「言志四録」 佐藤一斎:10 本心あるを認めよ

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

今日は、言志四録から。

10 本心あるを認めよ

10 本心あるを認めよ

学者は当に先ず自ら己れの心有るを認むべし。而(しか)る後に存養(そんよう)に力を得(う)。又当に自ら己れの心無きを認むべし。而る後に存養に効を見る。

訳文
聖人を志して学問をする人は、まず自分自ら自分に本心、本性のあることを認めなければならない。この本心を操守(そうしゅ)して失わないように修養してこそ向上に資する力を得るのである。同時に、以上の修養によって、自我心または我欲というものは本心ではないことを認め得るのである。かくして後に始めて本心の存養に真の効果が現れてくる。(もしそういでないと、本心が我欲のために昏くされてしまう。)

語義
存養:『孟子』尽心上篇に「其の心を存し、其の性を養うは、天に事(つか)うる所以なり」とある。存は操守して失わないこと。養は性の善に順い、これを養って害しないこと。

付記
本文は聖人の道を学ぶものには大問題である。ここに書いてあることが本当にわかるのは聖人か或いは仏教でいう悟りを開いた人であろう。特に本心とは何か、この心の本体を究明するのが「禅」である。

はて???
ぜ~~~んぜん、わからない。
聖人の道をまなぶものではないから、いっか、、、、。
う~~ん、でも気になる。

本心とはなにか?
それを究明するのが、禅だと??

坐禅は自分を見つめる時間。
そうしていると、本心がなにかわかるのか???

はてな」だらけの、「本心あるを認めよ」。

自分の中にある、我欲でないものの存在を認めなさい、ってことかな。
素直になって、赤ちゃんのようなまっさらな気持ちで、自分の中の素直な気持ちの存在を認めなさい、ってことかな。

大人なんだから、とか、女なんだから、とか、日本人なんだから、とか、、、、そういう執着というのか、囚われた考えを一切すてて、まっさらな自分の心が自分の中にあることをわすれてはいけない、、、ってそういうことかな。 

 

確かに、それを認めるのって、大人になるほどに難しいことかもしれない。

 

日常をはなれて、旅に出たときのリフレッシュする感じが、素になるって感じかな。

 

地球人になる。

素直になると言うのは、そういう感覚に近いかも。

 

そして、本心と言うのは、もともとはまっさらで、難しくもなんともないってものかも知れない。

 

まっさらになろう。