『食べることと出すこと』 by 頭木弘樹 (その2)

昨日の続き

 

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食べることと出すこと
頭木弘樹
医学書院 シリーズ ケアをひらく
2020年8月1日 第1版第1刷
2020年10月1日 第1版第2刷

 

目次

第1章 まず何が起きたのか?

第2章 食べないとどうなるのか?
第3章 食べることは受け入れること
第4章 食コミュニケーション 共食圧力 
第5章 出すこと 
第6章 ひきこもること
第7章 病気はブラック企業
第8章 孤独がもれなくついてくる
第9章 ブラックボックスだから(心の問題にされる)
第10章 めったにないことが起きる/直らないことの意味

 

大学三年生で、健康だった20歳が、いきなり難病になり、そして。。。

続き。

 

第4章で、食べることとコミュニケーションについて語られる。そこで、「共食圧力」という言葉がでてくる。一緒に食べることを美徳とする風潮は、確かにある。コロナで一緒に食事をする事ができなくなり、一緒に食べることの大切さがさらに強調されたりもしている。個食は、孤食で、栄養の吸収が悪くなるとか。共食がそんなにいいことなのか。実のところ、私がサラリーマンをしていたのは食品メーカーだったので、「共食」を前面に売り出していた。みんなでそろって食事を!って。あれも、無言の圧力と感じている人もいるのだ・・・・。そんなこと、当時は、思いもしなかった。

著者は、出されたものを食べないと、「拒否された」と感じる人がいる、ということも言っている。また、山田太一さんの『車中のバナナ』というエッセイが紹介されていて、好きで仕方がない、という。

 

山田太一が伊豆に用事で出かけ、鈍行で返ってくる途中の出来事。四人掛けの席で、気の良さそうな中年男性がみんなに話しかけ、わきあいあいと会話が始まる。その男がバナナをカバンから取り出す。

 

うんうん、あるある、そういうの。昭和っぽいけど。


”娘さんも老人も受け取ったが、私は断った。「遠慮することないじゃないの」という。「遠慮じゃない。欲しくないから」”
と、ことはそれで終わらず、中年男は、食べろとしつこい。娘と老人が「美味しい、美味しい」といって食べる。
バナナをもらった老人が、
「いただきなさいよ。旅は道連れっていうじゃないの。せっかく和やかにはなししていたのに、あんたいけないよ。」という。

そう、そうして、流れに乗らない人を責める人がいる

山田太一は、バナナを食べなかった理由をこう書いている。
”貰って食べた人を非難する気はないが、忽ち「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである”

著者は、ここに強く共感している。
私も、強く共感する。

 

受けとらなければ、相手やこの場の雰囲気を受け入れないというニュアンスになってしまう。では、受け取ればいいじゃないかというと、それでも、受け取りなくない人がいるということなのだ。
初めて会った者同士で、すぐに同じ食べ物を食べ合う。お互いを受け入れ合う。たちまち、なごやかになる。
それが、怖い、というのだ。

これ、わかる!

私は、それができない人ではないけれど、旅先で人から頂いたものを平気で口にできちゃうけど、ちょっと、怖いと感じるところはわかる。断るともっと怖いから、あるいは面倒くさいから、いただいちゃうのかもしれない。

さらなる後日談は、そのエッセイに対して、
「なぜ、なごやかになれるひとが怖いのか!」という声がたくさんあったということ。
他の人はバナナを受け取って食べたのに、山田太一は受け取らなかった。中年男性は不快に感じ、受け取るように圧力をかけ始める。
バナナが「踏み絵」になった。
そして、老人まで、山田太一を非難する。

まさに、それが怖いところなのだ。

山田太一
”つまり、たちまち「なごやかになれる人」は、「なごやかになれない人」を非難し排除しがちだから怖いと言ったのだ”と。

本書の中で、一番共感したところ、といってもいいくらい大きく同意。

 

私は、出会ったその日に「連絡先」を交換し合う気軽さについていけないことがある。1対1で出会ったのならともかく、数人のイベントとかで知り合って、対して話しもしなかった人からLINE交換しようとか言われると、ちょっと怖い。名刺を配りまくる人も怖い。
仕事の現場ならともかく、仕事とまったく関係ないイベントで、会社の名刺を配るのは何なんだ?!と思う。すぐにLINE交換しようといってくる人も、怖い。やたらとフレンドリーに接してくる人も、ちょっとひく。

そして、それを受け取らなければ、波風たちそうなので、わざわざ名刺のうけとりやLINEの交換を拒否することはしないけれど、やっぱり、奇妙に思う。私の場合は、受け取ったところで生命にかかわるわけではないし、その後関わりたくなければスルーしつづければいい、と思っているので、その場では「受け取る」という選択をする。でも、ちょっとストレスになっているのは間違いない。

 

本書の中に引用されている本も興味深い、安部公房向田邦子カフカ、、、。著者はもともと、思考が深い人なんだろう。

安部公房の『他人の顔』の主人公が、顔が自分と他人を結ぶ通路であった、と感じるように、著者にとっては「食べること」が自分と他人を結ぶ通路であって、それができなくなってしまったことにショックをうけた、と表現している。

