須弥(しゅみ)、芥子(けし)に入る
「維摩経(ゆいまきょう)」
朝のZoom坐禅会で、教えていただいた言葉。
古典にもどって、今日は、維摩経(ゆいまきょう)からの言葉。
須弥とは、須弥山という世界一高い山(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)。それが、芥子粒の中に入ってしまう。極大が極小の中に入ってしまう、という仏教哲学。
碧巌録の「雪峰尽大地」も、同じような話。
尽大地(じんだいち)撮し来るに粟米粒(ぞくべいりゅう)の大きさの如し(雪峰尽大地:碧巌録5則)
【本則】
挙(こ)す。雪峰(せっぽう)衆(しゅう)に示して云く、尽大地(じんだいち)撮し来るに粟米粒(ぞくべいりゅう)の大きさの如し。面前に抛向(ほうこう)し、漆桶不会(しっつうふえ)。鼓(こ)を打って普請(ふしん)して看よ。
【和訳】
一日、雪峰和尚大衆に示して、尽大地といえば、如何にも大きいようであるけれども、撮(つま)んで見れば米粒位しかないぞ。之(これ)が見えないかと言って、其面前に抛り出された。
漆桶(しっつう)は漆桶(うるしおけ)のことで、真黒々(まっくろぐろ)ということで、不会は合点の行かぬことで、即ち漆桶不会、少しも分らぬ。
是れ此通りえであるぞ、と眼の前に投げ出されても、少しも分らぬ。
これが分らなければ、皆一緒に、鐘や太鼓で探して看よ。
「解説が難しいのだけれど、そういうことです、、」と。
漆桶を目の前にして、ここに宇宙があると言われても、さっぱりわからん、、、でも、そういうことです、と。
ちょっとだけ、補足していただいた。
概念的に考えると、
自分は自分の身体。
身体は、外ではさらに大地や宇宙までつながっている。
一方、身体の中は、臓器、60兆の細胞、素粒子まで細分化される。
この、宇宙のはてから素粒子までが自分だ、というコンセプト。
空間としての広がり、空間軸としての考え方。
時間軸で言えば、ビッグバン以来の無生物から未来の世界まで、つながっている。
という話。
時空をこえたものとして、須弥山と芥子を一体化させている、と。
須弥山が壮大な宇宙そして時間であり、芥子の実が自分ってことかな?
須弥、芥子に入る(維摩経)
ちっちゃい自分も、宇宙の構成要素の一つである誇りを持てということなのか。
自分の中に、宇宙があり、先祖代々続いてきたDNAがあり、、、。
そう考えると、佐藤優さん・富岡幸一郎さんの著書『〈危機〉の正体』の中に、キリスト教では時間軸を直線で考えて、日本の文化では円環で考えるというはなしがあったけれど、やっぱり、仏教や禅の世界も時間軸は直線なのかな。
新しくやり直せる、っていうことを円環ととらえれば円環ともいえるけれど、やっぱり、過去をなかったことにできるわけではないから、直線、ともいえる。
私たちは、「今」生きているけれど、やっぱり時間軸、空間軸で大きなものとつながっていると考えるのは、大事なことのように思う。
大きな宇宙の中、大きな時間軸のなかに自分があるのだと思えれば、なんだか勇気が湧いてくるような気がしないだろうか。
大丈夫、きっと、何とかなる。
縄文時代から生きてきた人類だもの。
今週、若田光一さんが、再び宇宙にいかれた。国際宇宙ステーションに到着して、「我が家にかえってきたみたい」って。
若田さん、59歳だって。
すごいな。
何がすごいって、体力もそうだけれど、やりたいことを実現させているところがすごい。
きっと、「誰にも負けない努力」があるのだろう。
私も、がんばろぉ、って思った。
宇宙の中のちっちゃい点である自分でも、きっとなにかできることはある。
スミレはスミレの花として咲いていればいいように、私は私としてがんばればいい。
そんな勇気が湧いてくるような、話だった。
自分の中に、宇宙を持とう。
宇宙は、無で満たされている。
そして、銀河系があって地球があって、星が美しい。
無になること、それは自分の中に宇宙をもつことかもしれない。
ま、考えすぎずにいこう。
きっと、それでいい。