「草原の国キルギスで勇者になった男」 by 春間豪太郎

「草原の国キルギスで勇者になった男」

春間豪太郎 著

2020年10月30日

新潮社

 

春間豪太郎さん。本に書かれている紹介によると、

1990年生まれ。大学時代、行方不明になった友人を探しにフィリピンに行って以来冒険家として開眼。主なスキルは語学(英語、フランス語、アラビア語、ロシア語他)、船舶衛生管理者、気象予報士、小型船舶1級、応用情報処理技術者、歌舞伎町などでのキャッチ経験により身につけた交渉力、キックボクシング。好物は卵。

 

知人が読んでいて面白そうだったので、図書館で借りてみた。

 

冒険物語としては安心して読めるタイプのノンフィクション。 春間さんは、冒険は動物と一緒にすることを一つの楽しみにしているらしく、如何にその動物の健康を守るかということをきちんと勉強してから旅に出ている。また紹介文からもわかるように気象予報士を取っていたり、自分で自分の身を守るための勉強をきちんとしてから冒険に出ているから、何となく安心して読める感じ。

 

今回は、馬、犬、羊との旅。

あらためて、キルギスの場所を地図で確認してみると、北にはカザフスタン、西にはウズベキスタン、南にはタジキスタン、そして、東は、新疆ウイグル自治区。大陸の砂漠の合間の山と湖の国、と言った感じ。場所によっては、治安の悪いところもあるようだけれど、優しいキルギス人もたくさんいるらしい。

冒険旅行のだいご味は、やはり、その土地の人たちとの交流だろう。

客人がくれば、その場で羊を一頭解体してごちそうしてくれるとか。

冒険物語では、食事の話はよく出てくるけれど、春間さんの場合は、生卵が好物らしく、地元の人は食べない生卵でも、こよなく愛している模様。たしかに、旅の途中の栄養補給には、卵は完全食だ!けど、生じゃなくても、、、とかおもっちゃうけど、加熱する設備がなければ、そりゃ、生よね。生肉はさすがに食べないけど、生卵なら、確かに食べられる。なんだかんだ、サルモネラにあたったことは無いとのこと。あるいは、あたっても、吹き飛ばすくらいの免疫力があるのかもしれないけど。

 

冒険そのものの話というよりも、なぜそういう準備をしたのか、とか、トラブルが起きた時に、何に基づいてどう考えて行動したのか、という話が面白い。 

旅の仲間である馬や羊が、調子が悪くなった時、自分がどうしたいかよりも動物の健康を一番に考える。そしてその動物がなぜ調子が悪いのかをきちんと調査分析できる力。

片脚を引きずり始めた相棒の馬。どうやら、脚の内側に傷を負っている。街に立ち寄って、治療の時間をとる。傷は、みるみる回復していく。でも、そもそも傷の原因になったものがわからない。でも、よくよく観察すると、蹄鉄の留め具が微妙に飛び出ている。たくさん歩いている間に、蹄鉄そのものは悪くなっていないけど、留め金が緩んで飛び出し、もう一方の脚にあたっていたらしい。

よく観察するって、大切。

そして、何事も、治療という対応よりも重要なのは、その原因を取り除くこと。

大事。

 

間違えたと思ったときに、道を引き返せる勇気。

無茶はしない。

すごいなぁ、 と思った。

 

自分で考えて行動できる判断力を養うための、勉強。

何をするにも、そういう準備が一番大事なんだと思う。

身に着けた知識は、裏切らない。

 

アリストテレスの言葉を借りれば、

「教養は幸運な時には飾りとなるが、不運のときは命綱となる」

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まさに、旅のトラブルは、教養が、知識が自分の身を守ることにつながる。

 

人生も、長い時間の旅みたいなものだ。

やはり、自分の頭の中に蓄積していく知識は、何よりの財産だ。

知識があるから楽しめることもたくさんある。

 

言語は知らなければ読めない。

翻訳本の原書を読もうと思うと、その言語を知らないと読めない。

世の中は、未知にあふれている。

 

歳をとると、新しい経験が減るなんていうのは、嘘だ。

新しい挑戦をしている間は、常に新しい経験がたくさんある。

 

