『一人暮らし わたしの孤独のたのしみ方』by  曽野綾子

一人暮らし わたしの孤独のたのしみ方
曽野綾子
興陽館
2019年8月15日 初版第一刷発行

 

図書館で目に入ったので、借りてみた。
曽野綾子さんのエッセイ集。

 

曽野綾子さんは、1931年東京生まれ。聖心女子大学文学部英文科卒業。79年ローマ教皇庁よりヴァチカン有効十字勲章を受章。87年『湖水誕生』により土木学会著作賞を受賞。93年恩賜賞・日本芸術院賞受賞、、、、などなど、、、。カトリック教徒で、広く活躍されている。旦那様は、三浦朱門さん。90歳になった朱門さんの介護の物語、『夫の後始末』(2017)なども。

 

表紙の裏には、
人間は一人で暮らすのが原型なのであろう
と。

 

感想。
さら~~っと読める、のんびりムードな感じ。

80歳を過ぎての生き方指南書なんだから、そりゃそうか。

活字も大きくて、引退した高齢の読者向けなのかな?と思う。


長年連れ添った旦那様を亡くした後の一人暮らしの話なので、一人暮らしの長い私とはちょっと感覚はちがうかもしれないと感じる箇所も多数。一人暮らしが当たり前の私には、なるほど、そう感じるのか、、と。当たり前のように一人暮らしを楽しんできたので、あえて言葉になると、なるほど、とも思う。

曽野さんは、息子もいるけれど、遠方でくらしているので、夫をなくして一人暮らしになる。様々な理由で境遇は変化する。それは人間の運命として受諾しなければならないことなのかもしれない、と。

 

目次
第1章 「一人暮らし」は心に良い
第2章 「一人の時間」を愉しむ
第3章 「料理」を道楽にする
第4章 「始末」は心地よい
第5章 「夫」を失ってから
第6章 「八十歳」からどう暮らすか 


第1章から第4章までは、「一人暮らし」「一人の時間」「料理」「始末」。ふんふん、なるほどと読み、「夫」「八十歳」あたりは他人事っぽく、、ちょっと飛ばし読み。まぁいつかは私も八十になるわけだけど(それまで死ななければ)、さすがにあと四半世紀以上あるので、そのころはまた、生活がかわっているのだろうなぁ、と思う。高齢者の生活もAI、ロボットが必須になっているだろうし。そもそも、独身人口も今より多いし。

 

一人で暮らすというのが当たり前ではなかった人にとっては、高齢になってから配偶者を失って一人になると、覚悟が求められるというか、新しい挑戦になるのだな、とつくづく思った。
自分の両親を見ていても思う。


一人で生きられる能力が存在の基本」と曽野さんは書かれているのだが、最後まで誰かと一緒に暮らせる幸せっていうのもあるのだろうな、とも思う。

 

ちょっと変なことを言うと、私の中には、「先に死んだもん勝ち」とおもっているところがある。もちろん、自ら死に急ぐつもりはまったくないし、そんなことは誰にもしてほしくないけれど、死ぬ方は無念かもしれないけれど、死んだ後の悲しみはない。悲しむのは残されたほうだ。最後まで誰かと一緒に暮らせるのは、先に死んだ方だ。。。なんて、思ったりする。

でも、「一人の時間」を享受できないのは、先に死んだ方だ。。。夫婦なら。

 

「一人の時間」ほど、贅沢な時間はないだろう、と思う。だって、自分の好きなことを好きなだけできるんだから。私は、20代から一人暮らしをしているけれど、時間の使い方に悩んだことは、多分一度もない。会社をやめて、かえって忙しくなっているのは、好きなことを好きなだけしているから。自分では忙しいとも思っていない。ま、好きでやっているから苦にならない。

ただ、何かを断るときに、「ちょっといま忙しくて、、、」ということがある。なぜか、「忙しくて」というと、だれもそれ以上理由はきいてこないから。これが、「ちょっと読みたい本があって」とかいうと、「私の誘いより本のほうが大切なわけね!」みたいな感じになっちゃう。「ちょっと疲れていて」と言えば心配させちゃうかもしれない。「ちょっと忙しくて」って、便利な言葉だ

