索したら出てきた本を借りて読んでみた。

megureca.hatenablog.com


感想。
なるほど、うん、これも面白い。
読み始めてすぐに、登場人物に興味を持たせるのがうまい。
この人たちは一体どういう人で、どのような関係なのか?そして、話がどう展開するのだろう?と、ひき込まれる。

そして、感じたのは、駒沢敏器という作家は、人と人との距離感の難しさとか、人が内面に抱えているものとか、そういったものをごく日常の生活の中に表現するのがうまいんだな、ということ。だから、なんとなく身近な話の様であり、それでいてなかなか言葉にしないような心の動きの表現にひきこまれていく感じがする。

 

小説としては面白い。それでいて、セツナクなる。そんな感じ。バーンとパワーの元気をもらうというより、じんわりと、それでも生きていて、それでいい、、、ってそっと背中を押される感じ、かな。

 

本作も、沖縄が登場する。どうやら、駒沢さんは、沖縄、自然を守る、自然に畏敬の念を抱く、音を大事にする、人間は弱い、そんな想いが頭の中にある人の様だ。

元気をもらうためにもっと読みたくなるというより、疲れた時に読むといいかなぁ、、、って感じ。

 

本作は、短編集のようでいて短編集でもない。

 

第一章 不可能な交換
第二章 午前4時 の部屋
第三章 ある画家の死なないテロリズム
第四章 夢から泣いて覚める
終章 クリスマスの温かい石

と、5つのお話が入っている。
第一章から第二章にうつって、あれ?同じ登場人物?だけど、話しの展開がどういうこと?となる。
第二章が終わるころ、第一章の話はあれで完結していたのだ、、、と気が付く。そして、第三章では、完全に第一章、第二章にでてきた話しとは重ならないのかと思いきや、再び脇役が脇役で重なる。

なるほどねぇ。面白い構成で書くねぇ、という感じ。

全部を読んで、そうか、なるほど。たしかに、人と人っていうのは、どこかで重なっていたりするものだ、、、って。世の中は複雑系だ。

 

以下、ちょっとだけネタバレあり。

 

第一章の主人公は、麻子。大学卒業以来、フードコーディネーターの元でアシスタントをしていたが、若手に自分のポジションをとられた形でキャリアを変え、健康食品開発の仕事をしている。40歳目前。仕事で沖縄に来ている場面から始まる。10年続いた結婚生活を麻子が突然家出する形で終わらせたのは、2年前。沖縄との縁を作ってくれたのは、元夫の隆司だった。その隆司に、沖縄で出会ってしまうのではないかとびくびくしながら、沖縄にくり返し訪れる麻子だった。
 麻子は、出張初日、沖縄での仕事仲間となっている高子と、行きつけの「花風」に食事に行く。話の流れから、なぜ隆司さんと別れたのか?という話題になり、ちょっといたたまれない気持ちになっていた麻子。麻子は、ある日突然、隆司のもとから逃げるように家をでたのだった。健康食品開発の仕事をどうしていいか途方に暮れていた麻子に隆司はアドバイスをしてくれた。地方を絞ってみればいい、といって沖縄を薦めてくれたのだ。「花風」を教えてくれたのも隆司だった。はたからみれば、仲睦まじい二人だった。でも、麻子の中でなにかが壊れていたのだった。自分を失っていく感じ。。。

 

花風で店の主人雪絵に「先月、隆司さん見えられました」と言われる。麻子は、今回の出張で空港からホテルに向かうタクシーのなかで、隆司の姿を目にしていた。いますぐ店をでて、逃げ出したい気分になった麻子だったが、体に力が入らず、ただ黙っていることしかできなかった。絶対に会いたくない。

 

麻子の気持ちのこわばりが伝わってくる一文。

”意味もなく突っ込まれたような気持ちだった。町を歩いている時に暴走した自動車が急に自分だけにめがけて走ってくるとか、やっと積み上げた積み木を、誰か乱暴な人に一瞬で倒されてしまうとか、憤りとあきらめが同じ量ずつ麻子の中で持ち上がった。”

そして、雪絵が「大丈夫ですよ」という声がきこえた。なにが大丈夫なのか。。。

 

翌日は、高子と農家を回った。そして車で移動している途中で、また隆司の話になり、「麻ちゃんは自分を棚上げしているみたい。そうしているとこっちも辛くなる。」と言われる。なぜ、みんなして自分をいじめるようなことを言うのか・・・・。悪気がないのはわかるけど・・・・。

 

出張最終日、麻子は雪絵からとある場所へ行くようにと、住所だけを告げられる。麻子がそこへいってみると、普通の一軒家だった。廊下には線香のかおりがたちこめ、大きな数珠を手にした女性が麻子を迎えた。そこは、人が心にかかえた石を解放してくれる場所だった。麻子は、知らない間に自分の中に石を抱えていた。麻子をすわらせ、お経をあげる女性。「あなたの中に小さな子供がいるのが見えます。かわいそうに、7歳くらいの女の子が一人で泣いています」麻子は固まった。そして、女性はまた別の言葉を唱え始めた。目を閉じた麻子は、暗闇の中で積み木を拾い集めている小さな自分をみた。ただ、涙が流れた。


女性は、麻子にいった。

「ある種の憎しみとは、激しい代償を伴うのです。この世での行為のすべて、あの世では同等の力として作用します。憎しみとはそれを向ける対象ではなく、その感情を持つ本人の内側を蝕むのです。そしてあなたはいま、そのうちのひとりを失いました」

