『マンガ日本の歴史 1 秦・漢帝国と稲作を始める倭人』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 1
秦・漢帝国と稲作を始める倭人
石ノ森章太郎
中央公論社
1989年10月25日 初版印刷
1989年11月8日 初版発行

 

2023年に全国通訳案内士(英語)の資格試験の受験勉強で、日本史の勉強を何十年ぶりかにやり直した。おかげさまで、試験には合格したのだけれど、私の日本史の理解はまだまだ表面的なものでしかない。小説に限らず、色々な本を読んでいると、なんにしても歴史の理解というのは、その物語を深読みするのに必須な教養であることをつくづく感じる。ちょうど、有志の日本リベラルアーツに関する勉強会で、今年度から事務局を頼まれたこともあり、もう一度日本史を自分なりに振り返ってみたいと思った。

とはいえ、教科書はたくさん持っているけれど、、、、もっと楽しく!ということで、気にはなっていたけれど読んでいなかった石ノ森章太郎さんのマンガ日本の歴史に手をだしてみた。あまりにもシリーズ数が多いので、図書館でかりながら、ぼちぼちと、、、、。

ということで、1冊目は、秦・漢王朝の時代。日本は、縄文から弥生にかけて。

 

目次
序章 後漢王朝へ、倭の奴国(わのなこく)より・・・
第一章 稲作文化、海を渡って日本列島へ
第二章 自然を征服する人々の歓びと怖れ
第三章 百余国の王と民衆

 

ポイントを覚書。

 

福岡市博物館にある国宝「金印」の由来の話が、序章。AD57年に、倭の奴国が、朝鮮楽浪府の仲介で、後漢帝国の光武帝朝貢にいき、東の遠い国からよくぞきた、ということで、金印を授かる。

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第一章~第三章は、倭の奴国がクニを代表して後漢へ行くようになるまでの歴史を振り返っている。

 

BC300年頃、縄文文化は、人口増加や自然(植物・動物)の乱獲で、すでに危機的状態になっていた。食べ物を求めてさまよっていた縄文人が、渡来人が稲作をしているムラをみつけたことで、縄文人と渡来人との交流が始まった。

 

渡来人は、米作りのみならず、青銅器・鉄器・素焼無文土器(弥生土器)・勾玉・磨製石器の技術と文化をもたらした。

 

米作りが始まると、米の出来具合の良し悪しは、「神」の力によるものと考えられるようになり、神様に豊作をおねがいする「神祭り」が行われるようになる。それは同時に、巫女を生み、男女の性的な交わりの祭りでもあった。

 

そして、ムラができる。近親者間の結婚を避けるために、ムラを越えての男女の祭りも行われた。そして、そこから男女のとりあい、、米の取り合い、、、ムラ同士の争いが増えていく。ムラにはそれぞれ神様がいるので、ムラとムラとの戦いは、神様と神様の戦いでもあった。

 

戦いで疲弊していくと、ムラムラを統一する動きがでてくる。そして、「王」が登場。

こうして、米作りがおこり、ムラ同士の争いが起こり、それは同時に自然破壊の始まりでもあった。。。


倭の奴国が、光武帝に会いに行ったとき、「徐福はどうしておる?」と聞かれた場面が描かれている。仲介した楽浪府の太守は、「不老不死の仙薬を求めて東方へ船出され、そのままかの地にとどまったと伝えられている、、、今頃300歳くらい・・」と。

徐福?どこかで聞いたことあるぞ??っておもったら、熊野へ旅したとき、さんま寿司をたべた「徐福寿司」においてあった、「徐福さん」と同一人物のことらしい。新宮には、徐福公園もあって、

”約2200年前に霊薬を求め渡来した徐福
秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬を求めて渡来した徐福。現在、公園内には徐福の墓があり、平成6年(1994)8月に墓所を中心に中国風の楼門を設置するなどの整備を行いました。園内には徐福の墓のほか顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祀った七塚の碑などがあります。”
との、説明。

そうか、、、歴史の勉強は、旅の楽しみの深堀にもつながる。

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本書の最後の方には、参考文献に加えて、いくつかの解説も掲載されている。
*肩書は、本書掲載のもの。

 

時代概説:義江彰夫(東京大学助教授)
 民衆と神祭りの関係について。弥生人が生んだ収穫祭=神楽(かぐら)が、日本の祭りの始まり。日本の歴史は、つねに国際環境の大きな視野のなかに置いて考えていくことが必要。

 

服装の歴史:高田倭男(高田装束研究所所長)
 日本人の生活や文化は、海に囲まれた島国で、温暖で湿潤な気候に強い影響をうけている。
 南方系は、涼しくなるための工夫でワンピース型が多い。北方系は、熱を逃さないように手足の先端まで覆うような、ツーピース型が多い。
 装うという行為は、自分自身の為もあるが、多くは人に対しておこなわれる。

 

家具とインテリアの歴史:小泉和子(生活史研究所代表)
 日本の住まいは、家具がない。椅子より床座を選んできた。日本の家具は、必要な時に使用できるように工夫された、スタッキング家具。蒲団、卓袱台、などなど。そのような工夫は、西洋では近代にできたものだが、日本では古代からあたりまえだった。
 今では椅子が一般になっているが、日本文化の中にはいまでも床座が深く根付いているものがある。茶道、華道、、、三味線も。

 

建築の歴史:藤井恵介(東京大学工学部助手)
  建築復元の方法について。絵図や図面から調べたり、遺跡を調査して調べる。また、様式・技術などから推察する。建築がどのようにつかわれたのか、どのような技術がつかわれたのかなども、研究対象。 

 

私の中の記憶の断片が、ちょっとずつつながる感じ。

 Connecting the dots

それこそ、読書の楽しみであり、人生の楽しみ。

 

読書は楽しい。

 



『オッペンハイマー 原爆の父はなぜ水爆に反対したか』 by 中沢志保

オッペンハイマー 原爆の父はなぜ水爆に反対したか
中沢志保
中公新書
1995年8月25日 発行

 

映画『オッペンハイマーを観たあとに、オッペンハイマーのことを何も知らないなぁ、とおもって、図書館で「オッペンハイマー」で検索したところ出てきた本。1995年と少し古いけれど、まぁ、参考にはなるだろう、、、と。

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著者の中沢さんは、1955年長野県生まれ。国際関係学・国際政治史を専門とする方らしい。アメリカの核政策、『フランク報告』などについて論文を書かれている。

本文の中にも、「フランク報告」が出てくるのだが、恥ずかしながら、私には何のことだかわからなかった。それは、「原爆の日本への無警告投下に反対する」提案書で、当時シカゴにいたマンハッタン計画参加の科学者7人が1945年6月、「フランク報告」(The Franck Report)として原子エネルギー、特に原子爆弾の社会的、政治的影響を検討して大統領の諮問委員会に提出したもの。しかし、その提案は無視された。そして、原爆は、広島に、長崎に、落とされた・・・・。

 

と、フランク報告を含め、オッペンハイマーについての本というよりは、アメリカが、原爆、水爆の開発やそれをどう使うかについて、どのような歴史の流れになっていたのかというお話。

 

表紙の裏には、
”原爆の出現は歴史を核以前、核以後に二分する出来事であったが、 この2つの時代の間で運命を引き裂かれたオッペンハイマーは、 現代の科学者の象徴といえる。 原爆の完成によってヒーロー となり同僚の拍手に両手を挙げて応じた男が、 数ヶ月後には「私の手は血で汚れている」と震えた。科学者が抱くこの最大級の矛盾を核の国際管理を構想することで解決しようと試みた彼は、 水爆開発に反対し、 赤狩りの渦中で公職から追放された。”とある。

