『孤独の愉しみ方』 by ヘンリー・ディヴィッド・ソロー

孤独の愉しみ方
森の生活者ソローの叡智
ヘンリー・ディヴィッド・ソロー
服部千佳子 訳
イースト・プレス
2010年10月5日 第一刷発行


友人がFacebookにあげていた写真のなかにあり、気になった。
孤独?愉しむ?
いまさら?
もう、充分たのしんでいるけど、、、気になる。

 

図書館で借りて読んでみた。
孤独の規模感が、私のおもう「孤独」とは違った。
サブタイトルに「森の生活者ソローの叡智」とあるように、ほんとに隠居して森にはいってしまったソローの言葉集だった。孤独の愉しみ方というより、人生の愉しみ方、かなぁ。

 

著者の、ヘンリー・ディヴィッド・ソローは、作家、思想家。アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコードに生まれ、16歳の時に奨学金をへてハーバード大学へ入学。大学卒業後小学校の教師などを経て、ウェーデン湖の畔で自給自足の生活を始める。

そう、自給自足にまで到達した人の孤独の愉しみ方。
しかも、16歳でハーバード大学に入学って、どれだけの人なのか。

頭がよすぎて、人間の愚かさに耐えきれず、一般社会を離れて、自給自足生活をはじめたのかな、、、、。

 

本書は、ソローの『森の生活』や『市民の反抗』といった著書のなかから、現代に生きる人にも役立つように、155の名言集として、編集・再構成されたもの、だそうだ。まさに、名言集。
見開き右ページには、ソローの名言が。左ページには、その補足が、という構成。あっという間に読める。1時間のコーヒーブレイクにでも、どうぞ、って感じ。


右ページの言葉を見ただけで、そりゃそうだ、と共感するものから、え??どういう意味?というものまで色々。そうね、それでいいんだよね、って思いながら読むと、心が軽くなるかも。

 

目次
Ⅰ 孤独が一番の贅沢
Ⅱ 簡素に生きる大切さ
Ⅲ 心を豊かにする働き方
Ⅳ 持たない喜び
Ⅴ 自然の教え

 

目次には、さらに1~155、名言すべてが記されている。本文なしで、目次をみるだけでも155の名言に触れることができる。

 

メッセージは、
Simple is the best.
その一言につきるかな。

 

そうだな、、、と強く共感する一方で、自分が行動としてそうできるかは難しいな、、というもの思うものもある。すでにちょっとはそうしているかな、と思うえるものもチラホラ。

別に、そうすべきだ!ということがかかれているのではなく、こういう生き方もある、とい受け止めればよいのだと思う。だれもが、森で自給自足生活できるわけではないからね。
ability(実力)としても、capability(能力)としても。

 

とくに心に響いた言葉をちょっと、覚書。

1 とびきり上等な孤独になれる時間を一日一回持つ。
  どんなに忙しくても、周りが騒がしくても、瞑想で孤独にもなれる。

 私は、一人暮らしで、家にいれば四六時中一人だけど、上等な孤独の時間って、いつかなぁ、、、と、ふと思う。寝る前かな。起きた瞬間かな。。。どっちかの気がする。

 

4 誰にも出し抜かれない生き方がある。それはゆっくり歩くことだ。
  目標さえ見失わなければ、ゆっくりでもいい。ゆっくりがいい。


21 理解できない相手を常識はずれと思うのは、自分が愚かだからだ。

 相手を理解しようと思わない限り、自分のことも理解されない。理解されたいのなら、相手を理解しようとしないといけないのだろう。逆に、本来の自分じゃないように理解されるのも、困ったりする。けど、本来の自分じゃないとおもっているのは、自分のことを自分でわかっていない、、、愚かだからかもしれない。


32 時間を味方につけたいなら、時間のことを忘れるほど何かに没頭することだ。
  心が焦るときこそ、あれもこれもと欲張るより、一つのことに集中しよう、


40 いくつかの失敗で悩むな。人間の可能性はひらかれている。

 失敗も成功も、自分でそうだと思えば、失敗にもなるし、成功にもなる。そもそも、成功の定義も、失敗の定義も自分で決めればいいことだ。
  

56 富がなければ精神的に高いレベルで生きていられる。
  必要以上に持つことは、失う怖れを持つことになる。

 

74 頂点を目指すうちに、自分が自分を奴隷にする奴隷監督になっていく。
  自分をこき使いすぎてはいけない。自分をいたわろう。

 

123 朝を大切にしなさい。朝は活力をくれる。

  そうか、やっぱり、上等の孤独の時間は、目覚めた時の朝かもしれない。


148 歩け、森の中を。歩かない足は、やがて身を滅ぼす。

 歩こう。心の中のモヤモヤがある時こそ、歩こう。
  


孤独には、力がある。
人と比べるな。
人は自然にはかなわない。
だからこそ、自分のできることを、丁寧にして生きる。 

 

そういうメッセージの本。

 

さて、今日は歩きに行こうかな。

五月もあっという間に過ぎていった。

焦るな、焦るな。

目標を見失わなければ、ゆっくりでもいい。

 

『孤独の愉しみ方』

 

『樹木たちの知られざる生活』 by  ペーター・ヴォールレーベン

樹木たちの知られざる生活
森林管理官が聴いた森の声
ペーター・ヴォールレーベン
長谷川圭 訳
早川書房
2017年5月20日 初版印刷

 

先日、NHKのラジオを聞いていて、森の中で木と木がコミュニケーションをとっているという話題のなかで紹介されていた本。気になったので、図書館で借りてみた。

 

『オーバーストーリー』(リチャード・パワーズ)の中にもそのような話が出てきて、ちょっと気になっていた。

megureca.hatenablog.com

木と木のコミュニケーションかどうかはわからないけれども、ユーカリの木は自分の側では幼木が育たないようにしているとか、木が揮発性物質をだすことで虫を避けたりするとか、一般的に言われていることもあるから、お隣の木同志がコミュニケーションをとっていても不思議ではない、という気がしていた。

