『私本太平記(七)』 by 吉川英治

私本太平記(七)
吉川英治
吉川英治歴史時代文庫69
1990年4月11日 第1刷発行
1990年9月13日 第3刷発行

 

(六)の続き。

megureca.hatenablog.com

新田義貞の軍に追われて、九州まで逃れた足利軍。後醍醐帝のために戦っていたはずが、気が付けば後醍醐帝に攻められることに。でも、持明院統を味方につけたことで、皇族を否定してるわけではないという意思表示の尊氏。さぁ、どうなる?!

 

目次

風花帖(つづき)

筑紫帖

湊川

 

本の裏の説明には、
”一夜にして、人間の評価が変わるのが乱世の慣いである。尊氏が”筑紫隠れ”の朝、新田義貞は、凱旋将軍として、堂上の歓呼をあびていた。左近衛ノ中将の栄誉。それのみでなく、後醍醐帝の寵姫・勾当の内侍を賜ったのだ。それにひきかえ、貴顕に生命乞いする佐々木道誉の鵺ぶり。また、朝敵たる汚名は逃れたものの、尾羽打ち枯らした尊氏。しかし彼は、北九州に勢力を養い、反攻を意図する。”と。

 

(七)の主な登場人物
足利尊氏新田義貞と北畠の軍に攻めらて鎌倉を脱し、西へ西へ。とうとう、九州の筑紫にたどり着き、体制を整え直そうとしている。
楠木正成:後醍醐帝の言葉に従って戦ってきたが、足利軍が九州へ逃げたとこで、ひと時の休戦。しかし、足利軍は再び上京してくれば、再び国中が乱世となることを懸念し、後醍醐帝に、新田義貞を廃除して、足利尊氏公武合体を進めるべき、と進言。しかし、官は朝敵尊氏と公武合体なんて、受け入れられない。
楠木正行(まさつら):正成の嫡男。幼名多聞丸が元服して正行。まだ、かぞえで14歳。父は、ずっと戦いにでていない。いつか自分も初陣を飾りたい、と切望している。
右馬介:尊氏の幼いころからの従者。あらゆる戦いの間、姿を隠して、方々に尊氏の味方になるように説得に回る。その一人に、楠木正成がいた。
菊池家:九州の武士。官軍につく
赤鶴:面をつくる職人。楠木正成の顔をみたときに、これほどの人相のひとは、、、といって、正成の面をつくらせてくれ、と正成に頼む
・他、色々な武家たち。たくさんでてきすぎて、、、、。要するに、日本中が官と反官で戦った。

 

鎌倉から足利軍を追い出し、得意げになっている新田義貞。一方で、楠木正成は、義貞の態度に再度の乱の危険も感じ、平和のためにもう少し考えるようにと進言したいと思っている。でも、「河内のつくね芋殿」と呼ばれていたちょっと不細工ちゃんな正成は、世間でも自分のことを田舎の大将のように言われていることを耳にしながらも、そんなことを気にしない。ひたすらに、平和を願うのだった。しかし、義貞は、正成の言葉に耳を貸そうとしない。

このあたり、正成の人間性の高さと、義貞の器の小ささが表現されている。

正成は、義貞が話をきいてくれないので、とうとう直接帝に話をしたいとお願いする。そして、玉座の後醍醐帝に、公武合体」と「新田を討つ」を提案するのだが、、、聞き入れてもらえない。持明院統との争いだって、皇統同士の身内のあらそいではないか、、、と。世の中の平和のためにと色々と言っても、公卿や帝は腹を立てるばかり。正成は魏の曹植(そうしょく)がつくったという「七歩の詩」をおもいあわせていただければ、、という。

七歩の詩とは、三国志の時代、曹操の子である文帝が、軍事をきらい芸時に夢中な弟の曹植に対して、「戦わないのなら斬る!」とする。が、7つ数えるうちにおまえの得意な詩でも歌って聞かせろ、といって7歩の猶予を与える。そして、そのわずかな間に、同族内で殺し合うことの虚しさを、鍋で煮られる豆と、その火をおこす豆がらにたとえた歌をうたい、感動した文帝が、曹植をゆるした、という話。