 

目次
序章 「危険」と「希望」
第一章  オッペンハイマーはスパイだった?
第二章  理論物理学者「オッピ―」の誕生
第三章 マンハッタン計画への参加
第四章 原爆の完成と対日投下
第五章 原子力の開発と管理
第六章 水爆開発をめぐる対立
第七章 オッペンハイマー事件
終章 科学と政治の接点を生きた科学者

 

感想。
そうか、、、。映画を観る前に、この本を読んでいたら、もっと映画のストーリーがわかって、深く鑑賞することができたかもしれない。。。やっぱり、事前に予習しておくっていうのも、必要かも・・・。もしも、これから映画を観る人がいたら、事前に一読の価値あり、と思う。事後でも、十分勉強になったけど。

 

オッペンハイマーが他の科学者と違っていたのは、科学者であり、かつ、政治に意見できる立場であった、ということ。本書を読むと、他の科学者との違いがよくわかる。前述の『フランク報告』を提出したフランク教授らは、科学者として自分たちの良心の表明として、原爆の使用を反対した。しかし、そこに政治的影響力はゼロといってよかった。軍には完全に拒絶された。でも、オッペンハイマーは、原爆をどう使用するかについても、政治に口を挟める立場にいた。そこが大きく違う。。。だから、戦後に水爆開発を反対したとしても、核の国際管理を訴えたとしても、やはり、「日本に原爆をおとした人間」として、日本人には見えてしまう。

 

しかし、もちろん、オッペンハイマーが決定をくだしたわけでもない。アメリカの原爆開発にかける執念はすごかった。ナチスよりさきに、、、、それは世界中の潮流でもあった。アメリカは、3つの核爆弾を作るために、20億ドル、30か所の関連施設、12万人の科学者を動員した。。。。現代でも、ちょっと考えられないほどの人数ではないだろうか。12万人の科学者、、、。それが、十数年の間でのこと、、。でも、中には、自分の開発している技術が、現実の世界でどう使われるかを理解していない科学者もいただろう、、、。

科学者だけではない。多くの企業も原爆開発に参加している。本書の中で出てきて、日本でもよく知られた会社としては、デュポン、モンサント、ジェネラルエレクトロニクス、、、、。ウランの分離、装置の開発、、、、戦争は、核兵器は、、、誰かひとりの責任ではない。。。。

 

映画にも出てきたレスリー・グローブス将軍(マットデイモン演)は、マンハッタン計画を進めるにあたり、ロスアラモス研究所をつくった。砂漠の何もない所だ。それより前は、各研究者の区画化を徹底した。研究者同士の交流を嫌ったのだ。秘密保持のため、、、。しかし、研究者にとっては、他の研究者との対話程重要なものはない。次第に、研究者のモチベーションは落ち、進捗は鈍る。だから、隔離された場所に、ロスアラモス研究所を作ったのだ。

そうか、、、そういうことだったのか、、、、と、映画を振り返ると、納得、という点がいくつもあった。

 

そして、アメリカの作った3つの核爆弾のうち、一つは、1945年7月16日「トリニティ」実験として成功。残る二つは、既に降伏済みのドイツではなく、日本に落とされた。。。。当時のアイゼンハワー将軍は、既に混迷している日本に原爆は不要と言っていたにもかかわらず。。。トールマン大統領は、原爆を日本におとした。


1945年、ルーズベルト大統領が急死していなければ、トールマン大統領になっていなければ、、、歴史はかわっていたかもしれない。。。たら、れば、がないのが歴史だけれど、、。

 

オッペンハイマーはじめ、科学者たちは、核兵器は安全保障にならない」と言い続けた。なぜならば、他国(当時ならソ連など)の開発も、いずれアメリカに追いつくだろうし、ミサイルと違って、核兵器はそれを撃退する手段はゼロであるから。しかし、アメリカの核開発は止まらなかった。そして、戦後は、各国の核開発を止めることなどできなかった。。。

そういう、歴史の流れ、そして現在に至る核の脅威。それを学ぶのに、適した新書だと思う。今でも、「なぜ原爆使用が必要だったのか?」「なぜ、使用ありきを疑わなかったのか?」の問題は、アメリカ国内でも答えが出ていない。それは、原爆に限らず、、、なぜ、戦争ありきなのか?!?!?

この、愚かしい人間、、、、と、しか言いようがない。

 

特に、心に残ったところを覚書。

オッペンハイマーが1966年にブリンストン大学から受けた名誉学位の学位記
物理学者にして、船乗りであり、哲学者、馬術家であり、言語学者、料理人であり、良いワインと、詩の愛好家である。」とあったそうだ。
母親は絵画をたしなみ、自宅には、ゴッホ三枚、ピカソ一枚、ルノアール一枚が、さりげなく掛けられていたのだと。

 映画の中では、ドイツに渡ったオッペンハイマーが、ドイツ語で流暢に初講義をすることに、アメリカ人が物理の何をとバカにしていた聴衆を驚かせるシーンがある。オッペンハイマーは、マルチリンガルだったらしい。ダンテを読むためにイタリア語を学び、東洋の哲学書を読むために、サンスクリット語まで学んだという。ハイスクール時代は、ギリシア語をマスターして、ホメロスプラトンをよんでいた。すごすぎる。。。やっぱり、言語脳が発達している人は、あらゆる思考脳が発達するのだろうか。

 

原子爆弾は、ウラン(235同位体のように重い原子核が分裂し、放出された複数の中性子が他の原子核にあたって、新たな核分裂をねずみ算式に引き起こす各連鎖反応の際に生み出されるエネルギーを利用する。他にプルトニウムが使われる。

 

オッペンハイマーは、教授という仕事をしながら人にものを教えるというスキルを向上させ、研究所長として働きながら組織を運営するスキルを身に着けた。周囲の人が彼の目覚ましい成長を語っている。彼の成長の過程を読んでいると、いかに、まっすぐ正直なひとだったか、と思う。偏屈な科学者ではなく、人からの指摘を受け入れ、素直に自分を修正できる人だったのではないかと思う。

 

・スチムソンの覚書提案で、「原爆の使用問題を検討する暫定委員会」が1945年5月4日に発足。オッペンハイマー、ローレンス(映画にでてきた実験物理学者)、アーサー・コンプトン、フェルミは、その科学顧問を任命された。だが、そこでも、「原爆を使うべきではない」という見解はだされなかった。疑問視は、あったけれど、、、、

 

シラードハンガリーからアメリカに亡命していた科学者)は、度々「アメリカが核を独占することは不可能であり、核兵器が世界に拡散した場合、アメリカは都市集中型の国土をもつたゆえに、核兵器の機種攻撃に脆弱である。核兵器は安全保障に利する手段になりえない」と、たびたび訴えていた。しかし、ハンガリーからの亡命者の声は、政治にはまったく響かなかった。

 

オッペンハイマーの言葉。
「科学者は、対日戦の戦況については何も知らなかった。原爆以外の方法で日本を降伏させる可能性があることに関しても、無知であった」
知らなかったからと言って、許されるのか、、、、。

WEIRDを思い出す。知らなかったからと言って、許されない、、、許されると考えるのが、欧米のWEIRDな人たち、、、。

原爆をなぜ使ったのか、なぜ防げなかったのか問題を理解するのは、WEIRDな人々への理解も必要かもしれない。

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オッペンハイマーのロスアラモス研究所長辞任の挨拶で語った言葉から。
「核時代への新しい対応に関して、「まず第一に 国際法の体系を変えなければならない」という人がいるが、 私はそうは思わない 。「いや、 必要なのは友好的な感情だけだ」という意見にも賛成しかねる。 私は、 第一に核兵器は人類全てに関わる「危険」なのだという共通の認識が必要だと考える。ちょうど ナチズムが連合国全体にとっての「問題」とみなされたように、核兵器も人類全体の「問題」なのである

