『限界費用ゼロ社会  モノのインターネットの共有型経済の台頭』(その2) by  ジェレミー・リフキン

限界費用ゼロ社会
モノのインターネットの共有型経済の台頭
ジェレミー・リフキン
柴田裕之 訳
NHK出版
2015年(平成27年)10月30日
原題: THE ZERO MARGINAL COST SOCIETY 
 THE INTERNET OF THINGS AND THE RISE OF THE SHARING ECONOMY

 

昨日は、本書の全体像を覚書したので、今日はその続き、その2。

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第Ⅰ部は、歴史の勉強。自給自足から、市場経済へ。重商主義から資本主義、資本主義の衰退の歴史。ここだけでも、歴史の勉強としてストーリーになっていてわかりやすい。16世紀から19世紀の囲い込み運動による労働者の誕生。産業革命
印刷技術により、情報の普及が容易になっただけでなく、遠方との商業契約も可能になった。
個人から、組織での仕事、株式会社、と仕事と社会の形態が変化する。
マックス・ウェーバーは、ピラミッド状の組織が事業の合理化に有効となり、あらゆる階層において合理化がすすみ、個人の勝手な裁量が入り込む余地はなくなっていった、と指摘している。垂直統合、ってやつだ。権力はトップに集中する。中間管理職だって、トップにしたがっているに他ならず、本人の裁量なんて、実は無い。
歴史と共に、宗教上で大事とされた、勤勉さ、努力、質素倹約、を重視する流れは、「より生産的に」と変わってきた。
人はそれぞれ神とともに一人で立っているという考え方は、市場に一人で立っている、という考えに変わって行く。人々の自尊心、満足は、資産と富の蓄積によって測られるようになっていく、それをマックス・ウェーバーは、「プロテスタンリズムの倫理」と言ったわけだ。

 

日本人には、キリスト教の「神とともに」という思想が抱きにくいかもしれないけれど、神様仏様に従うのではなく、自我の芽生えの時期、という感じだろうか。20世紀後半から21世紀にかけては、なにより、市場で評価されることが重要になった。今現在も、市場が重要であることは変わりない。市場資本主義だ。

私個人的には、市場資本主義は、まだ当分は続くと思っている。似たようなモノ、サービスに選択肢があれば、そこには市場の原理が働くはず、と思っているから。

人間の想像力が発揮される限り、モノ、サービスが単一化してコモンになっていくことは無いような気がする。その点が、本書をよんでいて著者のいうことが腹落ちしない理由のように思う。

余談だが、ちきりんの『マーケット感覚を身につけよう』(2015)は、市場で評価される人間であれ、という書籍。私には、とても重要なことだと感じられる。

 


第Ⅱ部は、資本主義が変化していく現代の歴史。テクノロジーによってどのように限界費用がゼロに近づいてきたか。
著者が指摘するのは、前述の3つのインターネット化コミュニケーション、エネルギー、ロジスティック。そして、生産消費者(プロシューマー)の台頭。自分で作って、自分で消費する人。


エネルギーのコストがほぼゼロになるというのは、再生エネルギーへの転換がもっと進めば、太陽も風も、潮汐も、ゼロ円で手に入れられるものをもとに電気がつくれるようになる、ということ。石油も石炭もウランもいらない。発電するための設備は必要なのだから、投資はかかる。でも、限界費用、つまり生産量追加分はかからない、ということ。要するに、お金をかけずに拡張可能、ということ。
実際には、一度設備を作ったからってずっと永久に使えるわけではなく、保守、メンテナンスは必要だろう、と、つっこみたくなるところだ。
そして、電気で課題となるのは発電だけでなく、送電という指摘。これはごもっとも。送電も、小さな単位で細かく送電網がつくれると、有事の際に生命線が一本途絶えて地域全体がブラックアウト、とならずに済むという。それは、確かにそうだ。
企業が自家発電をもっているけれど、送電できないから近隣に電気を提供できない、という課題は日本では一向に解消されていない。これは、テクノロジーではなく、政治の問題だ。たしかに、送電が市町村単位くらいで簡単にできるようになり、かつ、50、60Hz問題が解消されると、日本の電力事情はだいぶ変わってくるだろう。

北海道全域でブラックアウト、とか、首都圏全域電力ひっ迫、とか、ならずにすむはず。

 

モノづくりは、3Dプリンターも活用で、建物だって作れる時代。アメリカでは3Dプリンティングを用いて、月面に恒久的基地を建設する可能性を探っているそうだ。材料は月の砂。たしかに、設計図だけ持って行って、現場で作ることが可能な世界がやってくるかもしれない。

ちなみに、2022年4月6日の日経新聞朝刊に、住宅系スタートアップのセレンディクスが慶応義塾大学の研究機関と連携して、3Dプリンターで平屋住宅(床面積49㎡、高さ4m)を建設するとの記事があった。従来の別荘向け小型住宅にくらべると、広さを5倍にした家だということ。

日本でも、3D住宅の市場があったのだ。知らなかった。

 

ロジスティックやエネルギーも、従来のように太く長い一本の線でつながるのではなく、インターネットのように、短く細かく、ピアトゥピアで繋げることによって、限界費用はゼロに近づくという。