 

そして、本書を読むと、やっぱり、木ってすごいんだ!と、ちょっとうれしい気持ちになった。ちゃんと、コミュニケーションしていたんだ。周りの木へ、根っこを通じて栄養を届けたりもするらしい。森は木と木が協力しあってできているのだ。森にどっぷりはまってみたくなる一冊。


木は、倒木になってもある意味生きている。
木造建築が数年程度では朽ちていかないのだって、木のすごい生命力だ。

呼吸している。
やっぱり、木ってすごい。
自然ってすごい。
なんだか、自然のすごさに晴れ晴れとした気持ちになれる、そんな一冊。

 

表紙の裏には、
世界的ベストセラーが待望の邦訳。樹木たちの密やかな生活の「真実」が明かされる。

春から初夏には、新緑に心を洗われ、秋には紅葉に目を奪われる。そして色鮮やかな花に癒され、新鮮な空気を与えてもらう。

わたしたちは、樹木とともにあり、様々な恩恵を受けている。樹木は身近で尊い友人なのだ。しかし、どれだけ彼らのことを知っているのだろうか。

樹木たちは子供を教育し、コミュニケーションを取り合い、ときに助け合う。その一方で熾烈な縄張り争いをも繰り広げる。学習をし、音に反応し、数を数える。動かないように思えるが、長い時間をかけて移動さえする。

ドイツで長年、森林の管理をしてきた著者が、豊かな経験で得た知恵と知識を伝える、樹木への愛に満ちた名著”

 

著者のペーター・ヴォールレーベンは、1964年ドイツ生まれ。子供のころから自然に興味を持ち、大学で林業を専攻する。卒業後、20年以上、ラインラント=プファルツ州営林署で働いたのち、フリーランスで森林の管理を始める。本書は2015年にドイツ語で出版。ドイツで70万部をこえるベストセラーに。34か国語に翻訳アメリカでもニューヨーク・タイムズ紙で絶賛され、ベストセラーとなった。

ということらしい。
しらなかった。


たしかに、これは、読んでいて気持ち良い一冊。ベストセラーになるのが、わかる。
著者が、実際の森の中で経験したこと、発見したことが語られている。そこには、樹木への尊敬の念なのか、親しみの気持ちなのか、なにか、心が温まるような感じがする。科学的データに基づいているサイエンスの本というよりは、彼の確かな観察眼に基づいた事実、と言ったらいいだろうか。だから、観察日記のような、、、しかも、何十年にわたる観察の結果、彼がみいだしたもの。そこに、すこし、科学的説明が補足されている。

 

難しい説明で書かれているわけではないので、だれでも楽しく読める一冊。自然がすきなら、樹の不思議が知りたいなら、とっておきの一冊。

 

大木が、どうやって水を木のてっぺんまで吸い上げているのかは、実はよくわかっていないそうだ。たしかに、毛細管現象だけでは、地上何mまでも水を吸い上げることはできない。葉っぱの蒸散作用はあっても、それだけでも説明がつかないそうだ。たしかに、当たり前に大木を見上げてきたけれど、どうやってあんなてっぺんまで水を吸い上げているのか、、、すごい。大木に耳をあてると、水の流れが聞こえるって。ごー--って。

 

木にとって、光も栄養も必要だけれど、何より重要なのが水であり、水と木のなぞは、まだまだ深いらしい。

 

落葉の仕組みについての説明も面白い。
落葉は、木にとっては気候に対する優れた防衛手段だという。葉を落とすことによって、木々は余分な物質を葉っぱに含ませて身体から追い出そうとする。いってみれば、デトックスか?!木にとって、秋から冬にかけて葉を落とすことは能動的な行為であり、冬眠に入る前に済ませておかなければならない。翌年もつかう栄養は、葉から幹に取り込んで、樹木は葉と枝のつなぎ目に分離層をつくり、風が葉を吹き落してくれるのを待つのだと。葉を落とすことで活動期から、休息期に入ることができる。睡眠不足が人間にとって大問題なように、樹木にとっても冬眠期にゆっくり休むことは大事なこと。

すっからかんに葉っぱのおちた落葉樹から、春になって新芽がでてくると、まさに命の息吹を感じる。冬眠しながら、ちゃんと春へのエネルギーを蓄えている。樹木ってすごい。


今年、我が家のベランダでも、すっからかんの枝だけになった薔薇の鉢植えがあったのだが、春になったら、ちゃんと新芽がでて、花が咲いた。うれしくなった。
植物は、えらい。

何も言わず、私たちを喜ばせてくれる。寒い、ベランダでも文句も言わず、、、、。春にはちゃんと芽吹いて、私たちの目を楽しませてくれる。


新緑の季節にワクワクしない人はいないだろう。
あ、、、花粉が、、、という人はいるかもしれないけれど、やっぱり、新緑は目にまぶしい

 

ちなみに、樹木はそもそも睡眠が必要なのか?という疑問を解消するために、24時間光を照らし続けたらどうなるか。答えは、樹木にとってはうれしくない。24時間、光合成をし続けることは樹木には喜ばしいことではなさそうだ。睡眠不足、とでもいおうか。1981年、アメリカのある都市で立ち枯れたナラを調査したところ、その4%は、夜間に点灯している人工の光が原因だったという発表があるという。

 

樹木も、睡眠が必要だし、場合によっては冬眠も必要、ということらしい。
植物も。生き物なのだ。
生き物には、休養が必要、休養が大事。

 

ドイツの森林の話、なんだか、懐かしいような感じがした。

 

