『等伯(下)』  by 安部龍太郎

等伯(下)
安部龍太郎
日経新聞出版社
2012年9月14日 第1刷
2013年1月24日 第8刷
*初出 日本経済新聞朝刊 2011年1月22日~2012年5月13日。単行本化にあたり加筆修正しました。

 
(上)の続き。

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信長が死んで、秀吉の時代になったことで信春が自由の身となったところまでが上。

表紙裏の説明には、
”都で地歩を固め、信長が重用した狩野永徳と対決。 長男・久蔵の狩野入りと秀吉の朝鮮出兵を巡り、英徳の死後、両派の確執は深まる。 「松林図」はなぜ描かれたのか。”

とある。

 

怒濤の展開で、絵師としての活躍の場を広げていく信春。(下)では、その晩年の新たな歩みと人生の苦悩・・・。

 

文春文庫の本の説明には、

”敵対していた信長が没して不安から解放された等伯だが、その後も永徳を頭とする狩野派との対立、心の師・千利休の自刃、息子の死など、度重なる悲劇に見舞われる。窮地に立たされながら、それでも己の道を信じた彼が、最後にたどりついた境地とは、、、。直木賞受賞、長谷川等伯の生涯を骨太に描いた傑作長編。”とある。

 

感想。
やっぱり、面白かった。
一気読み。
こういう歴史時代小説は、基本的には時系列に物語が展開するから、わかりやすいし、流れにのって一気に読みたくなる。歴史の基礎知識があれば、尚いいのだろう。秀吉の時代となって、「聚楽第」の襖絵をはじめ、大きな仕事を狩野派 vs 信春が競いあうのが下巻でのメインイベントになる。「聚楽第」は、秀吉が後陽成天皇を取り込むために作った豪華絢爛な建物。でも、私は、全国通訳案内士の受験対策に日本史を勉強するまで、名前すら頭になかった。とにかく豪華絢爛だったらしい。秀吉がなかなか子供ができなかったので、晩年にできた鶴松を溺愛したこと、その鶴松が3歳で夭逝してしまったこと、これは、なんとなく知っていたけれど、そのことが石田三成淀君(鶴松の母・浅井ちゃちゃ)の一派と加藤清正武断派との豊臣内分裂を生んでいた、ということはよく理解していなかった。

また、秀吉が千利休切腹に追い込むまでのごたごたに、等伯も巻き込まれていく。秀吉のワンマン、悪人ぶりが際立つ。

 

以下、ネタバレあり。

 

本書の中では、織田信長豊臣秀吉石田三成、それに狩野永徳も、かなり人の悪い人物として描かれる。信長は、魔王だし、秀吉は信長亡きあとには永徳に信長の肖像画を辛気臭く書き直させるなど、わがまま放題。永徳は自分の絵を修正させられたことをきっかけに、人として扱いづらい癇癪もちになってしまった。三成は武芸の腕がわるくて悪智恵ばかりをはたらかせて秀吉や淀に取り入る。永徳の陰湿な等伯に対する嫌がらせは、巨大となった「狩野派」を背負った人の悲しさであるとしながらも、これから狩野永徳の絵をみても、ちょっとうがった目で見てしまうかも、、、という思いを抱かずにはいられない。

 

秀吉の時代となって、ようやく自由の身となった信春は、かつて上洛した際に身をかくまってもらい、扇子絵師としてはたらいていた老夫婦から店を譲られ、「能登屋」として新しく絵を書き、商売を始める。息子の久蔵も「長谷川派を旗揚げしましょう」といって、一緒に絵師としての腕をふるっていた。


そのころ、秀吉は聚楽第をつくることになり、その襖絵は狩野一派が仕事をうけることとなる。だが、信春の師匠にあたる狩野松栄(永徳の父)は、信春に、永徳を手伝ってやってくれ、という。松栄は、狩野派等伯がいがみあうことをなんとか止めたいとおもっているのだった。永徳は信春に手伝われるのは気に入らないので、絵で勝負することとなり、勝負は引き分け。結局は、信春と久蔵が、一緒に手伝うことになる。

 

素晴らしい襖絵が出来上がり、秀吉は大満足。そして、ある日、永徳が信春の元を訪れ、「久蔵を弟子にしたい」といってくる。人柄に問題ありとはいえ、永徳の絵の実力をみとめている等伯は「久蔵の勉強になるのなら」と久蔵を送り出す。でも、それは、長谷川派を大きくさせないための狩野派の作戦だった。後に、久蔵を返してもらうのに、苦労することとなる。久蔵は、永徳の元でめきめきと腕をあげる。でもそれはあくまでも狩野派の絵だった。久蔵自身もそれを自覚する絵師としての才能があった。

 