 

同族同士の争い程浅はかなことはない。と、正成は言いたかったのだ。でも、聞き入れてもらえず、河内にこもってしまうのだった。そして、息子の多聞丸のみならず、妹の卯木と元成の息子観世丸の成長を楽しみながら暮らす。正成は、戦いで人が死ぬのは嫌でたまらないのだった。

 

一方の新田義貞は、かつて帝の側にいた女性に恋焦がれており、その女性、勾当ノ内侍を帝からおまえにやる、といわれる。あこがれの女性が自分のものとなり、大喜びの義貞。しまいには、奥に入りびたりで、仕事はないがしろに・・・。

 

或る時、河内にこもっていた正成のもとへ一人の忍びがやってくる。それは、右馬介だった。尊氏の味方につけ、という尊氏からの密使だった。しかし、後醍醐帝に呼ばれたからこそ今こうして官軍を味方している自分は、死ぬまで後醍醐帝に使える、といって、尊氏が自分を期待してくれたことに感謝しつつ、きっぱりと断る。

このあたりも、本書『私本太平記』で楠木正成の無骨でいながらまっすぐで正直な人間性の魅力がふんだんに書き記されている感じ。

 

一方、九州にのがれた尊氏は、九州探題を拠点に勢力を広げる。九州探題はかつては赤橋守時(妻・登子の兄)の弟・英時が守っていた。しかし、菊池家に攻撃されて鎌倉幕府の倒壊とともに亡くなっていた。こんどは九州探題を足利が救った。九州の地元の武士も幕府派と宮方に分断して戦っていたが、大友・島津・大隅らは足利についた。そして、5万といわれた菊池軍を、2千あまりの足利が倒す。この時も、敵だか味方だが、、ぐちゃぐちゃ。九州でも多くの人が亡くなった。猛兵というより盲兵の戦い・・・と。

 

尊氏は、この九州での大合戦のあと、一緒に戦った諸武家に何かしらの褒美を与えた。九州諸豪の心を掴んでおく必要があったのだ。褒美をけちれば、後醍醐帝の二の舞となってまた敵をつくってしまう。九州で味方を得た尊氏は、再度の上京の機会をうかがう。そんなとき、佐々木道誉から「預かっている尊氏の家族を安全なところへ移動したので安心しろ」、との手紙が届く。だから、京へあがってこい、、と。

京へのぼる途中には、備中熊山がある。そこには児島高徳がいる。ここで、後醍醐が隠岐に流される際に目にした、
天莫空勾践(てんこうせんをむなしゅうするなかれ)
時非無范蠡(ときにはんれいなきにしもあらず)
がでてくる。

(七)で、再びこの詩の話がでてきて、「詩は、彼ではなく、大覚ノ宮がかいたものである」とでてきた。あれ?大塔ノ宮じゃなくて?!

ちょっと、ここで頭の整理。
大塔ノ宮は、後醍醐の息子。護良親王
大覚ノ宮は、後宇多院の息子で、後醍醐帝の兄。

私の記憶も間違っていたけれど、『後醍醐天皇』の記載もちょっと違う。まぁ、歴史の解釈は色々あるってことかな。。。

megureca.hatenablog.com

 

そして、尊氏軍は、海と陸とにわかれて東へ攻め上る。正成は、再び戦いへかりだされる。そんな戦乱の世から、できるだけ自分の大切な仲間を遠ざけようとする正成。正成とであって、即座にただならない人相を読み取って、「おやかた様の面をつくらせてくれ」と凄腕の面造り技師・赤鶴。正成の覚悟は、人相にもでていた。

正成は、「自分も出陣したい」といってきかない息子の正行を何とかなだめ、仲間の犠牲を最小限にしようと、限られた従者だけをつれて、再び戦いの場へ赴く。

とうとう、最後の戦いへ、、、、。湊川の戦い!!