子供のころによく遊んでいた実家の裏の森を思い出した。森の奥に、外国人の老夫婦が住んでいた。小学生の私たちには、なんだか怖い外国人だった。だから森の奥まではいって遊ぶことはめったになかった。でも、時々、小川の上流をめざして奥までいっちゃったりして、ばったりおじいさんにあうと、あわてて逃げ出したり。。子供たちの間では、魔法使いなんだとか、色々かってに想像して言っていた。その森は、樹木も美しいが、小川も綺麗だった。小川と言っても、水が表面を流れているくらいで、水底まで簡単に手が届くくらいの小さな水のみち、って感じ。サワガニやドジョウが居たりして、水も綺麗だった。
実はその森は、その夫婦が購入した私有地だった。日本語を話しているのを聞いたことがないし、どこでどうやって生活を成り立たせていたのか知らなかったのだが、あるとき、突然その森が、「ウイトリッヒの森」という名前の市の公園になった。その夫婦は、故郷のドイツの森と似ているのが気に入ってその土地を購入し、自分たちが居なくなった後も森として残してほしいから、という理由で市に譲渡した、ということだった。ご夫婦が亡くなってしまったのか、故郷に戻られたのかは覚えていないけれど、森はそれから30年以上たった今も、「ウイトリッヒの森」として、豊かな緑で私たちの目を癒してくれる。もちろん、小鳥たちの声も。
こわそうなおじいさんだったけど、故郷を懐かしみ、森を愛するひとだったのだ。
なんだか、懐かしく思い出した。 

 

本書の中で、ドイツの憲法の一節が紹介されている。

動物、植物、およびほかの生体を扱うときには、その生き物の尊厳を尊重しなければならない

 

ドイツって、独特の自然と芸術を愛する文化があるのは、ここ、憲法にも表れている。

これは、道端の花をむやみに摘むことだって許されない、ということでもある。著者は、このような考えかたは他の国にの人々にはあまり理解されないかもしれないが、動物も植物も、両者を隔てなく道徳的に扱うことは大切だ、と言っている。

 

森林は、私たちのすぐそばにある自然であり、まだまだ冒険したり、秘密をみつけたり、たくさんのことができる。ドイツも日本も、森林が多いというのは共通だろう。

森林を大事にしないとね。

 

緑に恋焦がれつつ、なぜ、私は今も都市でのマンション生活を続けているのだろう。。。と、ふと思う。

まだ、どっぷり森林につかれない、まだ、まだなのよ。。。

今は、まだ都市でやりたいことがある。

森林は、時々訪れる場所でいい。

でも、大事にしたい、と思う。

 

読んでいるだけで、心が落ち着いてくるようなそんな一冊だった。

コーヒーを飲みながらというより、ハーブティーでも飲みながら、って感じ。

 

やっぱり、読書は楽しい。 

 

『樹木たちの知られざる生活』

 

『戦略がすべて』 by  瀧本哲史

戦略がすべて
瀧本哲史
新潮新書
2015年12月20日 発行
(初出:日経プレミアPULS、新潮45、2014年8月~2015年5月)


図書館で、目に入ったので借りてみた。瀧本さんは残念ながら2019年に47歳の若さで亡くなってしまったのだが、もと、エンジェル投資家。『ミライの授業』(講談社 2016)とか『僕は君たちに武器を配りたい』(講談社 2011)とか、私にとっては星5つ、と思える本を書かれている人。どちらも若者に薦めたい本。

 

Megurecaの中では、『起業の天才! 江副浩正』 by 大西康之、で、瀧本さんのコメントを紹介したことがある。
megureca.hatenablog.com

 

その瀧本さんの2015年の本。

 

表紙の裏には、
”ビジネス市場、芸能界、労働市場、教育現場、国家事業、ネット社会、、、どの世界にも各々の「ルール」と成功の「方程式」が存在する。ムダな努力を重ねる前に「戦略」を手に入れて世界を支配する側に立て。『僕は君たちに武器を配りたい』がベストセラーとなった稀代の戦術家が 、AKB 48からオリンピック、就職活動、地方創生まで、社会の諸問題を緻密に分析。我々が取るべき選択を示唆した現代社会の「勝者の書」。”
と。 

今の私には、”勝者になりたい”なんて野望もないので、ちょっと違うかな?とおもったけれど、2015年の本、瀧本さんの歴史を振り返るような気持で読んでみた。目次に書いてあることだけでも、結構なインパクト。

 

目次
Ⅰ ヒットコンテンツには「仕掛け」がある
Ⅱ 労働市場でバカは「評価」されない。
Ⅲ 「革新」なきプロジェクトは報われない
Ⅳ 情報に潜む「企み」を見抜け
Ⅴ 人間の「価値」は教育で決まる
Ⅵ 政治は社会を動かす「ゲーム」だ
Ⅶ 「戦略」を持てない日本人のために


感想。
うん、やっぱり、勝者をめざす若者に向けた本だ。
時代も、2015年なので、もちろんコロナもないし、この7年間で様々な変化もあったので、斬新さにはかけるけれど、「戦略」とは何かを考えるには、良い一冊。
そして、働くとはなにか、どう働くべきか、ということを考えるには、誰にとっても参考になる一冊だと思う。
やっぱり、瀧本さん、軸がしっかりしていて、思考にぶれがないって感じがいい。


労働市場でバカは「評価」されない、なんて、それを言っちゃおしまいよ、なんだけど、その通り。「バカ」というのは、学校の成績のことではない。社会の仕組み、現代で言えば資本主義のルール、技術革新の未来、などにアンテナをはっているかどうか。現状維持にしがみつき、蛸壷のなかでじっとしているのが、瀧本さんのいうバカ、かもしれない。つまり、変化を恐れるな、ってこと。

 

瀧本さんは、変化を担うのは若い世代、といってパラダイムシフトの話をする。パラダイムシフトは、素晴らしい発見があればおこるのではなく、世代交代なのだと。
世の中の常識が、「天動説」から「地動説」へとパラダイムシフトしたのは、ガリレオ・ガリレイをはじめとする科学者たちが地動説の正しさを証明したからではない。天動説を信じる人がほとんど死に絶え、地動説を信じる人たちへと、世代交代したからだ、と。