ごもっとも。。。。

 

オッペンハイマーは、水爆を「皆殺し(genocide)兵器であり、その使用者はいかなる正当化も許されない」として、反対した。意図的に、ヒトラーユダヤ人虐殺を連想させるgenocideという言葉をつかった。

 

オッペンハイマーの言葉。
二匹のさそり」。供に核開発地獄におちいっていく、アメリカとソ連を揶揄して、瓶の中の二匹のさそり、といった。この二匹のさそり状態を回避するために、全ての手段と知恵を用いよ!と呼びかけた。。。が、及ばず。。。

 

オッペンハイマーの言葉。
科学者は罪を知った
科学者も政治的責任から逃れられない、ということ。知らなかった、では許されない。

 

アメリカの関係機関、物理学者、政治家、たくさんの固有名詞がでてくるので、覚えきれないけれど、その時の政治的動きの流れは見えてくる。結構、勉強になる本だった。

 

そして、最後は、アメリカの「政治的パラノイア」の時代に、公職追放となってしまうオッペンハイマー。映画では、その過程を描くことで彼のまっすぐな性質を描き出している。

 

もっと、彼のことしりたいな、って思った。

 

うん、読書は、楽しい。

 

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』 by 村上春樹

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅
村上春樹
文春文庫
2015年12月10日 第一刷
2015年12月15日 第二刷
*単行本 2013年4月 文藝春秋
Colorless Tsukuru Tazaki and His Year of Pilgrimage

 

知り合いが、次に読んでみたい本、といって挙げた本。はて?私は読んだことがあるのかどうかすらわからなくなっている。大学生の頃は大好きだった村上春樹だけれど、いつ頃からか、あまり飛びつかなくなった。面白い?と聞かれたので、正直に「読んだかどうかも忘れた・・・」と答えた。
で、気になったので、文庫本を買って読んでみた。

 

読み終わってからも、読んだことがあったような気もするし、なかったような気もする。。。でも、登場人物の名前には覚えがあった。そして、ところどころ、人物の描写にも覚えがあった。ただ、筋書きは、、、ストーリーは、、、、やっぱり、読んだことが無いような気がする。。。人間の記憶なんて、怪しいもんだ。いやいや、怪しいのは、「私の記憶」である。

 

裏の説明には、
” 多崎つくるは鉄道の駅をつくっている。 名古屋での高校時代、四人の男女の親友と完璧な調和をなす関係を結んでいたが、大学時代のある日突然、四人から絶縁を申し渡された。理由も告げられずに。死の淵を一時さ迷い、漂うように生きてきた つくるは、新しい年上の恋人・沙羅に促され、あの時何が起きたのか探り始めるのだった。”

 

感想。
一気読み。
やっぱり、村上春樹、面白い。
やっぱり、嫌いじゃない。。。
でも、自分が読まなくなった理由もわかるような気がする。読んでいて、結構、グサってくるんだよね。。。主人公のキャラとか、セリフとか、ちょっと風変わりな女の子とか。。。。
けど、やっぱり、読みだしたら止まらない。

 

楽しい一冊ではない。でも、興味深い一冊である。主人公の経験は、きつすぎる。ある日突然、仲良しグループから追放されるって、、、、理由も告げられずに。。。そして、死の淵をさまよい、人生という暗闇の海を1人で泳ぎ、、、沙羅にであう。沙羅にであったことで、つくるは巡礼の旅を始める。でも、最後、沙羅との運命は、読者の想像にゆだねられる。


英語タイトルにあるように、つくるの巡礼の旅は、何年にもわたる。大学生のあの日から封印し続けた自分の過去へ、つくるが巡礼をはじめたのは、36歳。その時沙羅は、2つ年上の38歳。恋人未満。

過去に起きたことの悲しい出来事の真実を探りにいく、多崎つくるの巡礼の旅。ちょっと、不思議な経験の物語も挿入されていて、やはり、春樹ワールド。だけれど、比較的、リアルな春樹ワールド

 

以下、ネタバレあり。

 

つくるは、高校時代、男女5人のメンバーとの仲良しグループのひとりだった。彼らの名前は、アカ(赤松、男)、アオ(青海、男)、シロ(白根、女)、クロ(黒埜、女)。それぞれ、苗字に色が入っていた。つくる1人が、色彩を持たない多崎、だった。彼らは、名古屋の高校生で、つくるを除く4人は、そのまま名古屋で進学する。ずっと、いっしょだと思っていた5人だったが、つくるは1人、「駅をつくる」夢を叶えるために、東京の大学へ進学する。

 

そして、大学の休みになると両親と二人の姉のいる名古屋に戻り、彼らともいっしょに過ごすのだった。ところが、大学二年生の夏、名古屋にもどったつくるが彼らの家に電話をすると、だれもが留守。電話にでた家族は、そっけなく、ただ留守を告げるだけだった。次の日も、同じだった。だれも電話がつながらない。何度も何度も、かけつづけた。でも、だれにもつながらない・・・。
そして、アオから電話がかかってくる。

悪いけど、もうこれ以上誰のところにも電話をかけてもらいたくないんだ

 

そして、つくるの人生は、その日を境に別のものになってしまう。自分には、なぜ、そんなことをいわれるのか、まったく見当もつかなかった。でも、聞きもしなかった。ただ、みんなが嫌だと思うことは自分はしたくない、といっただけだった。


自分の家族には何も告げずに東京に戻ったつくるは、その後半年で、7キロも体重を落とす。死神のような自分の姿に、これではいけない、と食事をとるようになり、運動もするようになり、なんとか死の淵から這い上がる。。

そして、今は、高校時代の夢をかなえて、駅をつくる会社の会社員として生きている。。。

 

そんなつくるが、沙羅に過去を語るという形で、つくるの過去が明らかになっていく。沙羅とは、つくるの上司の新築祝いパーティで紹介されて出会い、一度は一夜を共にしたけれど、恋人同士のような、恋人ではないような、微妙な関係。

 

つくるは、死の淵の大学時代をおくったけれど、1人だけ、友人と呼べるような2学年下の友人がいた。彼の名は、灰田。かれも、名前に色彩をもっていた。灰田とは、大学のプールで知り合い、色々と話をするようになる。そして、灰田が度々つくるの部屋に泊まりに来ることもあった。リストの『巡礼の旅』を聞きながら、二人は夜遅くまで話した。リストの『巡礼の旅』は、シロが高校時代によく弾いてた曲でもあった。そして、灰田は、灰田の父が彷徨ったという死の淵の話をする。

 

1960年代、灰田の父が若い時、大学紛争で大学に通ってもしかたがないと放浪していた時に起きた話。大分県山中の小さな温泉でバイトをしていた時、不思議な客
が滞在し、彼から「僕は、死ぬことになっている。よかったら、死ぬ権利を君にわたそう」みたいなことを言われる。客は、ピアニストだと名乗り、ある日「ピアノを弾ける場所はないか」と灰田の父に訊いてきた。ちかくの中学校へ案内し、アップライトのピアノをひいて聞かせる。彼はピアノを弾く前に、カバンの中から小さな巾着袋をだし、そっとピアノの上に置いた。たしかに、上手なピアノだった。でも、そのなぞの客がピアノを弾いたのは、その時一回きりで、死のトークンの話をすると、いつの間にか宿を去っていた。