その後も、大きな仕事をめぐって、たびたび狩野永徳と対立する。あるときは、すでに信春に決まっていた仕事を、あとから狩野派がお金をつかって横取りしたことがわかり、信春が永徳のもとへ怒鳴りこみに行く場面まで。でも、いかにも狩野派のやり方は卑怯だった。でも、等伯もお金でなんとかしようとしたことがないわけではなかった・・・。ただ、永徳も、信長に仕え、秀吉につかえ、、、つらかったのだ・・・。そして、永徳は体調を崩し、亡くなってしまう。

 

絵を通じて、信春の人脈は広がっていく。利休や宗園ともしばしばお茶を共にする仲となり、「等白」という名前を使うようにいわれ、そのころから等白となのるようになる。後に、利休から「人」を加えた「等伯」を名づけられ、以降、等伯となる。

 

等伯の店はどんどん繁盛し、帳簿管理がおいつかなくなる。そこに、手伝いに来てくれたのが、かつて堺で世話になった商家・油屋の清子だった。子供ができないといって離縁され、油屋にもどっていた清子は、信春の後妻となる。そして、子供を授かるのだった。久蔵には、弟ができた。


秀吉は、聚楽第を成功させると今度は朝鮮出兵をめざす。やりたい放題の秀吉に、世間はだんだん秀吉の悪口をいうようになる。そして、それを利用して利休をおとしいれたのが石田三成だった。利休に死罪を言い渡す秀吉。利休の首が切られたことを知り、動転する等伯・・・。

三成は、鶴松を担ぎ上げて、立身をめざしていたが、その鶴松が3歳で突然亡くなってしまう。人々は、利休の祟りだと口々にいうのだった。秀吉は、その祟りを鎮めるために、あえて鶴松を祀る祥雲寺に「等伯の絵」を飾りたい、というのだった。利休と等伯が親しかったことを知っての依頼だった。そして、狩野派からなんとか返してもらった久蔵と二人で、襖絵を完成させる。いまでは、「智積院の襖絵」として知られている。

 

そういえば、昨年、等伯がみたくてサントリー美術館に行ったとき、久蔵と二人の作品もあった。

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その後も、狩野派等伯との仕事の取り合いは続く。そして、秀吉にいわれて名護屋城へ絵を描きにいっていた久蔵は、狩野派の陰謀で崩れた足場から落ちて命を落としてしまう・・・・。

なんということ・・・・。

 

その陰謀について、等伯には狩野派の仕業だというたしかな証拠をつかんだが、狩野派は「事故」であり、不注意で事故をおこした久蔵に全ての罪をかぶせた。秀吉に、久蔵の無実を、そして狩野派の陰謀をうったえる等伯だったが、利休と同じように秀吉をなじるようなことを口にしたために、逆鱗に触れる。「狼藉者をかたずけろ!」と。そこを救ったのは、出家した近衛前久だった。等伯を切り捨てるといってきかない秀吉に、「これほどの絵をかける人物は他にない」といって、思いとどまらせるのだった。そして、それほどの腕だというなら、絵で証明してみよ、さもなくば処刑、、、といわれる。

 

そして、苦しみぬいた上に等伯がたどり着いた水墨画が、「松林図」だったのだ・・・・。それは、何度も描こうとした水墨画だった。でも、ずっとかけずにいた水墨画が、とうとう完成した。清子に言われて家をでて、妙法寺にこもって3日間、寝食をわすれて描き上げたのだった。故郷の七尾の思い出が等伯を「松林図」の完成に導いたのだった。

 

絵は、秀吉が新たに移った伏見城で発表となった。豪華絢爛な金碧障壁画がならぶなか、大広間で等伯の描いた屏風が開かれる。

「縦五尺二寸、横十一尺八寸の六曲一双の屏風をたてると、霧におおわれた松林が忽然と姿をあらわした。霧は風に吹かれて刻々と動き、幽玄の彼方へ人の心をいざなっていく。」

大広間は寂として声もしない。。。そこにいたすべての人たちが、魂を奪われたように松林図に見入るのだった。そして、

「絵描き、褒めてとらす」と秀吉は等伯に歩み寄って、久蔵の件も忘れてはいないといい、手ずから盃をわたした。

 

それから、16年。最後は、等伯72歳、清子との間にうまれた二人の息子、宗也と左近に長谷川派を託しつつ、平和に暮らしている様子で終わる。


いやぁ、、、等伯って、こんなに激しい性格だったんだ。。。

 

松林図にそんな苦悩が隠されていたとは、、、、。私は、等伯の絵を水墨画から知った。だから、狩野派と競っていた豪華絢爛な絵は、あとから知ったのだけれど、等伯の絵の歴史としては先に豪華絢爛があって、水墨画にいきついたのだ。

 

私は、水墨画が好きだ。

山水図、隠遁生活、、、、。

 

いつの日か、本物の国宝『松林図』をみてみたい。東京国立博物館も、もったいぶらずに、どんどん見せてくれればいいのに・・・。

 

等伯』、戦国時代の流れを知るにも、お薦め。

読書は、楽しい。