これは、まさにその通りであることを、社会だけでなく、会社という小さな組織の中での変革でも実感する。会社の仕組みを何か変えようと思っても、文化として変化するのは10年単位だ。古いやり方のマネージメント層が定年退職で去っていくことで、文化がちょっとずつ変わっていく。焦って変えようとすると、たいていろくなことにならない。不毛な勢力合戦になったり、、、そのしわ寄せは若い世代に降りかかりがち。

だからこそ、世代交代で次の主役になっていく若者が、将来は自分たちが主導してく!というおもいで、年長の責任ある役職の人をとりこんで、その人をたてつつも、実質は自分たちが主導していく「技」を身につけてほしい、と瀧本さんは書いている。

そうなのだ。
まさに、その「技」なのだ。
年寄りは引っ込んでろ、若者の私たちがやる、ではだめなのだ。
のけのけ、そこのけ、ではなく、若者であっても、関係者の協力を得て物事を進める「技」をもつと、ほんとに、強くなれると思う。
瀧本さんのいうところの、「勝者」になれるとおもう。

 

個人的感覚でいうと、年配者だけでなく、周りの人をたてるのがうまい人と言うのは、家族や両親を大事にする人が多い。あるいは、多様な世界を持っている人。
おべっかということではない。本当に、仲間を巻き込んで牽引していく人。
人の強みを見出す能力も「技」の一つかもしれない。

そして、若者よ、確実に世代交代はくるのだ。
だから、あせるな!
君たちの時代は、何をしても、しなくても、やってくる
だったら、自分の目指す社会にするために、今できることをすればいい。

 

若者だけの世界も、ある意味蛸壷だ。だれもが年をとるのだ。若い時から年寄りと付き合っておくのも悪くない。年寄りは年寄りで、若者とも付き合った方がいい

 

心地のいい世界、意見の合う人としか付き合わないと、自分の世界は狭くなってしまう。「みんな同じ意見だ」という世界につかっていると、「私の意見は正しい」と勘違いしてしまう。

会社もそうだ。自社の常識は、他の会社の非常識。我が家の常識は、他の家族の非常識。

どっちが正しいとかいうことではなく、多様なのだということが当たり前と思える環境に普段からいれば、視野狭窄にはなりにくい。

アラン・ブルームの「教養の一つの機能は、他の考え方が成り立ちうることを知ること」という言葉が引用されている。
多様な人々と付き合う事。多様な情報に触れること。それが本当の教養を身に着けること。
インターネットの情報は、すでにアルゴリズムで私たちがクリックした情報関連に絞られている。だから、ネットだけに情報源を頼るのは危険だ、とも言っている。
つよく、共感。

視野を広げるには、旅、本、が本当は一番よいのだよなぁ、と、つくづく思う。
2022年こそ、自由に旅ができますように。


政治は社会を動かす「ゲーム」だ、では、資本主義の本質が語られる。資本主義は、資源配分の効率を高めることで「全体」のパイの拡大に最適化されているが、そのプロセスで「全員」がうまくいくわけではない。むしろ、優勝劣敗によってシステムを新陳代謝させて全体効率を高めているのだと。規制緩和によって、「勝ち組」と「負け組」の格差を拡大させる一方で、財政を通じて所得再配分を行う。
たしかに、そういうことだ。
そして、大事なことは、所得再配分を行う際、それは企業の敗者をすくうのではなく個人を救うべきだと。大賛成!!!
公的資金投入で、倒産を免れた会社は沢山あるけれど、本来、淘汰されるべき社会で、必要とされるものを生み出せなくなった会社を公的資金で守るのは、違うだろう、、と思う。
いわゆる、ゾンビ会社を生み出すことは、一時には失業者を出さずにすむかもしれないけれど、、、。
瀧本さんは、淘汰されるべき会社資金を投入するのではなく、その企業につとめていた「失業者」に対して、新しい雇用を提供できる「新規企業」が生まれるようにする、あるいは失業期間に生活費を給付するなどの形で支援をする必要はあるが、淘汰されるべき企業を支援するのは全体の効率を下げるので好ましくない、と言っている。

 

企業も、個人も、コモディティ化してしまうと、競争力がなくなり、淘汰されていく。テクノロジーの進化のスピードに合わせて、自分もスキルアップしていかないと、気が付くと自分がコモディティになってしまう。負け組になりたくなかったら、常に自分をブラッシュアップしていけ、っということなんだろう。
まぁ、それも、なんだか、しんどそうな世界だけれど、人間の本質として自己実現への歓びがあるのだから、楽しんでスキルアップすればよいのだよね、と思う。


そして、コモディティ化ということでは、政策のコモディティ化も進んでいるという。どの政党も同じようなことを言っているので、政党を差別化するためにはよりニッチな極端な政策を選ぶしかなくなってきている、と。
原発反対だけを訴える党とか、NHK批判だけを訴える党とか?!?!あ、この本のころには、NHK党は存在していなかったか。瀧本さんが生きていたら、何と言ったか。
そして、人々は、政党のかかげる政策よりも、イメージで選ぶようになっていく、、と。
たしかに、年々、選挙で悩むようになっている気がする。
どこに投票したいか、というより、どれがましか、、、、と。

 

最後に、”Ⅶ 「戦略」を持てない日本人のために”から、瀧本さんのまとめを覚書。

・「戦略で勝つ」とは横一列の競争をせず、他とは違うアプローチを模索すること。
・日本の組織の多くは、意思決定能力の低い人が上に立つ構造になっている。
・理論や手法を学ぶだけでなく、「実践」の場を何度も経験することが重要。
・ 日常的に身の回りのことを「戦略的思考」で分析する習慣を身につけよう。

 

ちょっと、最後にまとめに飛躍してしまったが、やっぱり、自分の頭で考えて、行動することだ。上の言っていることが正しいとは限らない。言われたこと、聞いたこと、読んだこと、なんでも一度はそのまま受け止めて、自分のあたまでちゃんと考えてみる。それが大事だと思う。