50歳を過ぎて、何かの勉強をしていると、

それ、仕事になるの?とか、

なぜ、挑戦するの?とか、

聞かれることが多い気がする。

お金にならないものは、勉強しても仕方がないと思う人も、世の中にはいるようだ。

でも、自分の人生を楽しむための学びはたくさんある。

オリンピックを楽しむのには、競技のルールを知ることも必要だろう。

 

健康に関する学びもそうかもしれない。

人生100年時代、健康で楽しく過ごすには、

健康に関する知識も必要だろう。

病気になってから治療するより、未病対策。

健康で病院知らずでいられるほど、経済的なことは無い。

金銭的にも、時間的にも。

 

ぼーっとしてないで、勉強してみよう。

ま、たまには、ぼーっとすることも必要だけどね。

バランス、バランス。

 

いい塩梅で行こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小我と大我」 禅の言葉

小我と大我
しょうがとたいが

 

今日教えていただいた、禅の言葉

 

Small I と Big I

小さい自分と、大きい自分。

 

さて、その意味は?

 

 

お釈迦様は、生まれた時に七歩歩いて、一本の指で天井をさし、一本の指で床を指して、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたと伝えられている。

唯我独尊は、自分だけが尊いといううぬぼれた考えといわれることがあるが、そうではない。

 

ここでの、我は、大我ということ。

 

自己(=我)は、色々な環境に囲まれている。


空間軸では、

隣の庭、道路、環境、地球、銀河系、星雲、宇宙のはてまでつながっている。自己の内部に行けば、神経、筋肉、内臓、60兆の細胞、遺伝子、分子、素粒子までつながっている。


時間軸では、

ビックバン以来、無機物の時代から、進化をして変わってきて、遠い先祖がいて、両親がいて、自分がいて、将来につながっている。

 

こういう中で、自分というのを中心に書いてみると、真ん中の小さな点、小さな我、小我になる。
空間軸、時間軸に囲まれた、小我。

 


それが、坐禅をすると、空間軸の全体が自分になり、時間軸の全体が自分になる。
それが、大我。

自己があるだけではないのが、大我。

 

天上天下唯我独尊」でいう「」というのは、全体が自分ということ。
“私だけが尊い”という意味をあらわしているのではない。
全体が尊いということ。

 

空間的にも、時間的にも、全てを含んだものが自分。

人間は何らかの条件によって尊いのではなく、空間的にも時間的にもすべてを含んだ人間としての人間が尊い

 

能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、その人がそこに存在することが尊い。そいう事なのだと思う。

 

坐禅をしても、いつも雑念だらけなのだが、私の雑念は、そういう意味ではかなり小我の雑念だ。

 

今日、何食べようかな、とか。

あれ、どこにしまったかな、とか。

 

自分の身の回りの雑念ばかりだ、という事に気が付いた。

 

ちっちゃい世界のことばかり、考えているんだな、、と気が付かされる。

 

坐禅は、無になる時間なのだから、雑念に優越があるわけでもないのだけど、自分の小我に気づかされた感じ。

 

今度坐禅をするときは、宇宙に思いをはせてみよう。

小さな雑念が消えるかもしれない、そんな気がする。

 

 

 

 

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」 by カール・マルクス

ルイ・ボナパルトブリュメール18日 第2版
ハンブルグ・オットー・ マイスナー書店 1869年)
カール・マルクス 著
丘沢静也訳
2020年4月8日 第一刷発行
株式会社講談社

 

「この一冊、ここまで読むか!」に出てきて、気になったので図書館で借りてみた。

違う訳本だけど。

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カール・マルクス(1818~1883年)
ドイツの哲学者・経済学者。言わずと知れた「資本論」の著者である。
マルクスは、ニューヨークで政治週刊誌を出そうと計画していた友人に頼まれて、クーデタの歴史についての寄稿をした。予定が変わり、週刊誌の代わりに月刊誌となった『革命』に掲載されたのが、この「ブリュメール18日」。
マルクスは、「はじめに」のなかで、
「最後に私としては本書がいわゆるカエサル主義〔皇帝民主主義〕という常套句の排除に貢献することを望んでいる。」と書いている。

 

「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」は、本来のブリュメール18日をもじったタイトル。本来のブリュメール18日というのは、ナポレオンがクーデターによって、総裁政府を倒した1799年11月9日のこと。ルイ・ボナパルトは、ナポレオンの甥。