自分の中の何かをずっと傷つけ続けてきた麻子。それが。一つ、、、解放された。

 

帰りのタクシーで、運転手と話をしているうちに心を落ち着ける麻子。そのタクシーは、出張初日に麻子を乗せてくれたタクシーで、麻子が初日に渡された名刺をみて電話でよんでいたのだった。運転手は、自分自身が沖縄で自分の言葉を失ってしまった話、戦時中の話、色々な話をしてくれた。そして、自分が言葉を取り戻した話を。

タクシーのなかで、運転手の話を聞いているうちに、麻子も自分を取り戻しつつあるのを感じる。

”麻子は車の中から流れる光景をみた。吹き込んでくる風は生暖かく、この感触に彼女はうっとり目を閉じた。”

THE END

 

最後に、初めて麻子が心穏やかになった姿が描かれる。それまで、物語のなかの麻子は、ずっとなにかが張りつめた様な、キーーんとした空気をまとっていた。それが、解放されたんだな、、、ということが読者に伝わる。麻子が抱えていた石が何だったのかはわからない。でも、はたから見れば何一つ不自由がないように見えていても、人は何かを内に抱えていることがある。そして、それは必ず癒されることができる。

そんな話。
じーんとする感じ。

 

第二章は、隆司が主人公。二つの崩壊が2日続けて起きた。旅客機がビルに突っ込む映像をTVでみていた午前4時。建物は、やがて膝を折るように崩壊した。それは、自分だ、と思った隆司。麻子が自分にしたのは、これと同じことだ、、、と。
隆司はこの2年間、ずっと麻子がどうしてそれほどの憎しみを内に抱えてしまったのかを自分に問い続けてきた。麻子がもたらしたものなのか、自分が彼女にしてきた事への見返りなのか、、、わからなかった。
ビルの崩壊の前日、もう一つの崩壊があった。京都に出張中だという恭子からの電話だった。あたらしく関係を作りつつある恭子だった。タクシーの中だからかけ直す、といった隆司に恭子は「起きているから待っている」と。隆司は、恭子との関係は前に進んでいるのだと思っていた。帰宅してから電話すると、「今の関係をこれ以上続けたくない」という恭子だった。放心しそうになりつつ、電話をきって自分を取り戻そうとする隆司。部屋には、帰宅するとスイッチを入れるのが習慣だったアンプが赤い灯りをつけていた。
そのアンプは、素晴らしい音をもたらしてくれるアンプで、麻子との暮らしとセットのようなアンプであり、大村という職人のつくった唯一のものだった。麻子の者を片付けたように、このアンプもどうにかしないといけない・・・。

大村が隆司にこのアンプを託したのも、大村の崩壊してしまった結婚生活がもとだった。大村の人生と、隆司の人生が交差する物語が第二章。もう、麻子はでてこない。それでも、隆司は大村に背中をおされて、次の一歩を歩み始める。

 

第三章は、田嶋純一という52歳の画家の物語。田嶋は、目に入るものにはすべて意味がなく、気に障って仕方がない。同じような顔つきで、心にもないことをいって笑う中年の女たち。語彙の豊かさを全く感じない、口先だけの会話をする人々。。。あらゆるものは、田嶋にとって意味のないものになっていた。そんな中、田嶋は地元ギャラリーで個展をひらいている。ギャラリーから懇願されて開いた個展だが、担当者の言葉も、うわっつらのものにしか聞こえない。最近、唯一心をゆるせると思ったのは、スケッチをしている公園でであった若い女の子だった。何の下心もなく、ただ、田嶋の絵に興味をもって話しかけてきた恵。恵とは対照的に、打算的に田嶋に近寄ってくる女として、業界雑誌のインタビュアーだった恭子が登場する。第二章で隆司をふった恭子。恭子とは、恭子の思惑通り男女の関係になっていた。「40にもなって、自分のない人間なので、別れてきた」と、田嶋に報告する。この女は、なぜそんな話を自分にするのか。。。結局、自分は価値ある女だと言いたいだけにしか聞こえない。

田嶋と恵のほほえましい交流と対照的な、打算だらけの恭子との関係。恭子が自分におもねるほどに、恭子への憎しみが湧いてくる。誰かこの俺をころしてくれないか・・・・。

恭子の心の歪み、田嶋の心の歪み、恵のまっすぐさ。。。

恭子と田嶋の最後のデートは、人の温かみで建てられた一軒家を改装したイタリアンレストラン。その温かさと、そのあとの恭子と田嶋との諍い・・・。

温かさと惨さ。そんなものが交錯する物語。

 

第四章は、恵が隆司と出会う。

終章は、隆司が恵を救うことを決意する。

と、そんなお話。 

 

麻子が再生し、隆司が再生し、もしかするとこの二人が最後には復縁するのかな?なんて淡い期待を持ちつつ、そうはいかない。。。

それぞれ、新しい道を歩む。

 

人生って、そういうもんだ。

過去は過去。

未来は未来。

誰かの人生を背負って生きることはできない。でも、背負ってしまう人間の性。

そんな、セツナサあふれるお話だった。

 

面白いストーリー構成を書く人だな。たぶん、そこがすごいんだと思う。挿入されてくる音楽の話題も面白い。沖縄民謡からグールドのバッハまで。グレン・グールドは、最近私もよく聞くので、いい音できけたら、それは心も癒されるかもしれない、、、と思った。

 

ちょっぴりセツナイお話だけど、やっぱり、

読書は、楽しい。