 

人生の戦略は、年単位で。
年単位の戦略は、月単位で。
月単位の戦略は、一日単位で。
そして、一日の戦略は時間単位で。

毎日ではなくても、時々、そうして考えてみれば、自分の時間は豊かになっていく。
戦略というと、難しそうだけど、
自分の時間を何に使うか、それを考えるのが一番大事

それこそが、人生の戦略。

人と比べる必要もなければ、競う必要もない。

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。
それが、戦略の一つだ。 

 

そう、やっぱり、

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

 

『戦略がすべて』

 

『たゆたえども沈まず』 by  原田マハ

たゆたえども沈まず
FLUCTUANT NEC MERGITUR
原田マハ
幻冬舎
2017年10月25日 第1刷発行 

(初出「パピルス」2014年12月号~2016年8月号、「小説幻冬」2016年11月号~2017年9月号 。
この作品は史実を元にしたフィクションです。架空の人物に特定のモデルは存在しません。)

 

史実というのは、フィンセント・ファン・ゴッホとその弟の生涯のこと。そして、架空の人物というのは、本書に出てくる美術商の日本人のことだと思われる。本書は、ゴッホとその弟テオドロスのお話。

 

Amazonの紹介文を引用すると、

”誰も知らない、ゴッホの真実。

天才画家フィンセント・ファン・ゴッホと、商才溢れる日本人画商・林忠正
二人の出会いが、〈世界を変える一枚〉を生んだ。

1886年、栄華を極めたパリの美術界に、流暢なフランス語で浮世絵を売りさばく一人の日本人がいた。彼の名は、林忠正。その頃、売れない画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、放浪の末、パリにいる画商の弟・テオの家に転がり込んでいた。兄の才能を信じ献身的に支え続けるテオ。そんな二人の前に忠正が現れ、大きく運命が動き出すーー。『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』の著者による
アート小説の最高傑作、誕生!”

と。

 

原田マハさんの『フーテンのマハ』で、ゴッホが好きになりすぎて、ついには、ゴッホ終焉の地、オーヴェル=シュル=オワーズにも足を運んだ、という話が出てきた。

megureca.hatenablog.com

原田さんは、もともとはそんなにゴッホが好きではなかったけど、ゴッホが貧しさと精神が蝕まれていく中でも、どれほどの情熱をもって絵を書き続けたのか、ということを知ってからは強く惹かれるようになったという。

 


私も、ゴッホの絵はそんなに好きな方ではなかった。SOMPO美術館で、1987年におよそ53億円で当時の安田火災海上保険が購入した「ひまわり」の実物を見た時にも、53億円!という値段ばかりに気を取られて、あんまり感動する感じではなかった。ガラスケースの向こうで、比較的小さなキャンバス。たしかに、ひまわりの太陽いっぱいの元気な感じと、普通の人ではこうは描けないという感じに、感動した。でも、好き、って感じではなかった。
だけど、本書の装丁になっている〈星月夜〉のような、青っぽい絵を別の展覧会で見た時に、うわぁぁぁ、、と吸い込まれるような感動を覚えた。好き~~~って感じじゃないのだけれど、目が離せなくなる感じ。見る機会があるなら、全部見たい!っていう感じ。やっぱり、ちょっと、好きなのかも。

 

本書は、あの強烈な絵を描くゴッホがどういう経緯で画家になり、どうして弟のテオが兄の金銭的面倒をみつづけることになったのか、そして、ゴッホが拳銃で自殺した後、それを追うようにテオまでなくなってしまう、、、そういういきさつのお話。そこに、原田さん得意のフィクションが重なり、浮世絵をパリにひろめた日本人画商が登場する。そして、その日本人こそがゴッホの才能をみいだした一人であるという物語。

 

原田さんの『風神雷神』もそうだけれど、実在した画家とその画家にまつわるエトセトラ、どこまでが史実で、どこからがフィクションなのかわからなくなってくるのは、そのストーリーが本当に起きたことかのような、生き生きとした描写、そしてそうであってもおかしくないだろうと思えるような歴史的背景が、しっかりしているからだ。

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原田さんのこの手の小説は、本当に面白い。
絵画が好きな私には、たまらなく面白い。

ゴッホだけでなく、印象派がまだアカデミーに芸術として認知されていなかった頃のパリが、ちょっと身近に感じられるような、そんな一冊。

どこまでが史実なのか、わからないけれど、史実かどうかなんて、どうでもいいか、という気になってくる。

 

本書のストーリーは、最初は、1962年のオーヴェール=シュル=オワーズが舞台。そこで日本人のゴッホ研究者が言葉をかわしたのが、実は、ゴッホの弟テオの息子フィンセントだった、という設定。読者だけが、そのことを知る。その男がうっかり川に流してしまった手紙の文章で。

手紙には、
”1890年1月11日 パリ
親愛なるテオドルス

あなたのお兄さんの絵を、いずれ必ず世界が認める日が訪れます。
強くなってください。私もこの町で、ジュウキチとともに闘っています。

あらん限りの友情をこめて
ハヤシ タダマサ”

 

それは、彼が幼いころに他界した父親の遺品の中にあった手紙だった、と。


そして、舞台は、1886年のパリへ。
加納重吉が、学校の先輩であり、いまではパリで美術商をしている林忠正を訪ねるところから始まる。パリに憧れ、フランス語を猛勉強してパリにやってくる。絵画が得意なわけではなかったのだが、林に鍛えられて一緒に画商を営む。
そして、同じくパリで美術商をしているテオを通じて、その兄、ゴッホの作品にであう。粗削りで、まだまだ、美術界にはその価値を認められていなかったゴッホだったけれど、重吉も林も、ただならぬ何かを見出す。
あちこち放浪していたゴッホは、お金はない、酒は飲む、どうしようもない兄だったけれど、テオは兄の才能を信じてゴッホを支援する。そして、そのテオを支えたのが日本人二人だった、という話。
浮世絵を愛し、日本にいきたいというゴッホに、フランスの中にあなたが行くべきところがあるはずだ、といって、アルルへ行くことをすすめたのは林で、ゴッホゴーギャンとうまくいかなくなって、耳を切った話、そこへ駆けつけるテオと重吉と林、、と史実とフィクションが入り混じる。