 

一緒に食事ができない、ということが社会生活まで困難にしてしまった、、、と。難病とわかっているので、相手も店選びを気遣ってくれるけれど、やはり、食べられるものがない、、、。相手に申し訳ない気持ちになる。相手も、申し訳ない気持ちになって、仕事の打合せだったのに、そのあと二度と仕事の話はこなかった、とか・・・・。

一緒に食べられないことが、「排除」につながる事実。。。

 

人と仲良くなるには、一緒に食事をするのが一番、という人がいる。たしかに、そういう人もいるかもしれない。だからといって、、、食べることを強要されることが、命にかかわる人もいるのだ・・・。

 

そして、食の話から、田中真智さんの『たまたまザイール、またコンゴがでてきた。旅行記はあんまり好きではないけれど、この本は好きなのだ、と。真智さん、私は一度とあるイベントでご一緒したことがあるのだけれど、本当に不思議な魅力の人なのだ。そして、著者がなぜ、真智さんの旅行記は好きなのかというと、「現地のものをなかなか食べない」のだそうだ。真智さんは、食に頼らなくても、現地の人と心を通わせることのできる、不思議な人なのだ。
そこに、共感と信頼を感じたって。
一度あっただけだけれど、真智さんの魅力にはまった私にとって、ちょっと、うれしいような、誇らしいような気持になった。

 

食事に手を付けないと、なんども「遠慮しないで」という人がいるが、著者が宮古島でであったある人は、最後まで「さぁ、遠慮しないで」とも言わなかった。そして、そのあとも何度も食事に誘われているのだと。これは、希有なことで、後で知ったのは、その人も難病だったということ。食べることには何の支障もないけれど、別の苦しみを知っている人だったのだろう、と。

 

何か食べられないなにかできないということで「排除された」経験のある人は、他人にもやさしくなれるのかもしれない、、、と。

 

「排除」したつもりはなくても、相手が「排除された」と感じてしまえば、、、「排除」したことになる。差別したことになる。寛容でなかったことになる。。。。


著者が、若いときに自転車でお年寄りの横を通り過ぎる時に、十分に距離をとっているのに嫌な顔をされたことを思い出し、今なら、自分も万が一にも自転車にぶつかられたら、踏ん張る体力もなく、大事に至る可能性もあるから、本当に怖いんだ、ということに気が付いたということ。

”お年寄りにしろ、病人にしろ、なってみないとわからない。これは、本当に絶対的な壁なのだと思う。”と。

簡単に、「わかるよ」なんて言ってはいけないのだ。

 

コロナも、人によっては命取りになるように、普通の風邪でも免疫抑制剤を飲んでいる人にとっては、命とりなのだ。電車の中で、無遠慮にゴホゴホしたりくしゃみをするひと、コロナ以降へってはいるけど、やっぱり、いまでもいる。体調悪い時には外出するべきでないのは、自分の為でもあり、他の人にうつさないためでもある。熱があって出社するって、絶対にほめられたことじゃない。つくづくそう思った。

 

病気になりたくてなる人はない。
心のもちようで、病気がなおるなんて、言ってはいけない
「病は気から」ではなく、病気になったことで性格がかわることだってある。
「気は病気から」でもあるのだ。

 

著者曰く、「〇〇な性格だから、病気になるんだ」風な発言は、絶対に言ってはいけない、と。実際、病気になれば性格も変わってしまうことだってある。性格は環境でかわるものなのだ、と。

 

治らない病気になると、日常に戻れない。非日常を生きるしかないのだ、という。それは、どういうことかというと、「ハメをはずす」ということができなくなるということ。

普通に健康体であれば、仕事でストレスがたまったら、「ハメをはずす」ことでうっぷんを晴らすことができる。でも、病気による「非日常」が続く日々は、「ハメをはずす」ことが出来なくなる・・・。
それが、治らない、ということの意味であり、そういう人は、たくさんいるということ。

 

”見えない人たちが、じつはたくさんいる。
病人だけではない。さまざまな人たちがいる。いても見えない、見えないけどいる人たち。”

 

なんと、ホートンと同じことを言っているではないか!!

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”見えなくなりかけているものとして、ぜひそういうひとたちのことも想像してみてほしいと願わずにはいられない”


と、締めくくられる。 

 

街で、普通では考えられない行動をとっている人だって、その人なりのどうしてもの理由があるのかもしれない。不愛想な店員にムッとするより、「嫌なことがあったんだな」と思うくらいの余裕が欲しいものだ。あるいは、無愛想なわけではなく、そういう笑顔なのかもしれないし、、、。

 

自分とは違う人がいるということ。

というか、だれも自分と一緒の人はいないということ。

そんな当たり前のことを、軽快な口調ながら、深く考えさせてくれる一冊。

説教臭くなく、心に届いてくる。

 

うん、読んでよかった。

 

やっぱり、読書は、楽しい。