『将軍の世紀 上巻』 by 山内昌之  (その2)

将軍の世紀 上巻
パクス・トクガワナを築いた家康の戦略から遊王・家斉の爛熟まで
山内昌之
文藝春秋
2023年4月30日 第1刷発行 

 

昨日の続き。

 

目次

序章 関ヶ原

第1章 家康・秀忠

第2章 家光
第3章 家綱

第4章 綱吉
第5章 家宣・家継
第6章 吉宗
第7章 家重・家治
第8章 家斉

なるほどとスッキリしたことや、目からウロコだったこと、他の世界史の言葉からの引用などを覚書。

 

・家康は、かなりずるい手を使って豊臣家を滅ぼし、かつ朝廷の力をよわめるべく、後陽成天皇の譲位のタイミングを伸ばしに伸ばした。

 

・家光は、とんでもない暴君でもあった。周りの人が忖度しまくって何も言わなくなってしまう。

 

・紀元前7世紀ギリシア詩人アルキロコスの言葉。

「キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大きなことを一つだけ知っている」。イギリスの政治思想家アイザイア・バーリンの著書で有名になった比喩。

キツネはもともと臆病で、色々な方法を試したり、他社の意見に耳を傾ける。一方でハリネズミは、自身にあふれ我が道を進む。家康は、ハリネズミの鋭さを隠し、子供の時に駿河今川義元の人質になったときからキツネのように韜晦してきた、ということ。

 

「どの人間でも現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実だけを見るのだ」 カエサルの言葉。関ケ原の戦いで、家康からは本当は何の確約もないのに、家康を頼った毛利輝元を表す言葉として引用。

 

・家康は、関白となった秀吉と違って、禁裏の官位秩序の外に武家の官位をつくった。そのやり方は、源頼朝に近い。

 

柳川一件:国書改竄をめぐるお家騒動。家康が遠国から呼び寄せた対馬・宗氏の家老柳川豊前守智永を説明するくだりで出てきた。『韃靼の馬』を読んだ時には、史実だとは知らなかったので、ここで点と点がつながった!

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・江戸時代の儒学者・室鳩巣(むろきゅうそ)、万治元年2月26日(1658年3月29日) - 享保19年8月12日(1734年9月9日))。享保の改革を補佐。室鳩巣は、源氏物語伊勢物語「どこの世界で皇后と密通し、継母や寡婦となった兄嫁にみだらにふるまう人間を美化できるのだ」と批判した。おもしろい!!ほんと、源氏物語って、ただのロリコン、近親相関の異常な色欲のはなしじゃないのか?って私も時々思う。紫式部にはあってみたいって思うけど。

 

・江戸時代の将軍の食事は質素だった。天皇の方が豪華だった。そして、海外の皇帝の食事は日本の将軍よりはましだった、と。オスマン帝国のスルタンの食卓は、子羊料理、生サラダ、トルコ式ラヴィオリ「マントゥ」、スープ、デザート、、、などなど。

「マントゥ」がでてきた!ウズベキスタンでたべてきた「マンティ」のこと!

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天網恢恢疎にして漏らさず:天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。後陽成天皇が激怒した男女の乱れから追放されて、逃げおおせなかった人々に対して。

 

・スコラ哲学者トマス・アクィナスの言葉。

世代の交代によって或るものが他のものに取って代わることは神の統治が指し示すところであるが、それと同様に王の治下にある民衆の善を、不在となっている後継者を巧みに供給することによって守護するのも王の課題に属する

徳川家康が成功し、豊臣秀吉が失敗したことも、この言葉に当てはまる、と。

 

細川忠興のことば「角なるものに、丸き蓋をしたるよう」にすればいい。徳川家康のことば「天下の政は重箱を擂粉木にて洗ひ候がよろしき」。どちらも、国政は些細なことには干渉せずに大目に見るくらいがいい、、、と。

細川忠興の父、細川幽斎こと藤孝は、明智光秀とともに織田信長に仕えた人。

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「ここがロドスだ、ここで跳べ」イソップ物語から、マルクスが『資本論』で引用。秀忠が大阪夏の陣の際「此時にて候」といった言葉への比喩。

 

・秀忠と家康がつくった『禁中并公家中諸法度』で、幕府への大政委任については積極的には書かれていなかったのではないか。というのが最近の研究者の見解。

 

伊達政宗は、フランシスコ会と手を組んで、公儀転覆をはかろうとしている、という風説もあった。当時30万人のキリスト教徒がいたとされる。かれらの頭となり謀反を起こすために、支倉常長をスペインに派遣したのではないか、とも。

 