 

ゴッホの最後は、拳銃で自分の頭を撃ちぬいた自殺だったけれど、物語の中ではその拳銃は、もともとはテオのものだった。そのテオは、自分の息子にフィンセントと名付けるほど兄を最後まで愛して、兄を追うように逝ってしまう。
ゴッホ37歳、テオ33歳の生涯だった。

 

物語の最後は、テオの妻がまだ価値の認められていないゴッホの作品をすべて相続し、夫が信じたようにゴッホの才能を信じて、これから幼いフィンセントと生きていこうとする姿が描かれる。

印象派の多くの画家たちは、その生涯のうちには才能を認めてもらえず、苦労の日々をおくった。その時代のパリを感じられる、そんな作品。絵の世界にどっぷりつかれる感じ。面白かった。

一気読み。

 

また、『風神雷神』でもそうだったのだが、本書でも海外で活躍する日本人が、その土地の言葉をどれほど一生懸命学習したのか、という話が出てくる。
やはり、その土地の文化を深く理解するには、その土地の言葉を理解することは大事なんだなぁ、と、絵画とは違うテーマも感じてしまった。

 

絵の世界、日本と外国との交流の世界、言葉の壁、文化の違い、色々なテーマが潜みつつ、原田さんの絵の愛情あふれる一冊。実際の作品に会いに行きたくなる、そんなお話。まさに、アート小説だ。

 

タイトルにある、たゆたえども沈まず、そして、FLUCTUANT NEC MERGITURとは、パリを流れるセーヌ川のことだ、と話の中ででてくる。しばし、増水して氾濫しても、また元に戻る。シテ島も、沈まずいつまでもそこにある。そういうこと。

人生も、たゆたえども沈ます。

沈んでも、かならずまた水面に顔をだす。

そういうもの。

人生は、川の流れのように、ってね。

 

やっぱり、読書は楽しい。

 

『たゆたえども沈まず』

 

『キネマの神様 ディレクターズ・カット』 by 原田マハ

キネマの神様 ディレクターズ・カット

原田マハ
文藝春秋
2021年3月25日 第一刷発行

 

まさかまさかの、小説から映画、映画からノベライズ、、、という、聞いたことのない繋がりの本。
文庫で『キネマの神様』を読んだ後に、図書館で原田マハさんの単行本の棚をのぞいていたら見つけたこの一冊。

megureca.hatenablog.com


あら、ディレクターズ・カットって、どういうこと??
とおもったら、小説〈キネマの神様〉を原作とした映画〈キネマの神様〉を原作とした小説〈キネマの神様〉を書いたということ。

 

本書のまえがきに「歓び」というタイトルで原田マハさんのコメントがある。
もともと『キネマの神様』は、原田さんのお父さんをモデルにしたお話だったという。ギャンブル依存症で、映画好き、という丸山郷直・まるやまさとなお「ゴウ」のモデルは、原田さんのお父様だったのだと!こりゃびっくり。
で、そのお父さんをモデルにした、壊れかけた家族を映画が救う奇跡の物語が、『キネマの神様』小説編。
そのお父さんは、『キネマの神様』の出版後、これは俺のことなんだと、友人に吹聴して、自慢して回ったらしい。そして、91歳で亡くなったとき、原田さんが棺の中にこの一冊の文庫本をしのばせたほど、お父さんの本だった。


そして、お父さんが亡くなったその翌年、原田さんは、原田さんにとってまさにキネマの神様である山田洋次監督との出会いに恵まれる。そして、「僕だったらこういうエンディングの映画にしたい、、、」と監督は語り始め、一年以上かけて脚本ができあがる。山田監督は、脚本は原作からあまりに大きく変更しているので、原田さんがこの脚本での映画化を認めてくれるのか心配だったという。でも、原田さんは読んですぐに気が付く。たしかに、大幅に変わっている。でも、原田さんが描いた、二つのエッセンス、映画愛と家族愛が抽出されて深められている。
原田さんは、もちろん、映画化を快諾。そして、2020年パンデミックの中、、、主役だったゴウを演じていた志村けんさんが撮影半ばでコロナに倒れてしまう、、、、。
と、そんな障壁を乗り越え、志村さんの盟友、沢田研二さんがゴウを演じたのが、映画、キネマの神様。
それのノベライズが、本書、『キネマの神様 ディレクターズ・カット』。

 

いやぁ、その、いきさつがすごい。面白い。楽しい。


映画はみていないけれど、原作からこれだけ大幅に変更してしまえば、まったく違う話の様でいて、、、でも、やっぱり、映画の神様、キネマの神様の物語だった。

にしても、こんなに違っていても、映画のロールには、「原作 原田マハ」ってなるんだ、って感心。。。

 

感想。
面白い。

原作をそのまま映画にするのは難しいかもしれない。が、これはいかにも映画向きだ。というか、映画からのノベライズなんだから、そりゃそうだ。

原田さんの原作を、こういう映画にしたてる山田監督もやっぱりすごい。

 

原作は、主人公は歩(一家の一人娘)で、家族の中では独身の元大手企業管理職娘からの視線の話。
ディレクターズ・カット版では、主役が歩の父ギャンブル依存症のゴウになる。79歳の男の視線。でもって、歩は一人息子を抱えて実家に出戻った娘。母親の描かれ方も、ゴウとの出会いのなれそめが詳しく、夫婦愛の色が濃い。

 

原作では、ゴウの映画ブログを、「映友」社長の引きこもり一人息子が世の中におくりだすことが軸に話が展開されていくが、ディレクターズ・カット版では、歩の息子が引きこもりの設定で、おじいちゃん・ゴウが昔手掛けた脚本を脚本コンテストに応募して映画化をめざす、というお話。ゴウは、昔映画監督をめざしていた、という想定だ。