マルクスは、「ボナパルトはナポレオンと呼ぶにふさわしくない、グロテスクで凡庸な人物」とみなしていたので、「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」とした。

マルクスは、1848年2月革命から1851年12月2日のクーデターを、ボナパルト茶番劇とみている。その展開を同時代に生きていたマルクスの目からの報告が、本書である。

 

ルイ・ボナパルト、すなわち、ナポレオン三世に対する評価は、人によって様々であるが、マルクスは、「陰謀好きなたんなる馬鹿」「好色で、宴会好きの成り上がり」とみている。
であるから、全体的に、批判調の文章。

ジャーナリスティックな記録であり、分析レポート。そして、この一冊を人類学者であるレヴィ=ストロースが愛読していたというから、興味深い。何かの問題に取り組み前に、何ページか読んで自分の思考に喝をいれていたという。

なるほど、本というのは、そういう活用の仕方もあるのか。

レヴィ=ストロースというと、やわらかい文章、あまり攻撃的に表現をしない人、と思っていたけど。喝をいれる、という事はしていたらしい。

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もともとの、ドイツ語で読むと、その辺の感じがもっとわかるのかもしれない。

 

私にとっては、歴史の勉強の一冊、という感じだった。


マルクスの文章の上手さまを堪能できるほど、読解はできていないと思うけれど、全体に、テンポがいい感じは、訳本でもわかる。


本書で社会主義派・ボナパルト派として「ルンペンプロレタリアート」が出てくる。ルンペンプロレタリアート(独: Lumpenproletariat)とは、プロレタリアート(労働者階級)のうち階級意識を持たず、そのため社会的に有用な生産をせず、階級闘争の役に立たず、更には無階級社会実現の障害となる層、というのが、マルクスのいうところ。

社会主義派のなかでも、そのような人たちがいたから、ボナパルトが活躍できた、、、と。

 

やはり、ヨーロッパの歴史をちゃんと学びなおさないと、理解できない、、ということがわかった一冊。そもそも、王様をギロチンで処刑しちゃう歴史。それでも、だれか一人のリーダーを求めてしまう民衆。お金持ち優遇策と、労働階級の怒り。王に期待してはいけない。やはり、共和政だ!。でも、内部の分裂も起こる。農民と労働者の対立。
そんなどさくさのなか、、、「ナポレオンの名を持つのなら、農民と労働者の対立を解決してくれるだろう!」という期待におされて、まんまと皇帝の位に収まるボナパルト

 

なるほど、そういう歴史だったのね。

 

ジャーナリストとしてのマルクスの書。
文章がいちいち長いのが一つのマルクスらしさか?
でも、テンポがいい。

 

そんなに、ぶ厚い本ではないけれど、中身がつまった一冊という感じ。
今回読んだのは、第二版ということで、マルクス自身が最初の第一版から、いくつか手直しをしているらしい。
第一版も、いつか読んでみよう。。

 

いや、その前に、歴史の勉強のし直しが必要かもしれない・・・。

世界史を理解せずに、人生52年、特に困ったことはなかったけれど、理解しているともっと楽しめたことがあったのかもしれない、と今さらながら思う。

 

ワインの勉強中に出合った「最後の授業」も、第二帝政時代に起きた普仏戦争の話。

時代背景を理解していると、もっと、深く楽しめたかもしれない。

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人生100年時代。

学びを楽しもう。

知っていると思っていても、知らないことがたくさんある。

わかっていると思っていても、わかっていないことがたくさんある。

 

でも、今日の5分の学びが、昨日より少し成長した自分を作ってくれる。

そう信じて、今日も、学びを楽しもう。

 

 

 

自己肯定感 とは?

「日本人は、自己肯定感が低い」、とか、

「自己肯定感を持とう」とか、

よく耳にする言葉だと思う。

自己啓発の本や講演では、必ずと言っていいほど、目にし、耳にするのではないだろうか?

 

私も、自己肯定感はそれなりにあったほうがいいと思うし、もっと自己肯定感をもつと人生楽しめるのではないか、と思う事もある。

でも、やたらと、自己肯定感をもて、とか、ポジティブシンキングで、と言われることには、違和感も感じている。

 

その違和感の正体のようなものが、「世界は善に満ちている」をよんでいて、ちょっと触れられたような気がした。

 

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著書のなかで、哲学者が学生に答える。

以下、抜粋。

 

哲学者 :ここ十年くらい、「自己肯定感」という言葉が使われることがとても多くなりましたね。本屋に行くと、そういう感じのタイトルの本があふれていますし、ネットでもこの言葉が使われることがとても多いと思います。

学生 :そうですね。先生の「肯定の哲学」もその流れに棹さすものではないのですか?