・秀忠は、忍耐力のある将軍だった。それは、第四代カリフのアリーを助けたサフル・イブン・カイがアリーの従者らに説いた忍耐力と似ている。

 

雍歯封侯(ようしほうこう):前漢の高祖(劉邦)が一番嫌いな雍歯を褒めて侯に封じた居士。部下をなだめ安心させるためにはまず嫌いな者を抜擢すること。武家の中でも、たとえ父子の間でも、、、、。

 

・「国のさわぎ六ヶ敷(むっかしき)は、何時も寅卯にあり候」榎本弥左衛門の言葉。厄介な出来事が、寅年、卯年に多かった。

 1590年 天正18年寅:秀吉の小田原包囲戦

 1614年 慶長19年寅、1615年 元和元年:大阪冬夏の陣

 1638年 寛永15年寅:天草の陣

他にも、洪水、家光の死などなど、、。家光の死は、多くの殉死者があったことから、クローズアップされた。

 

・1657年明暦3年正月:明暦の大火江戸城本丸、二の丸、大名屋敷、旗本屋敷、寺社、町人住居、、、江戸の町は、6割が灰となった。幕府機能は麻痺、物流の停滞。市街地の再建で、橋の拡張など。

 

・五代綱吉は、「生類憐みの令」で有名だけれど、ほんとに悪政だった。柳沢吉保とか、優秀な 側用人はいたけれど。かつ、贅沢品の贈答文化を作って財政破綻まで引き起こした。日本の付け届け文化は、綱吉にあるか?!

 

・田沼政治は、賄賂政治といわれるけれど、政治的には重要な発展もあった。一方の発平定信は、清廉潔白な老中のイメージがあるけれど、盆暮れの挨拶などは構わないとして受け取っていた。

 

・田沼政治にとどめを刺したのは、天明大飢饉と浅間山噴火

 

徳川幕府の崩壊の始まりは、家斉時代から。浪費の家斉とその大奥。家斉は、18人の妻妾との間に、55人の男女をもうけた。子供が55人って、、、、どんだけドンファン

 

・幕府財政のひっ迫は、松平定信が倹約によって回復につとめたけれど、定信が退任すると財政事情は再び悪化・・・。

 

寛政の改革松平定信)期、火付盗賊改本役、長谷川平蔵宜以が活躍。人足寄場を創設した。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公

 

本居宣長『玉くしげ』。宝暦・明和事件で揺らいだ幕府の統治の正統性を強化することとなった。宝暦・明和事件とは、幕府による尊王論者弾圧事件。宣長の思想は、

天照大御神→禁裏(天皇)→東照宮御祖命(家康)→大将軍家→御大名家

 

本居宣長は、幕府には『玉くしげ』、禁裏には『古事記伝』を奉呈した。それは、それぞれに都合のよいものを奉呈したという政治家的側面もあったことを示す。

 

天明8年(1788)、京都の大火。御所と二条城を含めて1424町に延焼。公儀の武威に関わる大事件。

 

阿部正弘は、大奥の力の大きさも知っていた。家斉以降の将軍権力は、御三卿や御三家より、大奥の影響が大きくなっていた。かつ、多くにおける経費も莫大になっていた。

 

「肯綮にあたっている」:ものごとの最も重要な点をとらえることのたとえ。 

松平定信が、鎖国が外交原理として祖法として定義したかのようになったことをうけての表現ででていた。『教養としての上級語彙』で、あまり耳馴染みのないことばだとおもったけれど、こんなところで登場した。

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・フェートン号事件:1808年。英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、オランダ商館員から食糧・薪水を奪った事件。 ナポレオン戦争における英・蘭の対立の結果である。 長崎奉行松平康英は責任をとって切腹した。

本書の中では、オランダ商館の意気地なさは問題にならないのか!と憤っている。そして、長崎奉行切腹したのをみて、普段温厚な日本人が名誉や面子をつぶされ激昂すると、人格が変容するのを外国人は恐れた。

 

大塩平八郎の乱は、幕府内部からの乱であり、腐敗まみれの家斉政権を脅かし幕府瓦解を促すには十分に目的を達成した。

 

上巻の一番で印象深かったのは、家光、綱吉、家斉がどれほどひどい将軍だったか、ということ。家光、綱吉は、締め付けによる恐怖政治。家斉はただの浪費家。家斉は、1787年 - 1837と50年も将軍でいながら、平和ボケを国中にはびこらせた、、、というところだろうか。いやはや、農民はせっせと働いていたはずだ。でも、戦のない時代は、平和ボケもいたしかたなし、、、かもしれない。

 

まぁ、とにかく充実した一冊。でもすでに家斉の時代まで。同じ厚さでの下巻が待っている。続きはまたいずれ・・・。