 

灰田は、そんな話をつくるに聴かせる。そんな灰田も、ある日突然、つくるのもとから姿を消す。

 

つくるは、高校の友人からは追放され、大学の友人からは置いてきぼりにされる、、。

 

そんなつくるの過去をきいた沙羅は、つくるにあることを打ち明ける。「あなたは私を抱いている間も、どこかべつのところにいた。」「あなたはたぶん心の問題のようなものを抱えている。」沙羅は、つくるのことは好きだけれど、その問題が解決しないと、もう、つくると抱き合うことはできない、、、という。

 

沙羅は、なぜ、アカ、アオ、シロ、クロから追放されたのか、自分でその原因をつきとめに行くことを薦める。そして、四人の名前から、沙羅がそれぞれの現在をつきとめ、つくるに、彼らに会いに行くようにすすめる。沙羅の話によれば、アカはレクサスの販売員として、アカは脱サラして自己啓発セミナーを提供する企業家に、クロはフィンランドにいるという。そして、シロの現住所はないという。シロは、6年前に亡くなった。どのようにして彼女が亡くなったかは、自分で確認してみろ、と。

 

つくるの巡礼の旅が始まる。

 

つくるは、事前に連絡せずに、まずは、アカ、アオに会いに行く。アカもアオも、つくるとの再会を喜んでくれた。そして、シロは、6年前に浜松で絞殺体で発見され、いまもその犯人はつかまっていないことを知る。また、彼らがつくるを追放した理由は、シロが「つくるにレイプされた」と、告げたからだった。。。

しかし、さらなる衝撃は、アカ、アオの男性陣も、女性であるクロですらそんな話は信じてはいなかったという。でも、すでに病んでいたシロを救うには、つくるを突き放すしかなかったのだ、、、と。

 

三人とも、つくるがシロをレイプすることなどありえない、とわかっていた。でも、シロのために、つくるを追放した、、、、。

アカ、アオと話をしたつくるは、一旦、東京に戻り、駅改修工事の仕事にもどる。そして、ある駅長さんから、めずらしい忘れ物の話として「6本目の指」がホルマリン漬けでトイレに残されていた話を聞く。唐突に、6本目の指の話なのだが、灰田の父が出会ったピアニストが、そっとピアノの上に置いたのは、6本目の指だったのではないかと思うのだった。

「6本目の指は、いささか荷が重い」

人には、それぞれ、いささか荷が重い物がある。。。

 

そして、翌日、沙羅にあったつくるは、アカ、アオから聞いた話をする。シロの「つくるにレイプされた」の告白が原因だったことを聞いた沙羅は、自分の高校クラスメートの話をする。高校時代は、美しかった友人が、だんだん色あせていき、薄っぺらになってしまい、友人たちはその美しかった友人から離れていった、、という。人には、それぞれピークがあるのではないか、、、と。

 

シロは、日本人形のように美しい高校生だった。それが、、、、ピークだったのか、、、そして、病んでいったのか、、、。

 

そして、つくるは、クロに会いにフィンランドまで行く。大手旅行会社で働く沙羅に旅の手配をしてもらい、クロにも予め連絡を入れずにフィンランドまでいく。しかし、聞いていた住所に電話をしても、フィンランド語で留守番電話になっていて、どうすることもできない。つくるは、沙羅に教えてもらった沙羅の同僚のフィンランド人に連絡し、なんとか、クロの居場所を突き止める。そして会いに行く。

クロがいるはずのサマーハウスにつくと、そこには、1人の男性がいた。「ヘロー」とつくるが言うと、「こんにちは」と男性が日本語でいった。クロの夫だった。つくるは、多崎つくるだと名乗ると、「つくる」はものを「つくる」か?と聞かれた。そうだと答えると、「僕もものをつくります」と。

クロの高校の同級生だと告げると、家の中に案内してくれた。妻は、娘たちとでかけているけれど、もうすぐ戻ってくるから、と。彼は陶芸家で、家の中には彼の作品、そして、クロの作品がたくさん飾ってあった。

そして、クロと娘たちが帰ってくる。家の中に、夫ではない誰かがいる。つくるの顔をみたクロは、表情を一瞬失い、空白になった。日本人?男性?誰?

「つくる?」ようやく口にしたクロ。つくるは肯く。かたまったままのクロ。

夫は、コーヒーを入れようかと日本語で妻にたずね、妻はおねがい、と答える。そして、夫は、子どもたちをつれて買い物に行ってくるから、といって二人を残してでかけていった。

 

つくるは、なぜ自分がクロに会いにきたのか、ここに来る前に、アカとアオにあって、シロの話を全部聞いたことを告げる。クロは、、、今は、エリ・ハアタイネンは、なぜあの時、つくるを突き放さなければならなかったのか、、、そして、なぜ、今自分はフィンランドにいるのかを語った。エリも、シロの話は信じていなかった。すでに、シロは壊れかけていた。そして、つくるを突き放すことでシロを守ろうとしたこと、シロが何故そんな嘘をついたのか、それはエリがつくるのことを好きだったからではないか、という仮説を話す。エリは、つくるへの片思いを続けるより、シロを守ることで自分を守ろうとしたのか、、、。

つくるとエリは、率直になにもかもを話し合う。

 

つくるは、あの時、暗く冷たい海に突き落とされた気がしたということ。そして、
自分の存在が出し抜けに否定され、身に覚えもないまま、1人で夜の海の放り出されることに対する怯え」をずっと抱えて生きてきてしまった。だから、、、人と深いところまで、かかわれないようになってしまったのかもしれない、、、と。

エリは、つくるがシロをレイプするなんてあり得ないと、その時からわかっていた。でも、つくるを護れば、シロを護れない。どちらかを取るしかなかったのだと、、、。そして、シロをとったのは、つくるのことを好きだったからだ、、、と。片思いを終わらせたかったエリ。

 

でも、その後もシロはどんどん病んでいった。エリは、なんとかシロを護ろうとした。シロのために自分を犠牲にもした。だんだん、それに疲れてきた、、、そして、陶芸教室で出会った夫とフィンランドに行くことを選んだ。シロから離れることを選んだ。。。シロが殺された時、エリはすでにフィンランドにいて、お腹に赤ちゃんもいて、お葬式にはいけなかった。でも、それはエリにとって、初めて訪れたシロからの解放だったのかもしれない。

 

すべてをつくるに話すと、エリは、両手で顔を覆った。つくるは、言葉を失った。
そして、殆ど無意識にテーブルを立ち上がったつくるは、エリの肩に手を置いた。
「ねえ、つくる、君にひとつおねがいがあるんだけど。もしよかったら、わたしをハグしてくれる?」

つくるは、エリの身体をただ強く抱きしめた。エリの身体は、暖かかった。

 

つくるは、エリに、沙羅の話をしてきかせる。沙羅にいわれて、こうして今ここにいることを。そして、沙羅とは、恋人未満の中途半端な状態であることも。つくるは、フィンランドに飛ぶ前、中年男と手をつないで楽しそうに歩いている沙羅を目撃してしまっていた。


エリはつくるに、
「君は色彩をかいてなんかいない。君はどこまでも立派な多崎つくるくんだよ。そして素敵な駅を作り続けている。今では健康な36歳の市民で、選挙権をもち、納税もし、私に合うために一人で飛行機に乗ってフィンランドまで来ることもできる。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えやつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」と。

 

帰国したつくるは、日常に戻る。沙羅に逢いたい気持ちがつのる。つくるは、沙羅に電話し、クロと会えたことの報告よりもなにより、沙羅に逢いたい気持ちを伝える。でも、沙羅は3日待ってくれ、というのだった。

 

つくるは、これまでに起きた様々なことを思い返す。父のこと。家族のこと。高校時代のこと、アカ、アオ、シロ、クロのこと。。。そして、「何かを強く信じること」を。

 

物語は、つくるが明日には沙羅にあえるという前の晩で終わる。沙羅が自分を選ぶのか、あの中年男を選ぶのかはわからない。でも、それはどうしようもない、つくるが自分で何とか出来る問題ではないと納得して、静かな眠りにつく。

 

あぁ、、、、

もう!!!