長距離トラックの運転手一人が1000Kmを運ぶには、途中休憩も必要だし、往きは満載、帰りは空っぽ、となりがちだけど、100Km毎に車の人も変えれば、ぶっ続けで走りつづけられる。貨車だけ交換すれば、運転手は往きも帰りも違う荷物を積んだ貨車を運べるかも知れない。


集中管理という垂直統合型のシステムではなく、分散型水平分業にしておくことで、リスクも分散できるし、限界費用が限りなくゼロに近づく、ということ。一本の幹線道路に頼るのではなく、小道がいっぱいある感じ。新幹線だけでなくて、在来線がたくさん走っているほうが、小回りが利く、そんな感じだろうか。


テクノロジーによって労働の形も変わってくる。労働集約型の生産がロボット、自動化に置き換わってきたように、知的労働もAIに変わってきている。一人の病院の先生の診断を受ける前に、一般の人だってネットで様々な情報を探すこともできる。検索はコンピューターの圧勝だ。ただ、AI業界における最大の難関は言葉の壁を破ることだという。まぁ、時間の問題かもしれないけれど。通訳業も、あと何年必要とされるか、、、。でも、なんせ人間がやる通訳は、機械も電気もいらないから、あるい意味最初から限界費用ゼロだ。必要なのは通訳のスキルと体力?!

 

無料WiFiが提供される場所も増えている。本当にどこでも無料WiFiが使えるなら、もう電話なんて契約しないかもしれない。skypeでもLINEでもMessengerでも、無料で通話できるアプリはいくらでもある。


第Ⅲ部、Ⅳ部は、今起きている、協働、共有、コモンズへの変化。
コモンズと言えば、かつては封建社会の経済システムとみなされていたが、現在の統治モデルとして再検討が始まっているという。
中央集権化した指揮・統制(垂直統合型)が、分散型・水平展開型のピアトゥピアにかわり、市場における財産の交換よりネット-ワークによって共有可能な財とサービスへのアクセスの方が多くの意味を持つ世界。
そうなると、市場資本より社会関係資本のほうが、価値が高くなるだろうという。自己の利益より集団の利益を重視する、もともと人間にはそういう性質が備わっている。人間にとってもっとも過酷な罰は社会的追放だから。

 

そして第三の統治モデル、コモンズの台頭。
公共の財とサービスを民営化してきたのが、新自由主義レーガン大統領、サッチャー首相。民間による中央集権化。しかし、統治する側とされる側の格差拡大による不満が生まれる。そして、より民主的で協働的統治モデルを探し始め、コモンズ、という形に行きつくというストーリー。

協同組合はその一つの形。現在、地球上の10億人以上の人が協同組合に参加しているという。
協同組合に雇用されているのは1億人以上で、多国籍企業の従業員より多い。

 

第Ⅴ部は、これからの社会について。

社会関係資本がより重要になっていくということ。人類の歩みは、共生すること、共感することで進んできた。今、市場経済だけでなく、ふたたびコモンズを見直す、確かにそういう時代になっているのかもしれない。昔ながらの企業は、なくなってしまうのだろうか?いやいや、自動車も、冷蔵庫も、携帯電話もコンピューターも、誰かが作ってくれないと困る。さすがに利益ゼロでそれらを作る会社はないだろう。

ただ、シェアが進めば、これまでほどの量はいらないのかもしれないのは確かだ。

例えば、消費者が消費を10%減らして、仲間との共有を10%増やすと、昔ながらの企業の利益へ与える打撃は20%ですまない、という。

やはり、企業もありようを変えていくのだろう。

パタゴニア社は、以前から地球環境のために、新しく買うよりあるものを長く使うことを推奨している。ただ、生産して売るのではない、そういう会社が増えるのかもしれない。

 

物質主義は、モノへの執着をたかめ、人間や地球に対する愛着を低めてきてしまったのか。

物質主義から、共感にあふれた社会へ。

 

たしかに、いまこそ目指す道はそこにあるかもしれない

ただ、これから先の脅威として、自然災害、サイバーテロがあることも忘れてはいけないという。

 


最後の特別章は、日本語翻訳版にむけて特別に書かれた章のようだ。日本は、垂直統合型の巨大電力公益事業が、原子力化石燃料からの脱却をしない限り、未来はない、という厳しい指摘。そして、日本はそれができる能力が十分ある、と。

 


2015年の本だけれど、結構新鮮な気持ちで読めた。

彼のいう限界費用ゼロには、やはり反対意見も多いようで、You tubeでリフキンのスピーチを見ると、最後のQ&Aでは、結構厳しい意見が飛び交っていた。

考え方とか、方向性はわかる。

でも、どこかで納得しきれないのは、私自身がまだまだ私利私欲でいっぱいだからかもしれない。市場資本主義を楽しみたいと思っているからかもしれない。

だって、色々なモノ、サービスから選びたいもの。

食事も、ワインも、洋服も。

 

限りなく、限界費用ゼロに近づく社会は、確かにあると思う。

そうなったとき、そういう世界に向かっているとき、

社会に必要なものは何なのか。それを考えないといけないのだと思った。

商品の高品質化とか、バラエティーを増やすとかでもはない気がする。

ちょっと、頭を使わないといけないなぁ、と思った。

 

久しぶりに読み応えのある一冊だった。

読書は楽しい。

 

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限界費用ゼロ社会』