『私本太平記(六)』 by 吉川英治

私本太平記(六)
吉川英治
吉川英治歴史時代文庫68
1990年4月11日 第1刷発行
1990年9月13日 第3刷発行

 

(五)の続き。

megureca.hatenablog.com

 

隠岐を脱出した後醍醐天皇が北条を倒し、京都に返り咲き。建武の新政をはじめたものの、世間には不平不満が蔓延しつつある。そんななか、朝廷に捕まった兼好法師の小僧・命松丸が佐々木道誉に命乞いに走ったところまでが(五)。

 

さぁ、建武の新政はどうなる?!?!

 

本の裏の説明には、
”なぜ、建武の新政が早くも 暗礁に乗り上げたのか。根本には、公卿は武家を蔑視し、武家は公卿を軽んじていたからである。それが端的に論功行賞にあらわれ、武家の不満は爆発した。武家は不平のやり場を尊氏に求めたが、この趨勢を心苦しく思っていたのが大塔ノ宮 だった。・・・尊氏を倒せ。 その作戦は宮のもとで練られていた。北条残党の蠢動は激しく、宮には絶好の時かと思われたが・・・・。” と。

 

目次

建武らくがき帖(つづき)

風花帖

 

(六)の主な登場人物
足利尊氏:後醍醐帝について、北条を倒す。しかし、朝廷の新政に不満をもつ武士たちが尊氏にさらなる改革を期待する。
佐々木道誉:命乞いに来た命松丸を助けるために朝廷の千種忠顕にかけあう。交渉は成立。楮幣(朝廷がつくった紙幣)を遊女たちにばらまき、市場に流通させるのを成功させる。かつては、北条高時に取り入り、今は後醍醐天皇に取り入っている。
足利直義:尊氏の弟。後醍醐帝の都奪還の後は、鎌倉を守る。
大塔ノ宮後醍醐天皇の息子。尊氏が、朝廷を裏切って、再度幕府を立てるつもりだと考え、尊氏と対立する。
新田義貞:大塔ノ宮と同じように、尊氏のやり方が気に入らない。打倒北条では尊氏と協力したけれど、元来足利家とは犬猿のなか。


(五)の終わりで、楮幣の問題で投獄された命松丸が、佐々木道誉のところに逃げ込んで、一緒に投獄されている人々の処刑をやめるようにと願い出る。道誉は、千種忠顕に、見せしめのように人を処刑しても朝廷への嫌悪感がたかまるばかりだ、といって、処刑をやめさせる。そして、問題となった楮幣が市井で使われるようになることをねらって、楮幣のバラまき作戦にでる。一度は、使われるようになった楮幣だったけれど、結局は価値が安定せず、混乱をもたらすだけとなってしまう。

他にも、戦後の褒章への不満、待遇への不満などはたかまりつつあり、このままでは新政はあやうい、、と、一番心配し、帝に諫めの言葉をつたえたのは万里小路藤房だった。しかし、後醍醐帝は、聞く耳をもたず、、、、。

 

そのころ、後醍醐帝のために文観僧正が、怪しい祈祷をしているあやしい僧として登場。千種によれば「今道鏡であり、ろくでもない奴だという評価。本書の中では、そういう僧がいた、ということだけででてきた。道鏡といえば、称徳天皇聖武天皇の娘)に引き立てられ、みずから天皇になろうとした、といわれる悪名高き僧。

 

そうしているうちにも、北条高時の弟・北条左近大夫泰家や、高時の次子・亀寿丸(時行)がどこかで復活を狙っていた。北条残党を抑えるためにと、尊氏は力を拡大していく。それを面白くないとみるのが大塔ノ宮。佐々木道誉は、どっちつかずで、よくわからない。一応、尊氏と距離はとりつつも、宮一味ともいいがたい、そんな立場を保っていた。尊氏は、六波羅で力を広げていく。尊氏の幕府復活を疑う大塔の宮は、後醍醐帝に尊氏討つべしと進言したことで、帝に廃除されてしまう。後醍醐帝は、自分の息子より尊氏を選んだのだ・・・・。かわいそうな大塔の宮。

 

このままでは、また、いつ戦乱の世にもどるかわからない。そんな不安定さを予期し、いかに平和な世の中にできるかと考えていた人物は、尊氏とほかにもう一人、楠木正成がいた。一度だけ、尊氏と正成は顔を合わせる機会がある。その時、互いに、この人こそは「人物」、と感じ合うのだった。

 

そして、北条時行の挙兵。鎌倉をまもっていた足利直義は、北条に圧されて鎌倉を逃げ出す。その時、直義は、鎌倉に幽閉していた大塔ノ宮を密かに斬るよう部下にいいつけるのだった。幽閉の身だとは言え、皇子をどさくさに紛れて殺害してしまったことは、後になにかとしこりを残す。鎌倉は、北条軍に占拠されてしまう。北条征伐のために、自分を征夷大将軍にしてくれと後醍醐帝に頼む尊氏。それは、再び幕府をつくるつもりだ、という嫌疑を朝廷内に生む。尊氏を追い出すべしという意見があるなか、尊氏に頼りたい後醍醐帝。そして、尊氏に「征東将軍」という名をあたえ、尊氏を鎌倉に向かわせる。

北条を倒した尊氏は、そのまま鎌倉に居座り政治をはじめるが、それを朝廷から責められてしまう。尊氏は、朝廷にも政治にも嫌悪を感じ、蟄居して浄光明寺に籠ってしまう。尊氏蟄居中、鎌倉の政治をまもったのは、直義だった。足利家による政治は鎌倉で力をつけていく。足利が大きな顔をしているのが気に入らない新田義貞

 

この状況を再び戦乱勃発と心配した楠木正成は、帝に「新田義貞を廃して、尊氏と和睦を」と薦めるが、公卿たちや帝にも却下されてしまう。また、それを耳にした新田義貞は、なんだとー!と怒る。どうも、この小説の中では新田義貞は「小者」として描かれている。私利私欲のために声高に自分の成果を言いふらす、、、。器が小さい、、、って感じ?

 

結局、新田義貞は官軍として鎌倉に攻め込む。さすがに、尊氏も蟄居中とは言っておられず、立ち上がる。新田軍は「錦の旗」を掲げることで多くの援軍をひきつれて鎌倉に攻めてきた。退却を余儀なくされる足利軍。多くは討ち死に。尊氏は直義が生きているのかさえ分からない。少なくなった味方とともに、退却し続ける足利軍。

京都も再び戦乱へ。新田、千種、名和、、官軍の痛手も大きかった。しかし、奥州の北畠の援軍により、官軍は流れを取り戻す。

官軍も、足利軍も、移動しながら、援軍を増やしたり、失ったりしていた。だれが、どっちの味方でどっちの敵なのかもなんだかごちゃまぜ。

 

そして、西へ西へと逃げた足利軍は、とうとう九州へ・・・。その間に尊氏は、新田義貞が錦の旗をかかげるならば、われらは持明院統の旗を掲げようと、持明院統を味方につけることに成功する。

 

まさに、建武3年。延元元年。それが、南北朝時代の始まり。

 

と、大混乱の中、足利軍は九州まで到着したのだ。しらなかった。そして、九州もこの南北朝の始まりの時期に大混乱の戦闘にまきこまれたのだ。

 

へぇ!!!そうだったの!!

知らなかったぁ。

そりゃ、教科書にこんな複雑な話は書けないわ、、、。

結末まであと二冊。どうなることか!!