『板上に咲く』 by 原田マハ

板上に咲く
原田マハ
幻冬舎
2024年3月5日 第一刷発行
MUNAKATA: Beyond Van Gogh
*本作は史実に基づいたフィクションです。

 

原田マハさんの新刊。

 

棟方志功(むなかたしこう)の物語。マハさんのお得意分野、画家の人生ノベライズ。棟方志功と言えば、あのごつごつとした版画のおじさん、、、っていう位で、作品は好きだけれど、特にどんな人なのかを興味を持ったことが無く、他に類を見ない作家さんではあるけれど、私にとっては昔のすごい芸術家、ってくらいな知識だった。
装丁をみれば、すぐにわかる。あ、棟方志功。結構、好き。

 

ページをめくると、いきなり目に入るのは、草野心平〈わだばゴッホになる〉抄からの抜粋。

ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにならずに。
世界の。
Munakataになった。

 

ゴッホに憧れて、ゴッホになりたかった棟方志功のお話。物語の構成も、マハさんのお得意、故人の思い出を語っている現代の場面から、故人の生きていた時代へジャンプ!そして、最後は再び現代へ。主人公の人生の流れは、時系列に書かれているので、とても読みやすい。

ここで、物語に入る前に、一旦、棟方志功についてのお浚い。

 

棟方志功略歴東京国立近代美術館のHPから一部抜粋)
1903年 9月5日、青森市大町一丁目一番地に生まれる。
1924年 油画家を志し、帝展入選を目指して上京。
1926年 帝展落選が続くなか、版画に目覚める
1928年 油画《雑園》で帝展初入選。
1932年 版画に道を定める。
1936年 国画会展に出品した《瓔珞譜・大和し美し版画巻》が縁となり柳宗悦民藝運動の人々との知遇を得る
1939年 《二菩薩釈迦十大弟子》制作。翌年の国画会展で佐分賞受賞。
1945年 富山県西砺波郡石黒村法林寺に疎開。5月の空襲で東京の自邸と戦前の作品や版木のほとんどを焼失。
1951年 11月末、東京都杉並区に転居。
1955年 第3回サンパウロビエンナーレ版画部門最高賞受賞。
1956年 第28回ヴェネチア・ビエンナーレ国際版画大賞受賞。
1959年 ロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きで初渡米、 滞在中の夏、約1か月かけて欧州を巡る。
1961年 青森県新庁舎の壁画《花矢の柵》など公共施設への大作提供が増える。
1970年 文化勲章受章。文化功労者となる。
1975年 9月13日、死去。青森市棟方志功記念館開館。


そして、先日、2024年3月31日をもって、棟方志功記念館は閉館。作品は、青森県立美術館に移転され、棟方志功展示室に飾られることになっている。今年の7月にリニューアルオープン予定。

ゴッホと違って、生きているうちに讃えられた人。

 

目次
序章 1987年(昭和62年)10月 東京 杉並
1928年(昭和3年)10月 青森 ー 1929年(昭和4年)9月 弘前
1930年(昭和5年)5月 青森 ー 1932年(昭和7年)5月 東京 中野
1932年(昭和7年)9月 東京 中野 ー 1933年(昭和8年)12月 青森
1934年(昭和9年)3月 東京 中野
1936年(昭和11年)4月 東京 中野
1937年(昭和12年)4月 東京 中野 ー 1939年(昭和14年)5月 東京 中野
1944年(昭和19年)4月 東京 代々木 ー 1945年(昭和20年)5月 富山 福光
終章 1987年(昭和62年) 10月 東京 杉並

 

感想。
あぁ、、、、棟方志功さん、、、。ゴッホみたいな人だ。でも、ゴッホと違って、生きている間に、作品は高値で売れ、家族も豊かに暮らすことができるようになった。ゴッホをめざしていた青森の田舎青年は、世界のMunakataになった。そうか、そうだったのかあ。。。。すごいなぁ。。。。

知らなかった棟方志功の世界が、ぐっと身近に感じられる。ぐっと胸に迫るものがある物語。面白かった。

 

そうか、文化勲章まで受賞していたのか。。。流石に、1970年の出来事、私の記憶にはない。戦争で多くの作品が焼けてしまったらしいけれど、、、その後も、さまざまなところで活躍されたので、作品そのものはたくさん目にする機会があると思う。本作では、志功青年が、妻のチヤさんと出会うところから始まり、極貧生活をしながらも油絵から版画にかじをきって、柳宗悦(やなぎむねよし:民芸運動家)、濱田庄司(陶芸家・人間国宝)、河井勘次郎(陶芸家)らに認められるようになり、ようやく、家族そろって暮らすことができるようになる成功までの物語。二人の恋愛物語でもある。二人の会話が、方言なところに、なんともホッコリ感が。。。

 

序章と終章は、妻のチヤさんが志功がなくなって12年目、スコさん(志功)があこがれ続けた、ゴッホの〈ひまわり〉について、語る姿。物語の中では、志功が柳宗悦が雑誌『白樺』で紹介したゴッホのひまわりの切り抜きを、後生大事に宝物のようにあがめていた様子が語られる。それも、戦争で焼けてしまうのだが・・・。

志功とチヤさんは、ともに青森の出身で、友人を介してたまたま出会う。そして、チヤが自立した職業婦人をめざして単身、看護士の資格を取って仕事をはじめた弘前で、偶然再開。二人は惹かれ合う。

そして、結婚。子どももできるのだが、志功はその時、東京で芸術家仲間の松木満之の家に居候をしながら画家修行の最中で、とてもチヤと子どもといっしょに暮らすことはできない経済状況だった。自分が食べていくのもやっと、下宿代も払えない、という状況で、チヤはやむなく弘前から青森の実家に帰って子どもを生む。つまりは、最初から別居婚