沙羅とのハッピーエンドにしてよ!!!って言いたくなるけれど、これも、春樹ワールド。

 

結局のところ、アカもアオもクロも、みんなつくるの味方だったのだ。きっと、沙羅もそうだよ。。。きっと、沙羅は、つくるのもとにやってくる。そう信じたい。

 

あぁ、、、やっぱり、村上春樹ワールド、嫌いじゃない。でてくる音楽、料理、お酒、場所、、、全部、好きだ。

もう一度、春樹ワールドに嵌ってみるのも悪くないな、って思った。

 

本作では、6本目の指の話が出てきたけど、指が4本しかない女の話もあった気がする。『風の歌を聴け』かな。やっぱり、あのころの作品の方が好きだけど、また読み返したら違う感想なのかもしれない。

 

やっぱり、読書は楽しい。

春樹ワールドは、悪くない。

 

 

 

『板上に咲く』 by 原田マハ

板上に咲く
原田マハ
幻冬舎
2024年3月5日 第一刷発行
MUNAKATA: Beyond Van Gogh
*本作は史実に基づいたフィクションです。

 

原田マハさんの新刊。

 

棟方志功(むなかたしこう)の物語。マハさんのお得意分野、画家の人生ノベライズ。棟方志功と言えば、あのごつごつとした版画のおじさん、、、っていう位で、作品は好きだけれど、特にどんな人なのかを興味を持ったことが無く、他に類を見ない作家さんではあるけれど、私にとっては昔のすごい芸術家、ってくらいな知識だった。
装丁をみれば、すぐにわかる。あ、棟方志功。結構、好き。

 

ページをめくると、いきなり目に入るのは、草野心平〈わだばゴッホになる〉抄からの抜粋。

ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにならずに。
世界の。
Munakataになった。

 

ゴッホに憧れて、ゴッホになりたかった棟方志功のお話。物語の構成も、マハさんのお得意、故人の思い出を語っている現代の場面から、故人の生きていた時代へジャンプ!そして、最後は再び現代へ。主人公の人生の流れは、時系列に書かれているので、とても読みやすい。

ここで、物語に入る前に、一旦、棟方志功についてのお浚い。

 

棟方志功略歴東京国立近代美術館のHPから一部抜粋)
1903年 9月5日、青森市大町一丁目一番地に生まれる。
1924年 油画家を志し、帝展入選を目指して上京。
1926年 帝展落選が続くなか、版画に目覚める
1928年 油画《雑園》で帝展初入選。
1932年 版画に道を定める。
1936年 国画会展に出品した《瓔珞譜・大和し美し版画巻》が縁となり柳宗悦民藝運動の人々との知遇を得る
1939年 《二菩薩釈迦十大弟子》制作。翌年の国画会展で佐分賞受賞。
1945年 富山県西砺波郡石黒村法林寺に疎開。5月の空襲で東京の自邸と戦前の作品や版木のほとんどを焼失。
1951年 11月末、東京都杉並区に転居。
1955年 第3回サンパウロビエンナーレ版画部門最高賞受賞。
1956年 第28回ヴェネチア・ビエンナーレ国際版画大賞受賞。
1959年 ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きで初渡米、 滞在中の夏、約1か月かけて欧州を巡る。
1961年 青森県新庁舎の壁画《花矢の柵》など公共施設への大作提供が増える。
1970年 文化勲章受章。文化功労者となる。
1975年 9月13日、死去。青森市棟方志功記念館開館。


そして、先日、2024年3月31日をもって、棟方志功記念館は閉館。作品は、青森県立美術館に移転され、棟方志功展示室に飾られることになっている。今年の7月にリニューアルオープン予定。

ゴッホと違って、生きているうちに讃えられた人。

 

目次
序章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並
1928年(昭和3年)10月 青森 ー 1929年(昭和4年)9月 弘前
1930年(昭和5年)5月 青森 ー 1932年(昭和7年)5月 東京 中野
1932年(昭和7年)9月 東京 中野 ー 1933年(昭和8年)12月 青森
1934年(昭和9年)3月 東京 中野
1936年(昭和11年)4月 東京 中野
1937年(昭和12年)4月 東京 中野 ー 1939年(昭和14年)5月 東京 中野
1944年(昭和19年)4月 東京 代々木 ー 1945年(昭和20年)5月 富山 福光
終章 1987年(昭和62年) 10月 東京 杉並

 

感想。
あぁ、、、、棟方志功さん、、、。ゴッホみたいな人だ。でも、ゴッホと違って、生きている間に、作品は高値で売れ、家族も豊かに暮らすことができるようになった。ゴッホをめざしていた青森の田舎青年は、世界のMunakataになった。そうか、そうだったのかあ。。。。すごいなぁ。。。。

知らなかった棟方志功の世界が、ぐっと身近に感じられる。ぐっと胸に迫るものがある物語。面白かった。

 

そうか、文化勲章まで受賞していたのか。。。流石に、1970年の出来事、私の記憶にはない。戦争で多くの作品が焼けてしまったらしいけれど、、、その後も、さまざまなところで活躍されたので、作品そのものはたくさん目にする機会があると思う。本作では、志功青年が、妻のチヤさんと出会うところから始まり、極貧生活をしながらも油絵から版画にかじをきって、柳宗悦(やなぎむねよし:民芸運動家)、濱田庄司(陶芸家・人間国宝)、河井勘次郎(陶芸家)らに認められるようになり、ようやく、家族そろって暮らすことができるようになる成功までの物語。二人の恋愛物語でもある。二人の会話が、方言なところに、なんともホッコリ感が。。。

 

序章と終章は、妻のチヤさんが志功がなくなって12年目、スコさん(志功)があこがれ続けた、ゴッホの〈ひまわり〉について、語る姿。物語の中では、志功が柳宗悦が雑誌『白樺』で紹介したゴッホのひまわりの切り抜きを、後生大事に宝物のようにあがめていた様子が語られる。それも、戦争で焼けてしまうのだが・・・。

志功とチヤさんは、ともに青森の出身で、友人を介してたまたま出会う。そして、チヤが自立した職業婦人をめざして単身、看護士の資格を取って仕事をはじめた弘前で、偶然再開。二人は惹かれ合う。

そして、結婚。子どももできるのだが、志功はその時、東京で芸術家仲間の松木満之の家に居候をしながら画家修行の最中で、とてもチヤと子どもといっしょに暮らすことはできない経済状況だった。自分が食べていくのもやっと、下宿代も払えない、という状況で、チヤはやむなく弘前から青森の実家に帰って子どもを生む。つまりは、最初から別居婚

 

志功は、いつか絵が売れるようになったら、かならず迎えに行くから、、、というものの、一向にその時は訪れない。すやすやと寝息を立てる「けよう(きょう)」を蒲団に寝かせ、志功がチヤにと置いていった『白樺』のゴッホのひまわりを見つめ、まだかまだかと、、志功の迎えの日を待ちわびるチヤだった。

