米原万里さんの「通訳」という仕事に対する表現は様々だけど、
「えらくない「私」が一番自由」 米原万里 佐藤優編 文春文庫
2016年4月10日初版
から。
心に響いたことを、覚書。
(「東京外語会会報」1995年3月号)からのインタビュー記事の一部。
米原さん:
「通訳って、話し手の口となり、聞き手の耳になって、この二人の主人に仕える従僕みたいなもの、自分というものを押し殺していかなくてはならないところがある。本来、自分の思想や自分の感情を整理したり、伝えたりするためにあるはずの言語駆使能力を一時的ではあるものの、他人様に従属させなくてはならない。
自意識過剰で自己表現を求めてやまないたちの私には、まったく不向きな商売と思っていました。
しかし、不思議なことに、「両者のコミュニケーションは私がいて初めて成立している」と実感する瞬間、狭量な自我が二つの異なる宇宙をつなげる、より広大な世界に拡散されるような吸収されるような快感があるのです。古代ギリシャでは通訳者のことを神々と人間とのコミュニケーションをとり持ったヘルメス神Heemes にちなんでHermeneutiesと呼んでいたそうですが、ときどき、これは恐山の霊媒の恍惚感に通じるものかもしれないと思うことがあります。これは自分が取り持った両者が理解し合えた、お友達になったという意味だけの狭義のコミュニケーションの成立ではありません。話が通じた結果、両者が険悪な関係になることだってあります。でも地理的にも離れ、異なる歴史を歩んできた国の人々が、異なる文化と発想法を背景にしたそれぞれの言語で表現しながら、それでも通じ合っているそのこと自体が奇跡的に思えてならないのです。そして異なるからこそ共通点を見出した時の喜びは大きい。他の民族に対して自国の言語を押し付けたり、あるいは逆に強国に迎合して自国語をないがしろにしている人々には、この感動は永遠に訪れないでしょうね。通じる瞬間のとてつもない歓喜を一度は味わうと病みつきになってしまうんです。」
通訳という仕事は、翻訳とは違って、その場で待ったなしで、言語Aインプットー>言語変換⇒言語Bアウトプット、をしなくてはいけない仕事。
インプットできる正しいヒアリング能力、アウトプットで相手に理解させる正しい発話能力に加えて、言葉に対して言語変換ができなくてはいけない。発話はもごもごしていて聴き取りにくいのは母国語で話していても、ストレスを与える。
そういえば、菅さんも総理になって、発話訓練を受けたらしい。
もごもごしゃべりが改善されたとか。
言語変換。日常で使わない専門用語は、自分の頭の辞書にない限り、変換することはできない。
そのために、担当する会議に合わせた知識のインプットも必要だし、スピードも求められる。
同時通訳って、本当に神がかったコミュニケーション能力だと思う。
先日、私自身の通訳の先生からも、
「自分を消すのよ。シャーマニズムね。相手に魂を乗り移らせれば自己が無くなるから壇上で緊張もしなくなるのよ。自分じゃないんだから。」と。。。
先生も神の域だ。。。
米原さんは、通訳に必要な資質として、
「ストレスに耐えられる図太い神経と頑丈な心臓」
「時間的制約ゆえに最高最良の役の代わりに次善の役で我慢する妥協の精神が必要」
ともおっしゃっている。
同時通訳者は、作業中の10分、20分、ずっと心拍数は160を記録し続ける、、、といっている。強靭な心臓が必要なわけだ。
「尿」という単語がでてこなければ、「小便」「オシッコ」「液体排泄物」と言ってしまう機転と、いささかの勇気が求められている。と。。
さて、もともと、通訳を職業にするつもりはなかったのだが、本気で勉強する気になっている今日この頃。帰国子女でもないし、英語ペラペラでもないけど、誰かと誰かのコミュニケーションの橋渡しができるなら、私にとっても喜びになりそうだ。
知らない世界について、勉強できるのも楽しい。
たまたま、英語を再び勉強し始めた時期と、米原万里さんを知る時期が重なって、偶然が私にこれからの学びの楽しさを増やしてくれた。
そうそう、「えらくない「私」が一番自由」にでてきた、いい!!とおもったフレーズもう一つ。
「知らなかった?偶然って、神様の別名なのよ!」
そう、偶然も神様。通訳も神様。
シャーマンになろう。