禅の言葉  微風幽松を吹く 

今日教えていただいた禅の言葉 


微風幽松(びしょうゆうしょう)を吹く  (寒山詩
 
日本の坐禅は、臨済宗といった禅宗だけでなく、あらゆる宗派が坐禅をやっている。なので、公案天台宗真言宗の話も入ってくる。仏教だけでなく、老荘思想神道儒教など、共通した真理に基づく公案もある。
 
「微風幽松を吹く」は、かなり昔から公案として使われている言葉で、
寒山拾得(かんざんじっとく)という風狂(ふうきょう)の僧の詩。
寒山拾得は、行動が奇矯な人で、山に住んで、ゴミを食べて生きていた?!と言われる。歴史上の存在は不明で、伝説の人だが、多くの詩を残していて、寒山詩と言われている。
 
風狂(ふうきょう)
もと精神病者(瘋癲など)を意味する語だったが、のち世俗に反発・批判的態度で狂態を演じることをいった。またその人。中国では寒山・拾得などにその要素が見られ、日本では僧増賀や一休が有名。
 
 
そんな寒山の「微風、幽松を吹く、近くに聞けば声愈々好し」という詩から取った公案が、今日の言葉。


漢詩

欲得安身處 寒山可長保 微風吹幽松 近聽聲愈好 
下有斑白人 喃喃讀黄老 十年歸不得 忘却來時道
 

読み方
安身の処を得んと欲せば。寒山(かんざん)長(とこしなえ)に保つべし。微風幽松を吹く。近く聴けば声(こえ)愈々(いよいよ)好し。下に班白(はんぱく)の人有り。喃喃(なんなん)として黄老(こうろう)を読む。十年帰る事を得ざれば。来時(らいじ)の道を忘却す。
 

意味
「平安の境地を得たければ、寒山(*寒山という場所)にずっといなさい。幽松(*枝ぶりが細やかで、静かな松)に微風が吹いて、近くに聴けばその声(風の音)はますますすばらしい。松の木陰では白髪交じりの老人がぶつぶつと黄帝(こうてい)や老子を読んでいる。十年もここにいると、来た道さえもすっかり忘れ去ってしまう。」
 

解釈
一切の計らいを捨てきって、自然の声を聴き(近聴)、あるがままを好し(愈好)とし、世の中のことや自分のことも忘れ去り、悟りのことさえ忘れ去ったところ、悟りの道(臭み)も忘れた絶対の境地がある、という意味の詩。
 
 
「微風、幽松を吹く、近くに聞けば声愈々好し」 

 

老僧の世界の詩、ということ。

 

心穏やかに暮らしたいとは思うけど、まだ、そこまでは行きつきたくないなぁ、、、、なんて思う。

 

世の中、政治もコロナも、不条理なことは多いし、自分自身の身の振り方だって思うようにならないこともたくさんあるけど、まだまだ、もうちょっと抗ってみようという気がしている。

 

正直、2020年6月に30年のサラリーマンを辞めた時は、50歳も過ぎたし、この先は自分のペースでゆっくりやっていきたい、と思っていたけれど、別に、ゆっくりすることがやりたいことではない、という事に、1年たって思い至った。

 

もともと、死ぬまでフローで生きるために、死ぬまでできる仕事に切り替えようと思って、脱サラしたわけで、早期引退をしたいわけではなかった。

ただ、何をして生きていくか、脱サラ一年たっても、固まってはいない。

 

立ち上げようと思っていた仕事は、決意だけで頓挫している・・・。

決意だけシンドローム、、、、。

行動できず、他の勉強に逃げている、、、。

 

ただ、勉強を始めたら、あら、これも好きだわ、と気が付くことにも出会えた。

もっと、できるようになりたい。

もっと、知りたい。

もっと、やりたい。

 

まだまだ、煩悩もある。

あれも食べたい、あそこも行きたい、あれもしてみたい。

だって、まだ、50代だもの。

 

 

毎日でなくていい。

時々、風の音に耳を傾けてみよう、と思う。

「微風、幽松を吹く、近くに聞けば声愈々好し」

そういう、世界もあっていい、と思えると、ちょっと気持ちが楽になるかもしれない。

 

色々なこと、全然、上手くやっていけない自分が情けなくなって、落ち込むときもあるのだが、それもまた、私なんだと、、、、。

下手なりに、好きなら続けてみよう。

と、思う。

 

さて、今日は、秋分の日。

大好きな9月も、もう下旬だ。

コロナを言い訳にせず、昨日よりちょっとだけでも成長している自分をめざそう。

2021年の年初にたてた目標は、まだまだ未達。

まだ、今年も3か月もある。

継続は力なり、を信じて、がんばろう。。。。

 

成長は、直線ではない。

いまは、停滞期なんだと、また、いつか上昇期が来ると信じて。

 

老僧の詩を読んで、かえって、ガツガツと頑張りたくなった。

ま、そういう事もあるか。

 

勉強しよう。