マンガ日本の歴史 26
関白秀吉の検地と刀狩
石ノ森章太郎
中央公論社
1991年12月5日 初版印刷
1991年12月20日 初版発行
25巻では、織田信長の活躍と明智光秀の裏切り、本能寺の変での信長自決まで。26巻では、信長のあとをひきついだ秀吉。
目次
序章 秀吉、反転す
第一章 天下平定への出立
第二章 関白秀吉の誕生
第三章 太閤検地と蔵入地
第四章 刀狩=秀吉の平和令
1582年(天正10年)、中国計略のため西の毛利方を攻めにでていた秀吉は、明智から毛利への使者をとらえ、信長が本能寺(現在の京都市中京区)で死んだ(6月2日)ことを知る。毛利の清水宗治が切腹すれば兵は助けるという条件をだして、高松城を降伏させ、秀吉は姫路城に入る。
そのころ、家康は堺で本能寺の変をしり、 命からがら伊賀路の間道を通って領国三河へ逃れようとしていた。それを助けたのが、服部半蔵。 服部半蔵は、その後幕府の隠密職を務めることとなる。
信長配下の第一の武将・柴田勝家は、 北陸で上杉景虎と交戦中。
他の武将たちも、信長の仇討に動く余裕がなかった。
そんな中、 秀吉は姫路城で軍備を整え、1582年6月9日 光秀討伐に出兵。
およそ4万の秀吉軍と、1万6千の光秀軍は、山城国と摂津国の国境、 山崎の地で対峙する。そここそ、天王山を背負う古くからの要衝。
勝負の分かれ目を「天王山」というのは、この戦いからきている。
なんとしても、天王山を制圧するのじゃぁ~~!って。
光秀は打たれ、本能寺の門前にその首は晒された。
これにて 次の天下は秀吉、、、となる。
6月27日 尾張国・清洲城に織田家の重臣が集まり、信長の後継者と遺領分配を決める会議が行われた。このことで、秀吉と柴田勝家の対立がおこる。
秀吉は、信長の長男・信忠(信長とともに死亡)の子ども三法師(3才)が、正当な継承者だという。勝家は、信忠とは異母兄弟の信孝を推す。家康は、信忠の弟の信雄を推す。みな、それぞれに自分が操りやすい子どもの味方になろうとする。
結局、秀吉と勝家の対立は、賤ケ岳(しずがたけ)の闘いに発展。 加藤清正、福島正則、 片桐旦元を味方にした秀吉が勝家を破り、信孝を推していた勝家は妻としたお市(信長の妹、一度浅井家に嫁いだ)と自刃。
この時、秀吉とも勝家とも争いたくなかった前田利家は、参戦せず。
勝った秀吉は、調子に乗って、大坂築城を開始。 その後 1年半をかけて 完成した大坂城は 豪壮華麗で秀吉の死まで、全国の諸侯を威圧した。
本能寺の変の後、大きく飛躍した秀吉だったが、唯一思い通りにならないのが家康だった。そして、織田信雄の味方となっている家康は、秀吉との対決にでる。が、秀吉の甥・秀次は大敗北。小牧・長久手(ながくて)の合戦で、東西両軍が対峙する展開となり、 家康と戦いを続けることの 不利を悟った秀吉は 和平を申し入れる。
秀吉になびいていなかった他の地域も、徐々に秀吉の力が支配する。 四国の長宗我部元親もその1人だった。
1584年、 秀吉は従三位・権大納言となり、翌年正二位・ 内大臣に昇進。7月11日、ちゃっかり関白に就任。豊臣の姓を名乗ることとなる。木下→羽柴→豊臣、と、秀吉は姓を変えた。
秀吉は、自分に直結する政治機関としての奉行に、 浅野長政、 前田玄以、 増田長盛、 石田三成、 長束正家を任じる。家康は簡単には秀吉になびいてこなかった。
だんだんと、秀吉 vs 家康 の下地ができていく。
秀吉は、京都に豪華絢爛な館・聚楽第を建て、正親町天皇の孫にあたる和仁親王=後陽成天皇即位にあわせ、聚楽第への行幸をえる。
今はあとかたもない聚楽第。 イエズス会宣教師 ルイス・フロイスの記録によれば、広間も台所もどこもかしこも、金が塗られていたらしい。秀吉を成金趣味といわずして、なんという、、、、。
が、そんな中も、秀吉と家康の間での腹の探り合いはつづく。
秀吉が全国を管理するためにすすめたのが、検地。広さの確認だけでなく、土地を4等級に階級わけし、それぞれの土地にいる農民に耕作権を保証した。それは同時に、農民にとっては納税(年貢)の義務となった。兵農分離である。
土豪や地侍にとっては、農民が自分でかってに年貢をおさめるのは面白くない。各地で、検地反対一揆が起こる。だが、秀吉は、これを徹底的に弾圧した。
全国の石高をせっせと計算し、兵糧米などを調達していたのが、石田三成。かなり、細かい性格だったらしい。
また、このころ、石見銀山からは銀が、佐渡金山からは金が運上金として秀吉の元に運び込まれた。
秀吉は、「惣無事(そうぶじ)」を思いつく。天下平定のためには、いまだに各地でつづく小競り合いは秀吉にとっては面白くない。みんな、無事、みんな平和をねがい、「惣無事令」といって、大名間の一切の争いを禁じた。
そのころ、九州で大友宗麟と島津義久が争いを続けていたが、それは「惣無事令」に反することだった。秀吉は、和平を説くが義久はそれを断った。大友宗麟は、「島津が悪いんだも~ん」と秀吉に告げ口し、秀吉に「わしが島津を討伐してやる」と言わせる。
1587年、秀吉は九州に向かって京都を発つ。西国大名を中心に20万人の大群だった。だがその様子は、観光見物のようだった。途中、安芸国では厳島神社を詣でた。そして九州にたどり着いた秀吉軍は、大きな戦をすることなく来降者が続出し、義久も出家して降伏した。
勢いをます秀吉は、刀狩にて、さらなる兵農分離をすすめた。
九州平定ののち、関東にも「惣無事令」が出され、秀吉は従わない北条氏を攻める。籠城した北条氏に対して、秀吉は十分時間をかけた兵糧攻めをおこなう。これが、「小田原評定」の由来。
天王山、小田原評定、、、、秀吉由縁の言葉が今日も残っているがすごいことだ。
小田原での滞陣は三か月に及び、その間秀吉は自ら千利休を呼んで陣中茶会を催した。
その様子をみていた東北の伊達政宗は、伊達家と蘆名(あしな)家との会津領をめぐっての争いは、惣無事令に反することになっていたといって、秀吉にまかせると伝えに来る。
1590年、ついに北条氏は秀吉の軍門に下った。
その小田原城で、秀吉は家康に関東を納めるようにという。家康にとっては態のいい追放でしかなかった。だが、家康は秀吉の命に従って関東へ向かうこととなる。秀吉は、天下を取った気になって有頂天。小田原から富士山をながめつつ、京都に戻る。
と、26巻はまさに秀吉天下になっていく様子。
でも、結局のところ、調子に乗りすぎたんだなぁ、、、。