私本太平記(四)
吉川英治
吉川英治歴史時代文庫65
1990年3月11日 第1刷発行
2012年2月3日 第28刷発行
(三)の続き。
裏の説明には、
”元弘三年は、また正慶二年でもあった。敵味方によって年号が違うのも異常なら、後醍醐帝が隠岐に配流という現実も、尋常の世とはいえない。眇(びょう)たる小島は風濤激化、俄然、政争の争点となった。不死鳥の如き楠木正成は、またも天嶮の千早城に拠って、五万の軍勢を金縛りに悩まし続けている。一方、去就を注目される足利高氏は、一族四千騎馬を率いて、不気味な西上を開始する。”
とある。
(三)では、後醍醐帝が隠岐に流されてしまったところまで。楠木正成は、赤坂城で城もろとも焼け死んだかとおもいきや、実は身を隠して次のチャンスを窺っている。佐々木道誉は、後醍醐帝にいい顔をしながらも、北条高時に怪しまれないように腹黒く立ち回る。そんなところまで。
そして、(四)では、とうとう後醍醐帝の隠岐脱出!!
これまで、後醍醐天皇といえば、「建武の新政」を失敗した独りよがりのお上、、、という印象しかなかったのだけれど、そこに至るまでには、隠岐への島流し、そして宮方を支持する公家たちによる島からの脱走!という一大劇があったのだ。その島からの脱走が、(四)の主な展開。
主な登場人物
・後醍醐天皇:幕府転覆をくわだてたとして、北条高時に隠岐へ配流されている。
・廉子:後醍醐天皇と共に隠岐に配流された女房3人のうち一番年上。3人のなかでは、自分が一番帝に頼りにされていると思っている。事実、後醍醐帝は、廉子には頭があがらなかった。
・小宰相:廉子同様、後醍醐帝に付き添っている女房。
・楠木正成:後醍醐帝に頼られて赤坂城で戦うが、戦死?とみせかけ、力を蓄えている。
・佐々木道誉:後醍醐帝に取り入ったり、北条高時に取り入ったり。足利高氏のことは、自分の立身出世に利用できるなら、うまく付き合いたいと思っている。
・足利高氏:北条方の妻をもらっているが、今の北条の政治ではダメだと思っている。後醍醐帝らの宮方を討伐するために高時から都へ向かうように言われるが、仮病をつかったりして、なんだかんだと鎌倉から動かずにいる。
幕府転覆に失敗した後醍醐帝は、千種忠顕、一条行房、三人の女房(廉子、小宰相、権大納言の局)と共に、隠岐に流される。しかし、一応は帝なので、ひどい扱いではないものの、なかなか自由はない島の暮らし。幕府は、まだ、宮方が幕府転覆を計画して後醍醐帝を助けに来ることを懸念して、帝らを隠岐のなかでもさらに寂しい離島へ移動させ、それぞれを別々に閉じ込めて監視する。
そこで、帝たちを監視していた能登ノ介清秋は、3人の女房のうち鎌倉の息のかかる小宰相だけに帝のもとへ通うことを許可する。小宰相は、帝の子供を宿す。
外からの接触は堅く禁じられていた帝だったけれど、ある時、外の僧侶からの差し入れの書物の中に暗号をみつけ、宮方が「島脱出」の計画を着々と進めているということを知る。後醍醐帝は、お手伝いの金若という島の童子を使って、このこと別々に隔離されている隠岐島にいる仲間に伝える。
帝らの処分について鎌倉からの指示を得るために能登ノ介が島を離れている間、ついに、島脱出計画は実行される。しかし、能登ノ介の予定外の早い帰島で、脱出がばれる!しかし、逆に宮方につかまり、帝に諭され、寝返る能登ノ介。
漁師を装って島にやってきた宮方の仲間に導かれ、全員、無事に船で島を脱出。しかし、海上で小宰相は、廉子に言いつけられた金若によって海に突き落とされてしまう・・・。帝の子供は産ませない、、、と。怖ろしや女の嫉妬・・・・。
後醍醐帝らは、本土につくと「伯耆(ほうき)」を目指す。その一行には、後醍醐帝の監視役だったはずの能登ノ介が、同行。他にも、続々と、宮の仲間たちはあつまってくるのだった。そして、楠木正成は千早城へ。
一方で、ちまたには後醍醐帝が島を脱出したらしいという噂が広がる。当時のことだから、当然、SNSでニュースが広がるわけではない・・・。人づてに、確かなのか、不確かなのか、でもどうやら脱出したことは間違いないらしい。。。と。その情報は北条高時の元にも届く。
高時は、鎌倉にいる武士たちに、即刻後醍醐成敗に西に向かうように指示する。高時にゴマすりしたい佐々木道誉は、これ見せよがしに派手な一隊で真っ先に鎌倉を出発。足利高氏は、なかなか、出兵しようとしない。業をにやした高時は、高氏を呼びつけ、即刻西へ向かうように命令する。しかも、妻と子供を人質として鎌倉に置いていけ、、、と。
高時に柔順な姿勢をしめし、何の懸念もないので妻子をおいてこれから出立すると宣言する高氏。そして、高氏の一隊は、西へ向かうのだった。
そして、弟直義らに「今こそ」と勧められ、北条に反旗を翻す決意を従者たちへ語る。連判は成立。皆、高氏に従った。後醍醐帝の宮方成敗に向かったはずの高氏一派は、一転、幕府の敵となる決意をかためたのだ。
途中、先に鎌倉を発った佐々木道誉は、もしかすると高氏を邪魔者として攻撃してくるかもしれない。そう案じる従者たちの声をおしのけ、高氏は、あえて一人で道誉のもとを訪れる。そして、「もう互いに、腹の底の腹巻は脱(と)ろうではないか」といって、鎌倉を倒し、帝につこうではないか、と、道誉を誘う。
緊張の一瞬!!
「勝算はあるのか?」ときく道誉に対して、
「なくてどうする」と答える高氏。
そして、ここに、足利高氏と佐々木道誉による、鎌倉に対する謀反計画が成立!
しかも、高氏は、藤夜叉と不知哉丸を道誉に預ける、、と言い出すのだった。
とうとう、足利尊氏立ち上がる!!!
と、ここまでが(四)
なるほどなるほど。
知らなかった歴史が見えてくる。
なかなか、楽しい、私本太平記。
なるほどねぇ。。。