哲学者 :人間が生きていくにあたって、「肯定」というものがとても重要だと考えるという意味においてはそうですね。

学生 : なんだか、先生の「肯定の哲学」は、それらとは違うと言いたそうですね。

哲学者 :はい。「自己肯定感」を主題にしている本では、やはり、文字通り、「自己」を「肯定」することの大切さが強調されていることが多いと思うのです。

 

この後も、会話は続くのだが、哲学者が伝えたいのは、

すべての人は、世界と切り離しえない。

世界の中で生きている。

だから、自己を愛するという事は、世界の様々なことを愛するという事。

世の中はろくでもないけど、自分だけは愛してる、という事はあり得ない。

ということ。

「自己肯定感」とは、「自己」だけを肯定することではない。

 

すごく、共感した。

 

自己肯定感が高い人と言うのは、周りのすべての事物、人物と触れ合うことを好み、その事物、人物から何らかの感情が揺り動かされ、自分の心が動く。

自分を肯定できるというのは、世の中を肯定できるという事なのかもしれない。

 

世間のこと、政治のこと、文句ばかりを言っている人よりは、世の中を愛せる人。

世の中には解決すべき課題もたくさんあるけれど、それでも生きていることに感謝して、世の中を愛して生きている人のほうが、自分自身のことも愛せる。

 

ちっとも、平等でも公平でもないし、もう、こんな世の中なんて、、、て思うときもあるかもしれないけれど、今ここに私が存在しているという事そのものの奇跡を愛する。

 

一方で、「日本人は自己肯定感が低い」というような使われ方をするとき、日本人は世界を愛していない、という事ではないと思う。

愛するという事の表現手段を、多く持っていないというだけのことではないだろうか。

日本なりの表現があるというだけのことで、何も、グローバルな愛情表現をすればいいということではない。

 

○○らしく、という言い方はあまり好まないけれど、○○なりの、、というのはあると思う。

 

世界は、善に満ちている。

世界は、興味の対象に満ちている。

興味を持ったことに、心揺さぶられてみよう。

自分のなかで、そっとそれを楽しんでみよう。

SNSへの投稿なんてしなくても、自分の中にある喜びを味わえばいい。

自分でそれを楽しめるという事が、自己肯定ということ。

SNSのいいね!の数ではない。

あ、いいな、と感じられる自分を認めること。

他の誰かがいいね、と言っていなくても、

自分が、いいな、と感じられるという事、それ事体が善に触れられたという事。

 

心揺さぶられることを楽しもう。

オリンピックを楽しもう。

素直に、努力しているアスリートに拍手喝采できるという事、

素敵なことではないか。

 

他者を応援できる心。

それも、自己肯定につながる。  

 

人は、社会的動物である。

そういう事なのだ。

 

 

 

 

「脳と日本人」 by 松岡正剛 茂木健一郎

「脳と日本人」 

松岡正剛 茂木健一郎 著

2007年12月15日

文藝春秋

 

松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談を単行本にしたもの。

図書館でみつけたので、借りてみた。

この二人が対談していたとは。

ただ、そうだね、そうだね、と同意している対談ではないだけに、面白い。

二人の共通の興味の対象は、脳。

 

様々な、人物、言葉、が登場してきて、盛りだくさん、と言いう印象の本だった。

話の発展のしかたが、幅広い。

 

西行、出家、旅、松尾芭蕉

湯川秀樹素読、漢文、養老思想、世界観

プルースト、「失われた時を求めて」、鴨長明慈円

古事記、古語、天武天皇稗田阿礼、万葉かな

日本書紀天正天皇舎人親王

小林秀雄良寛の掛け軸、縁遠き者たちを脈略づける、おもかげ

本居宣長、日本人の心、古事記源氏物語

篠田正浩安部公房

 

かそけき音:かすかな音

ひさかた:久かた。枕詞、「天(あめ・あま)・空・月・雲・雨・光・夜・都」

たらちね:垂乳根、母。枕詞、「母」

ぬばたま:球形で黒く光沢がある。枕詞、「黒・夜・髪・夢」など。

アノマリー:異質の例外性。

 