人によって、忙しい中身は色々だけど。


なんとなく、忙しい理由が「仕事」だと、約束に遅刻したり、ドタキャンしたりも言い訳としてまかり通るような、、、。
ま、時と場合によって、優先順位はかわる、そのくらいの柔軟さがないと、疲れちゃうからね。嘘も方便ってこともある・・・。

 

曽野さんは、「苦手な人とは距離を置く」ことをすすめている。とくに何かを宣言して付き合いをやめるのではなく、ただ、距離を置く会う頻度をさげる連絡頻度を下げるそうして遠ざかっておけば、人に苦しむことはなくなる、と。
あるある、だ。

ちょっとしんどい、と思ったときは距離を置く。それは尊敬する人、大切な人だったとしても。自分を取り戻す時間は必要だ

人に振り回されないようにするには、距離を置くのが一番、ってことかな。

 

ずっと、家族と暮らしていた人にとっては、一人での食事が一つのハードルになるらしい。
一人外食は苦手、という人はたしかにいる。でも、世の中、飲食店に行けば一人で食事をしている人は沢山いる。一人食なんて、なれてしまえば、なんてことは無い。
たしかに、親しい人との食事は楽しいけれど、365日、3食同じものをたべるのであれば、自分の好きなものばかりは食べていられない。だから、一人食と誰かとの食事と、両方がいいバランスに混ざっているのがいいんじゃない?と思う。一人分の食事も、いい加減にしないでちゃんと食べると、ちょっと自分をほめたくなる。

 

ちなみに、コロナで会食が激減して、自宅での一人食事が増えた時に思ったのは、誰かと食事したいということよりも、自分の料理に飽きた、、、ということ。
私は料理が趣味だし、一人分を作るのも、一人で食べるのも、まったく苦にならない。自分好みの味にできるのだから、正直言って自分で作る食事ほどおいしいものはない、、ともいえる。でも、飽きた。自分の料理に飽きた。社会人になってから、こんなに外食をしなかったのは初めてではないかと思う。そして、緊急事態宣言やまんぼうのあいだも、知人のレストランからテイクアウトを利用するようになった。
やっぱり、人間は変化がなさすぎてもダメなのだ。

 

「料理」を道楽にする、というのが一つの章になっているのだが、これも私にとってはまさに!っていう感じ。「始末」では、片付けの話。これも、まさに!生活のパターンが変わって使用頻度が減ったモノは、思い切って捨てちゃった方がすっきりするんだろうな。


私にとってはまだまだ先の話だな、と思う内容もたくさんあるけれど、高齢になってもこうして人生に楽しみを見出すことができる、というのがいいな、と思った。

 

とりたてて、「一人」と言わなくても、人間は「一人」なのだ。

たとえ、誰かと一緒にいても、「一人」なのだ。

自分の代わりに食べてくれる人もいなけりゃ、トイレにいってくれる人もいない。

自分を維持するのは、自分しかいない。

だから、自分をいたわってあげないとね。

 

そして、曽野さんは、

「人の役に立つこと」をすすめている。

でも、「人助けをするためには、お金か、時間か、労力か、どれかに余裕がなければできない」とも。ボランティアは、本業をおろそかにしてまでやることではない、と。

 

自分の本業は何かというのも、社会人になると見えにくくなるものだ。学生なら、学ぶことだろうけれど、社会人というのは、まず、自分が自分らしく生きるのが本業かもしれない。働くことが本業と言ってしまうと、ちょっと違和感を感じる。それは、私が終身雇用前提で就職した世代だからかもしれない。好きな仕事でステップアップしていく世代には、働くことが本業、で違和感ないのかもしれないな、なんて思う。

 

最近、若い人の本を読むことが多くなった(相対的に自分が年を取った)ので、自分の価値観がもう古いものなんだ、と感じることが多くなっていた。そんななか、ちょっとほっとする曽野さんの一冊。聖書の話も時々でてきて、そう解釈するんだ、という気付きもある。別に私はクリスチャンじゃないけど。

 

時代は変わる。

でも、人はいつか死ぬ、その事実だけは変わらない。

だから、今を生きないとね。

 

若い人の本も、高齢者の本も、誰の本も何かの気づきがある。

だから、読書はやめられない。

読書は楽しい。

 

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『一人暮らし わたしの孤独のたのしみ方』