歩とゴウ、そして、名画座テアトル銀幕が舞台になる設定はかわらない。

ブログバトルの話が、映画脚本バトルになっている。

 

いやはや、ほんとに、原作から、これをつくった山田監督もすごい。
そして、監督の脚本を、こうして一冊の小説にしてしまうのもすごい。

うん、面白かった。

 

やっぱり、読むなら、『キネマの神様』を先に読んで、それから、『キネマの神様 ディレクターズ・カット」の順番だろう。私は、その順番でこれらの本に出会えてよかった。

原作では、「ニュー・シネマ・パラダイス」がとっておき映画として取り上げられているが、山田洋二監督は、小津安二郎監督の「東京物語」がひとつのキー映画に。さすが、邦画の神様?!?!「東京の物語」というタイトルで小田監督の、、とフィクションになっているけれど。

 

歩の孫が、名画座の主、テラシンからもらった、ゴウが50年も前に書いた脚本を、「現代風にアレンジしよう」というあたりは今っぽくもあり、時代を感じる。

 

わたしは、別に山田監督のファンでもなかったのだけれど、あらためて、寅さんシリーズでも見てみたくなった。

 

原田さんのお父さんの言葉が、そのままゴウの言葉になっている。

人生でわからないことがあったら、映画を観ろ。答えはぜんぶ、映画の中にある。

映画愛にあふれまくっている。 

ほんと、そうかもね。

 

そして、やっぱり、映画をつくるひとって、最高のエンディングを考えて、それからお話をつくっていくのかな、なんて思った。

 

映画、キネマの神様も、いつか観てみようかな。

コロナですっかり映画館から足が遠のいてしまったけれど、やっぱり、映画も好きだ。

最後に映画館で見たのは、「ドライブ・マイ・カー」かもしれない。

あの最後のシーンだって、人によって様々に解釈されている。

そして、その感想を語り合うのも映画のたのしみ。

小説もそう。

結局、いいじゃない、好きに解釈すれば、って思う。

 

色々あって、それでいい。

映画も、本も、人生も。

 

『キネマの神様 ディレクターズ・カット』

 

禅の言葉: 無と放心、理と事

今朝、教えていただいた禅の言葉。

無と放心 理と事


坐禅で、無になるというが、無を突き抜けると放心、心を放つ、という働きになってくる。

 

禅の言葉で、「理(り)と事(じ)」という言葉がある。
「理」というのは、道理のことで一つの心理。
その働き、現実の働きを「事」という。

 

江戸時代初期の徳川幕府・剣道指南役だった柳生但馬守へ、沢庵禅師が禅の心を指導した言葉をまとめた書簡集・「不動智神妙録」にある言葉をひとつ。


剣を構えて、心を相手に置けば相手に心を取られ、
心を自分の剣に置けば、そこに心を取られ、
目に置けば目にとられ、足に置けば足にとられ、
心が止まるとそこに意識が固まって自由度を欠き、
相手に一本取られてしまう。


「放心」、心はどこにも置かず、
すべてに働くように、のびやかにしておくこと。
こころを放れる。

 

坐禅では、丹田に力をいれて、呼吸に集中する、と言われるが、集中の先、集中を突き抜けたところに、集中をやめて、心を全体に広げるという働きが必要、ということ。
 
理(無とか空というこころの道理・精神世界)は、事(現実の働き=技)となって出なければ、本物ではない。
体と用との関係でもある。
「無」の働きはこころを止めない「放心」が大事。  
 
そうなると、
間髪を容れず: 人の打ちこんできた太刀に心を止めない
石火の機: こころを止めないから早い
 となる。

 


「思はじと思うも物を思ふなり、思はじとだに思はじやきみ」
 
急水上に胡藘子(ころす=ひょうたん)を打つ、念々不停留。


流れの急な川、滝のしたにひょうたんを置くと、ひょうたんは流れにそってぱっぱぱっぱと転換する。そのような、心の状態。一つ一つの念にこだわらないということが、働きとして大事。

 

う~~ん、今日の言葉は、なんだか上級編、って感じだ。

ただ、無になれ、ではなくて無の先放心になれ、と。

 

時がたつのも忘れるくらい、無になると放心するのか。。。

よくわからない。

けど、わからないなりに、今日も坐ってみる。

 

継続は力なり、っていうからね。

続けてみよう。

何事も。

 

 

 

『キネマの神様 The Name above the Title』 by  原田マハ

キネマの神様
The Name above the Title
原田マハ
文春文庫
2011年5月10日
(単行本 2008年12月 文藝春秋刊)

 

原田マハさんの本だから読んでみた。文庫本で簡単に読めそうだからと、図書館で手にした本。
2020年、同じタイトルの映画の撮影途中に、志村けんさんがコロナに倒れてしまう、ということがあったが、本作とは関係ない物語のようだ。
映画を愛する人の物語、という点では一緒なのかな、、、
と、思ったら!!なんと、やっぱり、山田洋二監督は、本書を読んで映画を作ったのだそうだ。そして、あまりに内容を変えて映画化する事を原田さんが了解してくれるのか不安だったものの、原田さんが快諾してくれたのだと。
その逸話は、『キネマの神様 ディレクターズ・カット』に詳しい。私は、偶然、『キネマの神様』を読み終わった後に、『キネマの神様 ディレクターズ・カット』をみつけてしまったのだ。キネマの神様に呼ばれた気がした。これはまた別途、覚書にする。

 

本書裏表紙の紹介文には、解説をかいた片桐はいりさんのコメントが引用されている。
”39歳独身の歩は突然会社を辞める、が折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が発覚した。ある日、父が雑誌 「映友」 に歩の文章を投稿したのをきっかけに、歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。”映画の神様”が壊れかけた家族を救う、奇跡の物語。 解説・片桐はいり
と。