人物や、言葉から、様々な日本にかかわる話題に飛んでいく。

マインドマップにすると、ページからはみ出さんばかり、、、という感じ。

 

第5章: 日本という方法、という章で、日本の庭や伊勢神宮の話が出てくる。

日本は、見えないものを想像することを楽しむのが得意なのかもしれない。

枯山水。想像する楽しさ。

水はそこにないのに、水を思わせる工夫。

伊勢神宮遷宮。20年に一度、神様が本殿から仮殿にうつる。竣工すると仮殿は本殿に

なるのだが、神様はほんとうに、「その間を行ったんだろうか」と思わせる。

見せないことによる、ありがたさ。

秘仏は、めったに公開されないから、生涯一度きりしか目にできなかったりする。だからこそ、一目みたくなり、みると、なんとか記憶に残そうとする。

東大寺二月堂のお水取り。

めったに、経験できないもの。

いつもあるわけではなから、隙間がある。

隙間、余裕。

 

隙間、という話題から、「うつ」「うつろい」に話がうつる。

松岡さん曰く、

”うつろいというのは、以降、変化、変転、転移のことです。語根に「うつ」という言葉が使われています。「うつ」には、「空」「虚」「洞」という漢字をあてはめてきましたが、一番多いのは「空」。うつろ(空洞)、うつほ(空穂)、うつせみ(空蝉)、うつわ(器)、いずれも「うつ」の同根ボキャブラリーです。「うつろい」はこの「うつ」から派生した。つまり、空っぽのところから何かが移ろい出てくることが「うつろい」で、目の前にはない風景や人物があたかもそこにあるかのように面影のごとく浮かんでみえることを表しています。”

と。

 

空っぽのところから、、、というのが面白い。

 

頭の中に、隙間が必要、と松岡さんはいう。

瞑想みたいに、空っぽになること。

坐禅も、無になること。

 

見えないものが見える瞬間。

頭のなかに、隙間がないと、見えるものも見えなくなる。。。

 

小林秀雄の、「縁遠きものを脈絡づける」才能という表現も面白い。

点と点を結ぶのがうまい。

点と点が結ばれた時、それが多数に広がり、システム思考となっていく。

それが、思考する楽しさ。

 

冒頭に、でてきた人物や言葉をいくつか列挙したけれど、それぞれが結びついていることから、思考がつながっていく。

思考が発展していく。

こういう、思考の発展を楽しむ本のと形として、対談というのはやはり面白い。

対話の中での、言葉のキャッチボールが次の言葉を生み、次の話題を生む。

 

言葉というのは、そもそも、何かを伝達するためにあるわけで、一方通行の発信よりも、双方の対話というの言葉の流れに乗ったときに、より、言葉が生き生きする感じがする。

 

頭の中に隙間を作って、人との対話を大切にしよう。

時間も、詰め込みすぎるとかえって、効率は落ちる。

創造性高く、人生を楽しむコツは、隙間を作ることかもしれない。

 

お休みって大切。

詰め込みすぎないから、豊かになれる。

ばったり倒れる前に、休もう。

心も体も、休みが大事。

 

ひとやすみ、ひとやすみ。。。

隙間から、何かが生まれる。

 

 

 

 

 

 

「コモンの再生」 by 内田樹

「コモンの再生」

内田樹 著
2020年11月10日 第1刷発行
文藝春秋

 

内田さんの本だから図書館で借りてみた。
元々は GQ JAPAN という雑誌に連載中のエッセイの単行本化。

サラーーっと読み。

 

タイトルはコモンの再生となっているがエッセイとして、4つの大項目がある。
Ⅰ 公共を再構築する
Ⅱ これからの政治を語ろう
Ⅲ 隗より始めよ
Ⅳ 揺らぐ国際社会

 

トピックは政治経済から結婚、読書の感想など多岐にわたっている。けれどもその中でも、やっぱり共通なのは「コモン」なのかな?、ということで「コモンの再生」がタイトルになったとのこと。


