禅の言葉 「趙州の三転語」

「趙州の三転語」

今朝教えて頂いた、禅の言葉。

 

「趙州(じょうしゅう)の三転語(さんてんご)」

趙州(じょうしゅう)という、中国・唐時代の偉大な禅の僧侶の言葉。
碧巌録(へきがんろく)の公案から。

 

公案
「泥仏(でいぶつ)水を渡らず」
「金仏(きんぶつ)炉(ろ)を渡らず」
「木仏(もくぶつ)火を渡らず」

 

【意味】
泥で作った仏様は、水を渡れない。
水に浸かって、ドロドロ溶けてしまう。

金で作った仏様は、炉を渡れない。
炉で、ドロドロ溶けてしまう。

木で作った仏さまは、火を渡れない。
炉でメラメラと燃えてしまう。


仏=真理、とは、そんなものではない。

 

くわえて、趙州は、「真仏(しんぶつ)屋裏(おくり)に坐(ざ)す」とも言ったという。

 

単なる仏像をイメージすると、ただ、どこかの奥に置いていたのでは、時が来ればどさっと崩れてしまう。
仏とは、そのようなものではない。

 

ある時は月になり、ある時は水になる。

 

「転語(てんご)」というのは、「迷いを転じて悟りに至らしめる言葉」ということだそうだ。

三つの迷い、泥仏・金仏・木仏。

それのどれでもないのが、仏。

 

真仏(しんぶつ)屋裏(おくり)に坐(ざ)す」

真理というのは、人が手をあわせて拝んでいる仏像ではなく、それぞれの人の心のなかに、どっかと坐っているもの

 

そういう事。

 

Anything essential is invisible to the eyes. (サン・テグジュペリ

 ”心で見なければものごとはよく見えないってこと。 大切なことは目に見えないんだよ。”

星の王子様は、知っていたんだね。

 

今朝の坐禅は、いつもの30分より短く感じた。

そういう日もある。

 

そういえば、マインドフルネスや瞑想と坐禅の違いは、目をつぶるかどうか、、、ってことでいいらしい。

坐禅は、視界に色々入ってくる中でも、自分の呼吸だけに集中すること。

半眼という、半分目を伏せたような視線で坐るのが坐禅

何かを見るわけではなく、特に焦点を合わせることなく、少し先の床に視線を落とす感じ。

だから、目をつぶるより、無になるのが難しい。

視界というのは、それだけ色々な情報を脳にインプットしてしまうのだ。

 

本堂の畳の上で坐禅をしていると、畳の繊維の線が、だんだん、海に見えてくる。

深さの分からない、海の底のようにみえてくることがある。

見えてはいけないのだ。

本当は、何が視界に入っても、それが何であるとか判断する脳を使ってはいけないのだ。

まだ、そんな無の境地になったことは無い。。。

 

もしも、無になったとしたら、それはうっかり眠りに落ちかけているときだ・・・・・。

 

ま、そんなでもいいじゃない。

心静かになれる時を持つのが大切。

 

ってことで。

 

今日は、11月11日。

ぞろ目だ。

1111。

いいこと、いっぱい、あるような気がする。