 

感想。
おもしろい!
いけー-!がんばれー-!と、応援したくなる。そして、ちょっぴり悲しい。でも、ハッピーエンド。ストーリーは、片桐はいりさんの解説通りで、ホントに奇跡の心温まる物語。


これは、映画好きにはたまらない物語。色々な映画の話がでてくる。なんせ、主人公、歩は元大手ディベロッパーで都市型シネコン開発を手がけていた映画好き。そして、その父親はギャンブラーだけれど、戦中満州にいた時に映画に目覚め、79歳でも名画座「テアトル銀幕」に通い続ける、筋金入りの映画オタク。そして、映画ブログにおける映画愛バトルが展開される。そんなお話。

 

私も、名画座には、高校から大学のころ、よく行った。なんせ、2本立てやら、3本立てやら、、一回中に入れば、どれだけ長時間でも中に居座れた。映画の中身より、あのまったりとした空間、居眠りしてしまってよく内容を覚えていないのだけれど、なんだか満足するあの感じ。結構好きだった。

 

以下、ちょっとネタバレありつつ、感想と内容の覚書。

 

私が本ストーリーに共感を覚えるのは、主人公、歩(あゆみ)の経歴にもある。元大手企業の管理職。自慢の娘だったはずなのだが、身に覚えのない濡れ衣で仕事を干されて、会社を辞めてしまう。自分がすすめてきたプロジェクトが、他の人に乗っ取られてしまう。。。左遷されてまで会社に居座るより退職を選んだ歩。先は何も決まっていないのに。歩は、なぜやめたのかは両親に詳細を伝えたわけではないけれど、やめたことをなかなか言いだせないでいるくだりが、ちょっと、その気持ちわかる、、って感じ。

共感をおぼえるのは、会社の辞め方ではなく、立派な肩書をなくしたことで両親にもうしわけなくおもっている歩
私の場合、50過ぎまで働いたし、両親も「好きにすればいい」と退職に対してなにも反対しなかったのだけれど、やはり大手企業の部長という肩書を、ぽいと捨ててしまうことに、ちょっと両親に申し訳ないような気がした。両親は、まったくそんなこと思っていないかもしれないけど。私の心の中の逡巡は、本当は自分でも怖かったのかもしれない。肩書をなくすということが。フーテン2年もしていると、もう、肩書なしが当たり前だけど。

人がどう思うか、ではなく、自分は何がしたいか、の方が大事だしね。
サラリーマンをやめると、肩書は瞬時になくなるけれど、重ねてきた経験は無くならない。
つくづく思う。
肩書なんて、幻想みたいなものだ。肩書をいつでも捨てられる人は、きっと、強い。


そして、会社をやめた歩は、自分の書いた映画愛あふれる文章から、映画関係のライターの仕事への縁ができて、無事に無職を抜け出す。
やっぱり、自分が好きなことで仕事ができるって、いいことだなぁ、と思う。この話の展開、好きだ。
がんばれー、歩!!って感じ。

 

物語の中心は、歩の父親(丸山郷直・まるやまさとなお)が映画ブロガーになって活躍することに移行していく。歩の務める会社「映友」の社長の一人息子、興太が、引きこもりのパソコンオタクで、ブログを管理していた。その息子の目に、インターネットが何かもよくわかっていなかった父の投稿が目に留まり、そこから縁が繋がっていく。父親は、自分の映画愛と共に、歩のかいた文章をそこに綴ったのが、歩が「映友」で働くことになるきっかけだった。そして、歩の父、「ゴウ」の映画ブログを「キネマの神様」というタイトルで興太が大々的に売り出す。映画の低迷とともにこのところ経営悪化していた「映友」にとっては、「キネマの神様」は、再起復活のきっかけにもなっていく。

また、不本意な形で会社をやめた歩には、ちゃんと心の通じる後輩もいた、という設定もいい。後輩の清音は、歩が会社を辞めた後、会社のやり方に反感をもったこともあって、会社を辞めてアメリカの恋人のところへ駆け落ちのようにいってしまう。歩と同様に映画が大好きだった清音は、アメリカで「キネマの神様」をみて、「ゴウ」は歩ではないかと思って、歩に問い合わせる。正直に、父親だ、と伝える歩。
そして、清音は「キネマの神様」のブログを英語に翻訳することを提案する。

そして、「キネマの神様」ブログは、英語にしたことでアメリカでも爆発的人気となり、ブログ上でのゴウとローズ・バッドと名乗るアメリカ人とのやり取りが大人気となる。

今回は、ネタバレはここまで。もっともっと楽しい展開が進む。ゴウとローズ・バッドの友情にも展開。

 

大手企業をやめた娘。
ギャンブラーでダメ男だけど映画愛にあふれる父親。
ダメ夫だけど、ついつい面倒をみてしまう母親。
先輩の歩を慕って、翻訳を申し出る後輩。
引きこもりの社長息子。
一人で名画座を経営する、これまた映画オタク男。

だれもが、いいキャラなんだなぁ。

 

そして、本書の最後にある、片桐はいりさんの解説もいい。
みんな、映画愛にあふれている。

 

映画も小説も、作者は描きたいものはあるワンシーンだけで、そのための修飾が99%なのかもしれない、なんて思った。

そして、映画も小説も、それをどう解釈するかは観客や読者にゆだねられている。
だから、楽しいのかもしれない。
正解なんかない。
不確実性を楽しむというのか。

どう解釈しようが、自分次第。

それが楽しい。

 

本書には沢山の名画がでてくる。
でも、やっぱり「ニュー・シネマ・パラダイス」。
もう一度観なおしたくなった。

 

小説は、世界を広げてくれる。

自分なりの解釈が要求される分、ちまたにあふれる自己啓発本より、よほど頭をつかうかもしれない。なんてことに気が付く今日この頃。

 

やっぱり、小説もいいね。

読書は楽しい。

 

『キネマの神様』