 

そして、志功の作品が3年ぶりに帝展に入選。チヤは、ようやく絵が売れる!いっしょに住める!と心躍らせるのだが、志功からは一向に連絡が来ない。そこに志功から小包が届く。これは、けようのために、父親としてはじめてのプレゼントか?!と胸を躍らせたチヤだったが、出てきたのは色とりどりの木版画だった。。。。文字も書いてある。表紙には、〈星座の花嫁〉。棟方の言葉も綴られていた。チヤは、「これは私たちに送られた花束だ」と思い、息をのんで版画集を胸に抱く

 

そして、、、、しかし、、、、志功から東京へ出てこい、いっしょに暮らそう、、、の言葉は出てこない。しびれをきらしたチヤは、けようを抱いて、押しかけ女房する。いきなり現れたチヤに、志功は、怒るかと思いきや、
よう来てけだ。この子ば連れで。大変だったろ。今日はとにがぐ、よぐ休んでけ」と、暖かかった。はじめての東京、親子三人で眠るはじめての夜。チヤは幸せだった。

 

帝展に一度入選したからといって、簡単に絵が売れるようになるわけもなく、、しばらくは、松木の家の居候ぐらしがつづく。そして、子どものころから視力の悪かった志功は、その視力をどんどん失っていく。しまいには、油絵を書く事が難しいほどまで視力は落ちていった。そして、版画へのかじをきる。松木のアドバイスもあってのことだった。志功の版画は、志功の命のような強さがあった。特大サイズであったり、心の赴くままに掘られた版画は、志功そのもののようだった。

 

そして、志功の作品が柳宗悦の目に留まる日が来る。そこからは、とんとん拍子に志功の作品は世の中に認められる様になり、作品も高値で売れるようになる。とうとう、家族だけで住むすみかも。息子の「巴里爾(ぱりじ)」も生まれる。ただ、そこに戦争の足音が・・・。1936年スペイン内戦勃発。翌年にはゲルニカナチス・ドイツ軍の空爆をうける。1938年ドイツがオーストリア併合。そんな状況ではあったが、松木は画家の憧れの地、パリにへと渡る。日本は盧溝橋事件を発端にして日中戦争が始まり、軍靴の響きはアジア一帯でもたかまっていた。そんな中でも、棟方家では、祝賀会がひらかれるほど、志功の作品は売れるようになっていた。

だが、そのころには、志功の左目は、ほとんど見えなくなっていた。そして、ある日、チヤにそのことをうちあける。「右目も見えなくなるかもしれない・・・」そして、自分に目隠しをしてくれとチヤにたのむ志功。目が見えない状態で、版画に取り組む志功、、、。滑った彫刻刀は、志功の左手をえぐる。血を流す志功。止めようとするチヤをはねのけて、掘り続ける志功・・・・。圧巻・・・。

その作品は、柳に「最高の出来栄え」と褒め讃えられる。

 

戦火は、東京にまでおよんでくる。一家は、青森ではなく、富山に疎開する。家族は、6人家族に増えていた。けよう、巴里爾、ちよゑ、令明(よしあき)2男2女のにぎやかな子どもたちをつれて、富山に疎開する。あとからチヤたちの元へやってきた志功が、版木を東京に残してきたことをしったチヤは、「自分が取りに行く」といって、単身、東京の家に戻る。そこに空襲。。。幸運にもチヤは空襲をのがれたが、家は燃えてしまった・・・・。富山に戻ると、

「おメさの命にも等しい版木を守れねがった・・・。もう、おメさに合わせる顔がねえです・・・私は子どもたちと一緒に、どうにか生きのびます、。だから、おメさもどうかご無事で、、、」と、別れを決意し、がくりと膝をついて志功にあやまるチヤ。

 

「・・・・チヤ子。おメ、何年ワぁと夫婦やってるんだ?
 ったく、わがんねのか?
 ワぁの命に等しいもんは版木では、ね。 おメだ

 

おぉぉ、、、感動の、、、、。。。

なんも、いえね、、、、。

 

そして、物語は、現代に戻り、チヤが志功との思い出を語る場面へ。晩年、ゴッホのお墓を訪れた志功は、なんと、そこで、ゴッホの墓碑銘の「拓本」をとったのだとか。。。

 

志功が今日本にやってきたゴッホの〈ひまわり〉をみたら、なんて言うか?

”ーありがとう。よぉく帰ってきてくれた。

そんなふうにささやいて、くしゃくしゃ、笑う。
たぶん・・・・いいえ、きっとそうだと、私、思います。”

THE END

 

はぁ、、、波乱万丈!
チヤさん、素敵。棟方志功も、素敵。

 

あぁ、じんわり、心温まる物語。

志功が芸術家として成功をおさめたことをしっているからこそ、波乱万丈の人生を安心して読める。チヤさんもすごい。愛する妻の愛に支えられて生きた棟方志功

それにくらべて、、、と言ってはいけないが、ゴッホは、、、、。

 

いつか、私も、ゴッホのお墓に行ってみたいな。テオと並んで眠る、ゴッホのお墓に。

 

原田さん、いつも素敵なお話をありがとう!

読書は楽しい!

 

 

『ゆるい生活』 by 群ようこ

ゆるい生活
群ようこ
朝日文庫
2018年5月30日 第1刷発行
2019年5月30日 第7刷発行

 

図書館でふと目に入ったので、かりてみた。300ページ弱の文庫本。さっと読めそう。

 

裏の説明には、
” ある日突然めまいに襲われ、訪れた「漢方薬局」。 ここから漢方薬を飲むだけでは終わらない、 我慢と忍耐の暮らしが始まる。お菓子禁止、 体を冷やさない、 水分をとりすぎない、 趣味は1日1つ など、 約6年にわたる体質と意識改善の様子を丁寧に綴った実録エッセイ。”と。

 

群さんは、1954年生まれ。本書の始まりは、
”それは突然やってきた。 わすれもしない 2008年の11月、 いつものように、 朝、目が覚めて ベッドの上で体を起こしたとたん、くるくるっと 軽く 目が回った。”

つまり、50代中盤ってころに、体調不良に襲われたってはなし。更年期障害が出てもおかしくない年だし、仕事ができないほどの体調不良ではないので、しばらくそのまま生活していたけれど、不快な日が続く。そして、4日たっても症状が改善しなかったので、友人の紹介で漢方薬局へいった群さん。薬局は、30代半ばに見える女性が経営していて、群さんをみて、症状を聞くと、「大丈夫、病気じゃないから治ります」と。

 

そして、そこから、リンパマッサージ、漢方薬、食事指導などなどによる、体質改善が始まる。

リンパマッサージは、叫び声をあげるほど痛くて、全てはめぐりが悪いせいだと、、、。

群さんは、酒・たばこはやらないけれど、甘いもの好きで、原稿書きなどの仕事をしながら、お饅頭数個ならペロっと一回にたべていたそうだ。
それが、「甘いものは身体を冷やすから禁止」と言われ、、、、忍耐の日々が続く。

 

”何かを我慢しないと、何かを得られない”って。

 

甘いものの誘惑に負けそうになりながらも、体調不良をなおしたいという思いの方が強く、先生に言われる通りに食事、生活を改善すると、徐々に体調をとりもどしていった群さん。よかったねぇ。

 

なんでも、だれにでも共通して、体調に気を付けなくてはいけない時期というのがあるらしい。厄年っていうのも、そういうものだけれど、一年のうちで、土用の日までの18日間は、体調を崩しやすいのだそうだ。

