禅の言葉 「応無所住 而生其心」(オウムショジュウ ニショウゴシン)

今朝教えていただいた、禅の言葉。

 

応無所住 而生其心
オウムショジュウ ニショウゴシン

 

応(まさ)に住(じゅう)する所(ところ)無くして、而(しか)して其の心を生ず

 

「住する」とは、「心をとどめる」ということ。
心は、とどまるところが無くて、天地いっぱいに広がる。宇宙いっぱいに広がる。
どこにも、住さない。どこにも、とどめない。
天地いっぱいに広がると、心は生き生きと、その真価を発揮する。

つねに、心の状態が、新しいもの、その瞬間に反応する。
執着しない。

ということ。

幼い子供の無邪気な心、下心や魂胆なんてない、まっさらな心。
うれしいことにはうれしいと、悲しいことには悲しいと、ただ、そのままに受け取る心。

それが、心の真価。
ということ。

なるほど。
まっさらな心でいたいものだ。

 

さて、私の心はどこにあるか、、、、。
あちこちに、留め置かれているような気がする。

 

あれもしたい、これもしたい。
あれも食べたい、これも食べたい。
あの本を読みたい、この本を読みたい。
あそこに行きたい、ここに行きたい。
あれも呑みたい、これも呑みたい。
あれを知りたい、これを知りたい。

やりたいことがたくさんある。

ただ、物欲はあまりない。
まぁ、それでいいか、、、と思う。


「地位財」という言葉がある。

もともと、経済学者で米コーネル大学教授のロバート・フランクさんが定義した言葉という事だが、「捨てる技術」みたいな話で、頻出の言葉。

「地位財」とは、他人との比較によって満足が得られるもの。例えば、お金、社会的地位、モノなど。モノ、といっても、ただモノがあればいいのではなく、車なら、高級車。腕時計なら、高級時計。

車の主な機能は、移動手段。であれば、充分な収納力のトランクルームがあり、適度な広さで快適に移動できる『トヨタ カローラ』、今どきなら『プリウス』でも十分だ。でも、自動車市場には、外国産高級車もあれば、『レクサス』のような高級車もある。

腕時計なら、時間が分かればいい。であれば、1000円のカシオ時計でも充分だ。でも、『ロレックス』があり、『グランド・セイコー』がある。ダイヤモンドキラキラの『ショーメ』も『オメガ』も。200万円もする時計が、なぜ必要なのか???中には、1000万円以上の時計だってある。

 

と、『レクサス』や『ロレックス』は、中でも自分が高給取り(あるいは金持ちの御曹司?!)であることを表現する地位財、というわけだ。
機能ではなく、ブランドを買っている。
まぁ、『レクサス』に至っては、機能も『カローラ』とは異なるだろうが。。。
それを、身に着け、使用することで、自分はなにがしかの者である、と世間に表現している。

一方で、「非地位財」と言われるのは、健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境、自由、愛情、など。


「地位財」も、「非地位財」も、執着するという事はあるだろうけれど、地位財の中でも、他人に比べてより地位が高く見える(感じる)象徴のようなものへお金を使うということが、私にはすっかりなくなってしまった。

 

1980年代後半、バブル期に大学生だった私は、それはそれなりにファッションにも遊びにも地位財を求めていた。たいしてお金もないのに。その流れで、社会人になっても、地位財への執着があった時期もあるけれど、いつのまにか、ブランドへのこだわりは、どうでもよくなっていた。

 

もちろん、高級品であっても、それだけの品質・価値のあるもので、他に代替品が無く、自分が気に入れば購入することはある。でも、ここ数年は、大きな「モノ」の買い物をした記憶がない。

数年前、素敵な万年筆が目にとまり、10万円の万年筆を買おうかと、、、迷ったこともあったのだが、やはり、万年筆は重いし、機能性を考えたら、、、100円の水性ボールペンを愛用している。何か、今目標にしていることが達成できたら、自分へのご褒美に買うかもしれない・・・。

 

時計は、『グランド・セイコー』も『オメガ』も、ダイヤモンド付きのキラキラ時計をしていたこともあるけれど、いまでは、3万円弱のスマートウォッチだ。
最近、『オメガ』を使うのは、スマートウォッチの使用が禁止されている、TOEICの試験会場くらいか?!

スマートウォッチなら、万歩計・心拍数計測・睡眠計測・温度、気圧、、、色々、時間を確認する以上の機能がある。『オメガ』より、よっぽど便利だ。


心をどこにもとどめない、というが、私は、まだまだやりたいことには、心をとどめたいと思う。ただ、モノには執着しすぎないようにしたい。
実際には、いろいろ、捨てられない執着は、あるけれど。
本とか、食器とか、、、、、。

 

心はいつでも、新しいものを受け入れる余裕が欲しい、と思う。
勉強も遊びも、目の前に見えている事柄だけにとらわれると、他の新しい世界に対して自分のアンテナが立たなくなる。

いつでも、アンテナをたてられる心の余裕、それが欲しいと思う。
欲しい、って、これも執着か?!


今、自分が欲しているのは、本当に自分が欲していることなのか、世間体を考えるとあったほうがいいと思っていることなのか、時々、自省することは必要だと思う。

人に自慢するためのモノなら、いらない。
インスタ映えさせるための経験なら、いらない。

 

自分の人生を、自分の価値観の軸で選択できるようになると、人生はぐっと楽になる気がする。

 

やっぱり、
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

 

心は、自由にしておこう。 

と、そんなことに思い至った、今日の禅の言葉。