コモンは(common)というのは、形容詞としては

「共通の、共同の、公共の、普通の、ありふれた」

という意味ではあるが、名詞としては、

「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のこと。


昔はどこでも村落共同体は「共有地」を持っていた。 みんなが、いつでも、いつまでも、使える土地。みんなが、使える土地というのは、「私たち」の土地。その「私たち」という概念が、資本主義の発展によって土地が私有地化され、値段がついて、きえていった。
内田さんは、その「コモン」を取り戻そう、と言っているわけだ。

 

表表紙の裏書。

「僕からの提案なんですけれど、『地方創生』を本気でやるつもりなら、いっそ『逆ホームステッド法』を作ったらどうかと思います。一定期間誰からも所有権の申し立てがない無住の土地家屋は公有とする。そして、今度はそこに住んで5年間生業を営んだ人に無性に近い値段で払い下げる。
土地って本来私有すべきものじゃないと僕は思います。誰かが一定期間管理責任を負うのはいいけれど土地は絶対に私物ではない。」

 

土地なんぞ持っていない私も、そうだそうだ! と思う。

 

と、公共ということが内容の中心ではあるが、他にも多岐にわたる話題が。

 

の考えとも近いな、と思ったのが、
「二項が拮抗する、その『あわい』にしか人間が住める場所はない。」
という話。


善と悪、昼と夜、戦争と平和。そのどちらかだけに偏ることはできない。
だから、どちらか一方で一喜一憂してはいけないということだろう。
いいこともあれば、悪いこともある。
調子のいいときにも、油断してると転ぶ。
それが社会というものだろう。

 

内田さんが質問に答える、という形のページがあるのだが、その中で私も聞いてみたいと思った質問があった。


Q 最近の日本では、人が何か失敗すると奈落の底まで叩き落として復活なんか絶対に許さない雰囲気があるように感じています。いつから日本人はこんな感じなのでしょうか?

 

内田さんも、どうしてなんでしょうね?といいながら、話が続く。
”日本では、際立って抜きん出た人が出てくると、「なぜか足を引っ張る」「出る釘は打たれる」というのがデフォルトになっている。”


”それは、日本では「エリート」が「世界標準」を創出して社会に貢献していくれる、と考えるのではなく、「エリート」は、高い地位にいて、権力・財貨・文化資本を享受していい思いをしている人たちのことだから” ではないかと。

 

エリートに「ノブレスオブリージュ」という意識もなければ、国民が「エリート」が社会価値への貢献をしてくれるとも思わない。

一人でいい思いしやがって、、、、ってことか?
なんて、ちっちゃい、、、。

と、おもうけど、事実そうかもしれないけど。

「足を引っ張る」とか、している暇あったら、もっと自分のこと考えればいいのに、と思う。

 

東京2020の関係者の過去のイジメや差別発言も、確かに許されることではないかもしれないけど、一般の人が、ネットでそれをあれこれ言うのは違う気がする。

人の過去の過ちをあれこれ指摘して、つるし上げる暇があるなら、もっと自分の人生が豊かになることをすればいいのに、と思う。

だれでも、過去に間違ったことをしてしまったこと、取り消したい過去の過ちの一つや二つ、、、あるだろう。

たしかに、程度っていうのはあるかもしれないけど。。。

 

健康に関する話題もおもしろかった。
「健康志向」も、適度が大切。
不健康の基準なんてあいまいだ。
そうだそうだ!


高血圧だって、かってに基準の数字を変えて、高血圧患者を増やして、薬漬けにして、、、、とおもってしまう。
健康診断で、病気になるのだ。
知らぬが仏で、ぽっくり死んだほうが幸せかもしれない、、なんて、ふとどきなことを思っている。


不治の病でもないのに、自ら命を絶つというのは、やっぱり、私は賛成できない。

でも、好きなことして、たのしんで、
自分で不摂生して、ひとりでぽっくり逝ったら、それはそれで、死んだもん勝ちなんではなかろうか。。。なんて、思ってしまう。
いやいや、もちろん、健康一番と思っているけど。
ぽっくり死ねないで、後遺症に苦しむのは嫌だけど。
やりすぎの健康志向は、不健康だ。
かつ、それを人に強要するのは最悪だ。。。。

 

コモンということを、みんなが意識できなくなってしまったのが、一人一人の人生に余裕が少なくなってしまったからではないだろうか。

 