土用というのは、立春立夏立秋立冬の直前の約18日間を指し、夏
の「土用の丑」だけではないのだ。実は、いまこそその土用の期間。 2024年の春の土用は4月16日~5月4日で、5月5日の立夏まで。へぇぇ!!そうだったのか。

 

まぁ、季節の変わり目というのは、とかく体調を崩しやすい。気を付けよう。

 

群さんは、身体に水分を貯め込みやすい体質で、溜まりすぎた水分が、代謝を損ねるのだそうだ。なんでも、成人女性の平均水分量は、45~60%だという。

 

我が家の体重計にも、「水分」がでるのだけれど、気にしたことが無かった。私は、おおよそ54%くらい。実は、水分多めの方らしい。

 

そして、リンパマッサージをうけつつ、水分に気を付ける生活をしていたら、みるみる体重がおちたのだと。身長150センチくらいらしいが、50Kg越えだった体重は、一度落ち始めると、あっという間に48Kgへ。そして、43Kgへ、、、。流石に、50代でそれだけ体重が減ると、やつれて見える、、、ってことで、先生に相談すると、たんぱく源の肉の摂取量が少なすぎる、、、と。そして、お肉を食べる量を増やしたのだそうだ。

 

先生によると、漢方にしても、食事療法にしても、万人にこれがいい、というものはないのだそうだ。バナナは栄養価が高くて朝ごはんにいいというけれど、実は熱帯の植物なので、身体を冷やす作用がある。だから、群さんには向かない、、、とか。漢方薬も、人によって効き方も違うので、処方もことなるとのこと。

なるほどねぇ。

同じことは、低GIダイエットとか、グルテンフリーダイエットにも言えるようだ。

 

いわゆる医者にも、漢方にも、ほとんどお世話になることのない私だが、食の話は興味深い。栄養素の面だけで考えがちだけれど、食だって、人によって合う合わないがある。乳製品、お肉、お魚、、、ダメな人はダメだもんね。

 

ちなみ、私はもともと「白米」をそんなに欲さないのだけれど、かといって、パンやパスタが好きなわけでもない。だから、炭水化物としてお米を選択することが多いのだけれど、張り切ってお米を食べると、たいていお腹がどよーーん、と重くなる。胃が重くなるのではなく、腸が重くなるのだ、、、。私には、白米があまり向いていないのかもしれない。米から作った「酒」なら、めっちゃ合うのに・・・。発酵の力は素晴らしい!

 

面白い話が、漢方の本の中には、「自分の干支と、親の干支の肉は食べるな」という教えがあるそうだ。理由はよくわからないし、食べるとどうなるのかということの説明もないけれど、経験則から言っているのか、、、。

ちなみに、私はそれを守っていることになる。なんせ、私が申年、両親は、辰年に巳年。さるも、辰も、蛇も食わんわ!!だから、私は体調いいのか?!?!

 

また、体調不良の原因で大きいのは、疲労やストレスなのだけれど、実は、「つかわなすぎる身体」というも、体調不良の原因になるのだそうだ。例として、中年の女性で、二人に当てはまったケースというのが、手の関節の腫れという症状。二人とも、素敵なネイルアートをしている。聞いてみると、家事はしているとはいうものの、自分の手をつかった家事をほとんどしていない。料理をしたり、食器をあらうということをほとんどしていない。つまり、手をほとんど使っていなかったのだ。。。

「手袋をしてでよいので、御皿洗いをしてみてください」と言われた女性たちは、まさに、手を使って家事をしたことで、手の関節の痛みは見事に治ったのだそうだ。

そこまで、身体を使わないっていうのもすごいけど、、、、。

ふと手にした本だけど、ちょっと、面白かった。

 

人にはそれぞれ向き不向きがある。
自分に合った、快適をみつけることが、快適な生活の最初の一歩かもね。

そして、体調が良くなったとしても、50も過ぎれば、若返ったのではなくて老化のスピードが穏やかになっただけ、って。

 

無理は禁物。
疲れは貯め込む前に、こまめに休もう!!

 

うん、ゆるい生活で、いいよね。

 

 

『やまなし』 by 宮沢賢治

やまなし
原作 宮沢賢治
絵と構成 武田美穂
理論社
2024年2月 初版 第1刷発行

 

先日、勝沼ぶどう郷にワインとハイキングを楽しみに行った。その時に立ち寄ったワイナリーのひとつが、「くらむぼんワイン」。HP: くらむぼんワイン

 

知り合いのつてで、テイスティングを準備いただき、オーナーであり、栽培醸造責任者である野沢たかひこ社長に、直接お話をしていただいた。また、先代のお父様には、畑や貯蔵蔵の案内をしていただいた。

 

 


こう言っては何だが、甲州とは思えない、、、、美味しい甲州ワインだった。
で、社名の「くらむぼんって何ですか?」って、誰もが思う。そう、あの、宮沢賢治の童話「やまなし」にでてくる「くらむぼん」、だそうだ。意味はない。「くらむぼん」。

そして、「くらむぼん」シリーズのワインボトルは、可愛らしい蟹や魚の絵のラベル。


点描で書かれた白黒の絵は、なんともシンプルでいて、心躍る感じ。最初に呑んで美味しかった「くらむぼんシリーズの甲州」は、なんと、1880円!レストランでも多く使われているらしい。

 

で、わたしは、宮沢賢治の「やまなし」といわれても、ピンとこなかったのだ。

で、図書館で借りて読んでみた。2024年出版という、出来立てほやほやのような絵本を。

 

”ごがつのあるひ。
にひきの かにの こどもが
たにがわの あおじろい
みずの そこで はなしていました。

あおくて くらい みずのてんじょうを、
つぶつぶ あわがながれていきます。
「くらむぼんは わらっていたよ」
「くらむぼんはかぶかぶ わらったよ」
「なんでくらむぼんは わらったの?」
「しらない」

そして、お魚がカニ兄弟の上を通る。
「くらむぼんは しんだよ」
「くらむぼんは ころされたよ」
「くらむぼんは しんでしまったよ」
「ころされたよ」
「なら、なんでころされたんだい」
「わからない」”

と、、、出てきたと思ったら、しんじゃうくらむぼん。

 

結局、「くらむぼん」って何なんだかよくわからなかった。

でも、死んじゃうんだね。

生き物だったのかな?

 

そして、おはなしは、カワセミに食われていく魚をみて脅えるカニ兄弟をお父さんカニが「だいじょうぶだ 心配するな」と語り、川面におちてきた花びらを綺麗だといって眺めるカニ親子で終わる。で、一つ目のお話がおわり、って。

 

つづいて、川に「やまなし」が落ちてきて、美味しくなるのをまつカニ親子のお話。

 

そうか、やまなしって、そういえば、山梨、だったね。梨だったね。

くらむぼんワインさんは、以前は『株式会社山梨ワイン』という名前だったそうだ。

 

そうするとだぞ、、、なんで、山梨県は「やまなし」なんだろう??