 

志功は、いつか絵が売れるようになったら、かならず迎えに行くから、、、というものの、一向にその時は訪れない。すやすやと寝息を立てる「けよう(きょう)」を蒲団に寝かせ、志功がチヤにと置いていった『白樺』のゴッホのひまわりを見つめ、まだかまだかと、、志功の迎えの日を待ちわびるチヤだった。

 

そして、志功の作品が3年ぶりに帝展に入選。チヤは、ようやく絵が売れる!いっしょに住める!と心躍らせるのだが、志功からは一向に連絡が来ない。そこに志功から小包が届く。これは、けようのために、父親としてはじめてのプレゼントか?!と胸を躍らせたチヤだったが、出てきたのは色とりどりの木版画だった。。。。文字も書いてある。表紙には、〈星座の花嫁〉。棟方の言葉も綴られていた。チヤは、「これは私たちに送られた花束だ」と思い、息をのんで版画集を胸に抱く

 

そして、、、、しかし、、、、志功から東京へ出てこい、いっしょに暮らそう、、、の言葉は出てこない。しびれをきらしたチヤは、けようを抱いて、押しかけ女房する。いきなり現れたチヤに、志功は、怒るかと思いきや、
よう来てけだ。この子ば連れで。大変だったろ。今日はとにがぐ、よぐ休んでけ」と、暖かかった。はじめての東京、親子三人で眠るはじめての夜。チヤは幸せだった。

 

帝展に一度入選したからといって、簡単に絵が売れるようになるわけもなく、、しばらくは、松木の家の居候ぐらしがつづく。そして、子どものころから視力の悪かった志功は、その視力をどんどん失っていく。しまいには、油絵を書く事が難しいほどまで視力は落ちていった。そして、版画へのかじをきる。松木のアドバイスもあってのことだった。志功の版画は、志功の命のような強さがあった。特大サイズであったり、心の赴くままに掘られた版画は、志功そのもののようだった。

 

そして、志功の作品が柳宗悦の目に留まる日が来る。そこからは、とんとん拍子に志功の作品は世の中に認められる様になり、作品も高値で売れるようになる。とうとう、家族だけで住むすみかも。息子の「巴里爾(ぱりじ)」も生まれる。ただ、そこに戦争の足音が・・・。1936年スペイン内戦勃発。翌年にはゲルニカナチス・ドイツ軍の空爆をうける。1938年ドイツがオーストリア併合。そんな状況ではあったが、松木は画家の憧れの地、パリにへと渡る。日本は盧溝橋事件を発端にして日中戦争が始まり、軍靴の響きはアジア一帯でもたかまっていた。そんな中でも、棟方家では、祝賀会がひらかれるほど、志功の作品は売れるようになっていた。

だが、そのころには、志功の左目は、ほとんど見えなくなっていた。そして、ある日、チヤにそのことをうちあける。「右目も見えなくなるかもしれない・・・」そして、自分に目隠しをしてくれとチヤにたのむ志功。目が見えない状態で、版画に取り組む志功、、、。滑った彫刻刀は、志功の左手をえぐる。血を流す志功。止めようとするチヤをはねのけて、掘り続ける志功・・・・。圧巻・・・。

その作品は、柳に「最高の出来栄え」と褒め讃えられる。

 

戦火は、東京にまでおよんでくる。一家は、青森ではなく、富山に疎開する。家族は、6人家族に増えていた。けよう、巴里爾、ちよゑ、令明(よしあき)2男2女のにぎやかな子どもたちをつれて、富山に疎開する。あとからチヤたちの元へやってきた志功が、版木を東京に残してきたことをしったチヤは、「自分が取りに行く」といって、単身、東京の家に戻る。そこに空襲。。。幸運にもチヤは空襲をのがれたが、家は燃えてしまった・・・・。富山に戻ると、

「おメさの命にも等しい版木を守れねがった・・・。もう、おメさに合わせる顔がねえです・・・私は子どもたちと一緒に、どうにか生きのびます、。だから、おメさもどうかご無事で、、、」と、別れを決意し、がくりと膝をついて志功にあやまるチヤ。

 

「・・・・チヤ子。おメ、何年ワぁと夫婦やってるんだ?
 ったく、わがんねのか?
 ワぁの命に等しいもんは版木では、ね。 おメだ

 

おぉぉ、、、感動の、、、、。。。

なんも、いえね、、、、。

 

そして、物語は、現代に戻り、チヤが志功との思い出を語る場面へ。晩年、ゴッホのお墓を訪れた志功は、なんと、そこで、ゴッホの墓碑銘の「拓本」をとったのだとか。。。

 

志功が今日本にやってきたゴッホの〈ひまわり〉をみたら、なんて言うか?

”ーありがとう。よぉく帰ってきてくれた。

そんなふうにささやいて、くしゃくしゃ、笑う。
たぶん・・・・いいえ、きっとそうだと、私、思います。”

THE END

 

はぁ、、、波乱万丈!
チヤさん、素敵。棟方志功も、素敵。

 

あぁ、じんわり、心温まる物語。

志功が芸術家として成功をおさめたことをしっているからこそ、波乱万丈の人生を安心して読める。チヤさんもすごい。愛する妻の愛に支えられて生きた棟方志功

それにくらべて、、、と言ってはいけないが、ゴッホは、、、、。

 

いつか、私も、ゴッホのお墓に行ってみたいな。テオと並んで眠る、ゴッホのお墓に。

 

原田さん、いつも素敵なお話をありがとう!

読書は楽しい!