今朝教えていただいた、禅の言葉。
「紅炉上一点の雪」
こうろじょう いってん の ゆき
『碧眼録』第69則垂示
戦国時代、川中島の戦いのときのお話。
禅のピークの時代で、上杉謙信、武田信玄は深く禅の修行をしていた。
上杉謙信は、自ら武田軍の本陣に攻め入り、
「如何なるか是れ 剣刃上の事」 (いかなるかこれ けんにんじょうのこと)
と発して、武田信玄に、太刀で斬りつける。
すると信玄は、刀を鉄扇で振り払い、
「紅炉上一点の雪」(こうろじょういってんのゆき)
と返したと云う。
この言葉の出展は、『碧眼録』第69則垂示
啗啄(たんたく)の無き処、祖師(そし)の心印(しんいん)、
状(かたち)、鉄牛(てつぎゅう)の機に似たり。
荊棘林(けいきょくりん)を透る衲僧家(どうそうか)、紅炉上一点の雪の如し。
(意訳):
言葉では言い表せない世界、大きな世界だが、敢えて言うと祖師のこころ(釈迦の悟り)は、大きな鉄の牛の如し。
(黄河が氾濫するのに防ぐために、鉄の牛の像を川にまたがらせたという。)
どうしようもないほど、なんでもはねのける、それが釈迦の心。
迷いのない心。
一方で、難しい公案を透る(修行をする)修行僧の心は、真っ赤に燃える炉の上においた雪がさっときえるような、消えて跡がなくなる火中の雪の如し。雪は迷いもなく溶けていく。
鉄牛と、紅炉上の雪は、おなじもの、という前提。
迷いのないこと。
禅の修行をうけて戦った二人。生死を越えて戦った二人。
その心が、一点の迷いも無い、ということ。
集中して取り組めば、迷いや煩悩など消えていく、という教え。
人生、煩悩や迷いだらけだけど、
せめて坐禅の時間だけでも、一転の迷いも無く、無の境地に至れたら、、、と思う。
集中できないのは、あれこれ、迷っているからだ。
本を読むなら、本を読む、
新聞を読むなら、新聞を読む、
勉強するなら、勉強する。
掃除するなら、掃除する。
でも、何かをやりながら、他のことも頭に浮かんでしまう。
集中していない。
「四十にして惑わず」どころか、
50歳を過ぎても、迷いだらけだ。
それでも、週に一度、30分くらい坐禅していると、
そのうち5分くらいは、惑わずにいられる時間ができてきたような気が、、、
しなくもない。
けど、無になることを意識していること自体、無じゃないのだ。
人生、集中していないなぁ、と思う。
7月に、資格試験を受けるのに勉強していた時は、集中している時間があった。
ひとつ、目の前の目標が過ぎてしまうと、また、人生迷っている。
サラリーマンの時は、目の前の仕事には集中していた。
サラリーマンを辞めた今、自分のやるべきことは、自分で見つけるしかない。
いま、自分が集中すべきものが何なのか、わかっていないから迷っている。
自分のすべきことがわかるというのが、
「惑わず」なんだろう。
まだまだ、自分が人生後半でやりとげたいことがわからない。
でも、死ぬまでフローで生きていきたい。
マネージャーではなく、クリエーターでいたいと思う。
だから、勉強は続けよう。
30分で、集中して取り組んでみよう。
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。