今朝教えていただいた禅の言葉。
「寒時は闍黎(じゃり)を寒殺し 熱時は闍黎を熱殺す」
ちょうど、猛暑の時なので、今朝はこの言葉を、と。
坐禅堂は、クーラーも暖房もないので、今の時期であれば、汗をダラダラ流しながら坐禅をするもの。そんな時にぴったりの公案。
寒時は闍黎(じゃり)を寒殺(かんさつ)し 熱時は闍黎(じゃり)を熱殺(ねっさつ)す
『碧巌録』第四十三則
闍黎(じゃり)というのは、阿闍梨(あじゃり)の略で僧の尊称、修行者のこと。ここでは、お前さん、と相手に呼びかけるような感じ。
挙す、僧、洞山(とうざん)に問う、
「寒暑(かんじょ)到来す、如何(いかん)が回避(かいひ)せん」。
山云く、「何(いずくん)ぞ無寒暑(むかんしょ)の処(ところ)に向かって去らざる」。
僧云く、「如何(いか)なるか是れ無寒暑の処」。
山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。
洞山(とうざん)は、曹洞宗を開いた洞山和尚(807~869)のこと。
「殺」は意を強める助辞、「寒殺」「熱殺」は寒さに成り切る、熱さに成り切るという意。
寒さ、暑さを回避できるところはどこかないか?と聞かれた洞山は、
暑さ、寒さは、それになり切ることで乗り切る、と僧に応える。
洞山「無寒暑の則」、と言われる公案。
暑いと、ついつい、暑い暑いと言ってしまうもの。
”云うまいと 思えど今日の 暑さかな” → 暑い時には何をしても暑い
寒い時も → ”こたつには やはりこたつの 寒さかな”
と。
なぜこれが公案になっているかというと、ここでいう「寒さ」「暑さ」の話は、「生」と「死」の問題と同じ、ということ。
「闍黎」も、修行僧だけのことをいっているのではなく、人間すべてのこと。
無寒暑というのは、生死の問題で言えば、生も死もないところなどない、ということ。
暑さ、寒さから逃れられないように。生、死から、逃れることはできない。誰もが、生まれてきたからには、いずれ死を迎える。
死は、逃れられないもの。
だから、心を整えておきなさい、と。
ダンマパダ(お釈迦様の言葉)の
「己こそ己の寄る辺、己をおきて誰に寄るべぞ」は、まさに、自分を鍛えることが何より大事ということ。よく整えし、己こそ、それに勝るものはなし、ということだ。
自由に生きるというのは、時に任せて生きていくということだけではなく、身を整え、行い(人間としての営み)を修めるということ。理論があるわけではないけれど、直感的に整えられた心、それが一番素晴らしい。それによって寒さも暑さも乗り越えられる。
つまり、それによって、生と死も乗り越えられる。
整えられた心が大切。
修行というのはそういうこと。
普段の生活から、整えられた心を意識する事。
「無寒暑」=「生死のない世界」はない。
良寬和尚は、日頃
「生きる時は生きるが宜(よろ)しく候(そうろう)、死ぬ時は死ぬが候(そうろう)」
と言い、
「うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ」
と辞世の句をのこした。
じたばたせずに、死を迎える。
その日まで、心を整えて生きていく。
ウクライナでの戦争のこと。弾道ミサイルが飛んでくること。大雨で洪水が起こること。コロナの感染が拡大していること。。。自分の人生とは遠いところでも、近いところでも、毎日なにかが起きている。それが人間が暮らしている地球。
心がじたばたしたり、ざわざわしたりするのは、当たり前。
でも、そんな時でも、心を整えようとする気持ちが大事なのだろう。
心を整えて、自分がやるべきこと、自分ができることに集中する。
自分の力でどうにもならないことを心配しても、世の中は変わらない。
自分ができることに集中しよう。