気になったから、山梨県のHPを調べてみた。

”「やまなし」の由来は、くだもののヤマナシがたくさんとれたから、山をならして平地にした「山ならし」からきているなどたくさんの説があります。”だそうだ。

 

ま、「くらむぼん」から宮沢賢治。やっぱり、絵本もいいね。

本書は、結構、現代的な絵だった。縁取り線がくっきりしていて、色も割とはっきり。アクリル絵の具とか、マジックとか、、そいういう感じ。

 

お話の内容からすると、もうちょっと、地味な絵も似合いそうだな、って思う。それこそ、白黒の点描で描いたら、めっちゃ大人な絵本ができそう。。。。

 

いつか、絵本、作ってみたい。。

これも、老後の楽しみかな。

 

絵本も楽しい。

 

 

『運動脳の鍛え方』 by 茂木健一郎

運動脳の鍛え方
茂木健一郎
リベラル新書
2023年8月26日 初版発行

 

図書館で、「運動脳」で検索したのか、、、「茂木健一郎」で検索したのか、、、、わすれてしまった。けど、出てきたので、借りて読んでみた。

 

帯には、
” なぜ世界のエリートはひたすら 運動しているのか?
 運動するほど 認知機能が高まり老化も防げる!
 記憶・ 集中・ 想像力が 爆上がり!!

 脳の機能を高めるのは運動がすべてだった!”
とある。

 

うん、まるでジョン・J・レイティの『脳を鍛えるには運動しかない』(NHK出版)のパクリのような本だ・・・。

実際、内容は、ほぼ同じようなことを言っている。
けど、新書なので、コンパクトにまとまっていて、さらっと読める。時々、茂木さん得意の脱線というか、雑学も入る。

 

パラパラとめくってみて、読もうか読むまいか悩んだのだけれど、「はじめに」で、
” 人間にできて AI にできないことは何か”という文字が目にはいり、よんでみることにした。

そう、人間にできて、AIにできないのは、動くこと!

 

目次
はじめに 脳科学的・運動脳のススメ
第1章  なぜ運動が脳にいいのか?そのメカニズムに迫る!
第2章 「 脳ノモビリティ」を高めると仕事も人生も好転しだす
第3章 「運動IQ」が高い人には3つの特徴がある
第4章 集中力・直観力を磨いて自分の夢を具現化しよう
第5章 茂木流ストレス撃退法と強いメンタルの作り方

 

感想。
そうねそうね、運動だよね。
やっぱり、脳を鍛えるには、脳への血流、血流をよくするには運動!!!
だよねーー。
色々全面的に賛同!!

 

しかし、一つだけ、これは私には無理、、、っていうのは、ルーティンの運動として「朝ラン」をしようってこと。

朝起きもいいし、朝運動するのもいいけど、「ランニング」は、やっぱり好きになれないのだ。どう考えても、膝腰に負担かかるし、、、、散歩ならいいけどランはねぇ、、、。精神科医樺沢紫苑さんは、ストレス耐性やメンタル強化に「朝散歩」を断然進めている。血流が上がるくらいの速度、心拍数がちょっと上がるくらいの散歩なら、それでもいいのではないか、と勝手に自分なりに判断。

まぁ、私の場合は、朝ルーティンにしなくとも、週に2~3日は何かしらの運動をしているから、日本人としては運動不足ではないグループに入るように思う。べつに、朝散歩しなくてもね。でも、朝散歩は、確かに気持ちいいし、その日一日の頭の回転が良くなる気がする。
朝の軽い運動は、個人的経験則からもお薦め。

 

「運動不足の生活を送り続けると、脳はどんどん退化していく」って、怖ろしいセリフがでてくる。でも、本当にそう思う。現役で働く70代の知り合いたちは、よく歩くし、良く動く。脳の回転もはやい。

やっぱり、身体を動かすって大事。AIに負けない脳は、身体をうごかしてつくるべし!なんだよね。ほんと、同意!

 

第1章では、運動によって、BDNF(脳由来神経栄養因子)が記憶を司る海馬にいきわたり、脳が活性化することが脳科学として証明された、という話。また、前頭葉も活性化する。受験生にも朗報か?!

 

ここで、脳について復習。

・脳は、大脳、小脳、脳幹 の3つの部位からなる。
・大脳には、前頭葉頭頂葉後頭葉、側頭葉の4つの領域がある。
前頭葉:思考や行動を司る
頭頂葉:知覚や感覚を司る
後頭葉:視覚を司る
・側頭葉:聴覚や記憶を司る

 

人間と動物の大きな違いが、「前頭葉」の発達。脳の司令塔ともいうべき前頭葉が発達しているのだ。

余談だが、先日、アメリカのニュース番組で、コメンテーターがトランプ元大統領の「前頭葉」を見てみたい、なんてことを言って笑いを取っていた。要するに、「思考・行動は制御されてるんかい?!」って。

 

そう、その大事な前頭葉。中強度のランニングを行うと、広い範囲で活性化するのだそうだ。きっと、ランニングじゃなくても、、、中強度の運動ならいいんじゃない?って思う。

で、前頭葉が活性化すると、
・考える 
・判断する
・選択する
・アイディアがひらめく 
・集中する
・感情をコントロールする
という働きが向上するのだ。

 

また、茂木さんは、「英語はスポーツと同じ」と面白いことを言っている。AI翻訳がすすんでも、英語を勉強することのメリットは消えないだろう!って。これは、通訳を生業としている私には、朗報だ。

英語の勉強における、「聞く」「話す」「読む」「書く」という動作は言うまでもなく運動であり、身体性を向上させることができるからです。”って。

 

たしかにね、シャドーイング、音読といった口をつかった英語学習をしていると、滑舌がよくなる。しかも、ボケ防止にもいいってよく言う。

 

第2章ででてくる脳のモビリティーとは、脳を活性化させて、社会の中でどう動いて、誰と会って、何を計画し、何を実行するのか、といった能力のこと。そういう能力をたかめることで、AIに負けない生き方が実現可能。

そして、脳のモビリティーを高めるのは、ルーティンを増やすことで、脳に余力をつくること。また、運動によっても、脳がリフレッシュされて、その余力を生み出すことができる。無意識にできることならば、脳が疲れないっていうのは、わかる気がする。

 

第3章では、「賢い人」のイメージがスポーツマンの時代になったという話から。サッカーの中田英寿本田圭佑、たしかに、賢い。瞬時の判断力を養いつつ、遂行能力も必要とされるスポーツ選手。ボーっとしている人にはムリだね、、、。

 

茂木さんの言う運動IQが高い人の共通点は、
1 出会いを力に変えて活動の幅を広げられる
2 自分の限界を勝手に決めつけない
3 肩書き や組織に依存しない
だそうだ。

 

おっと、これは、結構、私、いけるんじゃない?!なんてね、、、。
こういう、運動IQが高い人の代表として、ヤマザキマリさんが紹介されている。あぁ、いいね、いいね。私もマリさんのような行動力と創造力が欲しい。

 

出会いを力に変えるって、確かに行動力がないとムリ。なるほど、運動IQと関連するかもしれない。

そして、集中力・直観力も、運動で磨くことができるし、それが夢をかなえることにもつながるって。大谷翔平君とかね。

 

最後は、運動とはべつに、ストレス解消法の話に。もちろん、軽い運動がストレス解消になるのはすでに常識になっているけれど、茂木さんお薦めは、「朝ラン」なんだな。残念、こればかりは、賛同できない。

朝散歩しよう!
それなら、いいな。

運動とは別に、茂木さん流ストレス解消に大事なこと
・自分でコントロールできることに集中する
・自分軸で生きる

そうね、これは全面同意!

 

そして、
人生イチかバチか、動いたもん勝ち!”ってさ。 

これも、全面同意!

 

そうなのだよ、あれこれ考えている時間があれば、やってみろ!ってね。

失敗したって、命を失うことが無いなら、何度だってやり直すことはできる。そして、やってみるためには、気力も体力も必要。体力がないと、気力も出ない。

 

やっぱり、体力づくりは、基本である。

 

読書もいいけど、運動もいい。

書をもって街に出よう!!