サラリーマンを辞めて、フリーになったら、驚くほどストレスが減った。

別に、会社が嫌でやめたわけではなかったのだけど、やはり、時間の拘束は長かった。

それがなくなったら、素晴らしく快適になった。

もちろん、収入は減ったけど。

コロナで、たいしてお金も使わないから、特にお金の心配もない。

 

ほどほどの健康を目指して、ほどほどに稼いで、

結構、幸せだ。

だから、ちょっと「コモン」を考える余裕ができた気がする。

 

「コモン」から享受しているサービスに感謝し、今日も分別してゴミをすてよう。

 

 

 

 

「思い出を切りぬくとき」 by 萩尾望都

「思い出を切りぬくとき」

萩尾望都 著

1998年4月23日

あんず堂

 

萩尾望都さんの20年以上前のエッセイ集。

図書館で借りてみた。

 

私は、萩尾望都さんのことは、知らなかった。

ポーの一族」と言えば、きっと、同世代の女子で読んでいない人はいない、、、と思われるほど、有名だった、、、ようだ。

たしかに、名前は聞いたいことがあった。

でも、ムーの一族とか、、、、なんかのコメディか、どっかの国の貴族のお話なのかな、くらいにしか思っていなかった。

永遠に年を取らず生き永らえていくバンパネラ、、吸血鬼のお話、ということらしい。

そこに、多様性?愛??、人生の教訓のようなものを見出すから、人気なのかもしれない。

 

なぜ、いま、萩尾望都さんに興味をもったかというと、ヤマザキマリさんがTwitterかなにかで、萩尾望都さんのことを言及していたから。漫画家として師として仰いでいる、みたいなことで。

 

これまで、私のアンテナになかった、萩尾望都さん。

そしたら、今年?NHKの100分で名著でもとりあげられていたらしい。

ヤマザキマリさんも、そこに出演されていた。

なぜ、いま、萩尾望都さんが、また話題になっているのかというと、

最近、エッセイ集の新刊をだされた?

なんでも、そこに、少女マンガ界隈では大騒ぎになるような内容が書かれているらしい。

(私は少女マンガに疎くてよくわからないのだが・・・)

 

新刊「一度きりの大泉の話」、これをヤマザキマリさんが薦めていたのだ。

で、これを図書館で借りようかと思ったら、あまりの予約者の数に、驚いて、あきらめて、すぐに借りられる彼女の本を読んでみた。

 

マンガを描く人だから、文章のテンポがいい。

1998年出版というから、今から23年前。

萩尾望都さんは、1949年5月12日生まれ、というから、50歳になる直前、という感じだろうか。

が、出版されたのが1998年であり、内容は、彼女の20代後半の頃のエッセイ。

自分の青臭さをネタ?にしつつも、出版されたのだろう。

 

家族のこと。

旅のこと。

言葉に関すること。

文化芸術のこと。

物に関すること。

 

と、多岐にわたったエッセイだった。

サラーーっと読める感じ。

平和な感じ。

 

印象的なのは、芸術に関すること。

クラッシックバレエに夢中になっていたり、絵画に夢中になっていたり、、、。

モーリス・ベシャールや、三島由紀夫の話が出てくるとは思わなかった。

ベラスケスの作品、「官女たち」にが出てくる。

ピカソが書いた、「官女たち」。

「官女たち」と言われてもピンとこなかったので、調べてみた。

あーーー、これこれ、知ってる知ってる!という絵。

人のエッセイで、その人の頭の中をのぞくのも楽しい。

自分の知っていることが出てくると、ちょっと共通点を見つけられたような気がしてうれしくなる。

こんど、萩尾望都さんのマンガ、読んでみようと思う。

 

やはり、作品を作る人と言うのは、広い範囲の芸術に触れられているんだなぁ、と思った。

食の話もちょっとでてくる。

 

やはり、エッセイに、旅と食事は欠かせない。

 

芸術に触れる旅にでて、そこで美味しいものが食べられたら、そんなに幸せなことはない。

 

旅に出たい。。。

オリンピックで日本に来ているアスリートたちだって、日本を旅してみたいだろうな、と、、、思う。

 

旅への欲求を、本で代替することでは抑えきれなくなってきている。。。

今回の緊急事態宣言があけたら、、、と思う。

旅の計画をつくることで、とりあえずの欲望を満たしてみよう。

 

あるいは、、、萩尾望都さんのマンガを大人買いしてみるか、、、、。