『普通という異常 健常発達という病』 by   兼本浩祐

普通という異常 健常発達という病 
兼本浩祐
講談社現代新書
 2023年1月20日 第1刷発行

 

ちょっと、どの本だかわすれてしまったのだけれど、能力主義とか、自閉症とか、そういったテーマの本ででてきたのだと、、、思う。気になったので、図書館で予約した。今年の本だし、予約したのも最近なんだけど、、、なんで読もうと思ったか忘れている自分が怖い・・・。新聞の広告だったかもしれない。

タイトルからもわかる通り、普通なんてなくてみんなそれぞれちょっと異常っていうような話し。最初の方は、そういう主旨でわかりやすかったんだけど、途中からなんだか、よくわからなくなってきたので、飛ばし読み。事例が、著者の医者としての経験に基づいて、患者を仮名で語るようなものはわかりやすいのだが、韓流テレビや昼ドラ、流行りのアイドル?!の話になると、私にはさっぱりわからない。。。ましてコンピューターゲームもよくわからない。途中で、あれ?この著者はすごい若いのか?と思いきや、自分のことを「初老のおじさん」と言っているし、、、著者紹介を見直してみると、1957年生まれとあるから、若者ではない・・・。なんだろう、このずれていく感じ、、、。と思いながら読んだ。

 

著者の兼本さんは、1957年生まれ。京都大学医学部卒業。現在、愛知医科大学医学部精神科学講座教授。 専門は精神病理学神経心理学、臨床てんかん学。発達障害についても詳しいようだ。

 

裏の説明には、
”「病」がある特性について、自分ないしは身近な他人が苦しむことを前提とした場合、 ADHDASD が病的になることがあるのは間違いないでしょう。一方で、定型発達の特性を持つ人も、負けず劣らず病的になることがあるのではないか。この本で取り扱いたいのはこういう疑問です。例えば 定型発達の特性が過剰な人が、「相手が自分をどう見ているのかが気になって仕方がない」「 自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から矢も盾もいられなくなってしまう場合、そうした 定型発達の人の特性も病と言っていいのではないかということです。”
と、「はじめに」からの抜粋が紹介されている。

 

いわんとすることは、だれもがなんとなくわかるのではないだろうか。会社や学校にいる、ちょっと困ったちゃん。人の目を気にするあまり、見栄をはって嘘をつく人。かまってほしいから、大げさにあれこれ言いふらす人。病気という診断はなくても、みんなちょっと変なところがある。私だって、他の人から見たら変だと思われるところがあるだろう。TVナシの生活が信じられない、という人もいるだろう。私の場合、家からTVを追放しようとまでは思わないけれど、一日のうちTVをONにするのは、あっても30分のニュースくらい。人とドラマの話やアイドル、俳優さんの話ができないことに、私はなんら不都合を感じない。中には、人との会話についていけないことに不安を感じる人もいるかもしれない。
みんな、それぞれ、、、ってこと。

そう、言ってしまえば、普通ってなんなんだ?ってことだ。
「みんな、〇〇持っている」とか、「みんな、〇〇してる」とか、、、。みんなって??
「普通、社会人なら働く」って、なにが普通??

いちゃもんだか、言いがかりみたいな話だけど、でも、そうだよね、って思う。

 

目次
第一章 いじわると健常発達者
第二章 ニューロティピカル症候群の生き難さ
第三章 ほんとうは怖い「いいね」と私
第四章 昭和的「私」から「いいね」の「私」へ
第五章 定住民的健常発達者とノマドADHD

 

第一章では、小学1年生のAちゃんとBちゃんの話を事例に、普通と言われる人のほうが、対人希求性が高い傾向にあり、高すぎると周囲をしんどくさせることがあるという話。「いいね」を欲しがり、盛り盛りの写真をSNSにあげる健常発達の人。どこにでもいる。普通のことだ。だれでも、ちょっと楽しいこと、いいこと、みんなと共有したいと思う。でも、中にはほんとうの自分以上に自分を評価されたがる人もいる、ということ。対人希求性が過剰な人ということ。それを病というかというと、世の中にはそのような診断はないのだ。

 

AちゃんとBちゃんの話は、だれもが小学生時代にこんな子いたかも、、とおもうのではないだろうか。健常発達と思われるBちゃんが、ちょっとトロイ、我が道を行くAちゃんをイジメる話。Aちゃんは、昆虫や怪獣が大好き。小学校にあがるのに、空色のランドセルを買ってもらった。(空色のランドセルは、珍しい、という前提)一方、Bちゃんは、ボス的な存在で、お友達も多い。そんなBちゃんも、空色のランドセルだったから大変。Bちゃんは、Aちゃんとランドセルがかぶったことが気に入らない。Aちゃんへのちいさな意地悪が始まる。一緒に帰ろうと誘っておいて、帰りしなに仲間外れにする。Aちゃんが並んだ列からちょっとはみ出たことで、「順番を守れ」といって、もう一度最後から並ばせる。Aちゃんの髪の毛がちゃんと結ばれていないのをみて、「その団子みたいな髪どうにかしたら?そんな髪で学校に来るのはみっともない」と揶揄する。Aちゃんは、負けずに言い返す。でも、もっと他の事に夢中なAちゃんは、そんな事件のことはさっさと忘れてしまう。だから、Bちゃんが期待したほど、Aちゃんはダメージを受けない。
それでも、執拗にAちゃんへの嫌がらせを繰り返すBちゃんは、結局、学校のなかでの問題児とされて、2年生になるときにAちゃんとは違うクラスにさせることで終息となった。

Bちゃんは、健常児と言われるがちょっと意地悪な子。Aちゃんの方がややトロくて、虫や怪獣にばかり興味がいく、ちょっと変わった子。

一般的には、そんな評価ではないだろうか。
でも、ほんとうは、どう???

何が普通で、何が異常って、、、、誰から見てそうなのか、ってことだろう。

統一教会に染まった人だって、彼らの中では教会に入らない人の方が普通でないのだ。

 

と、第一章の健常発達的な人は対人希求性があるのが普通で、それが過剰になると「いじめ」という行動になりえるということ、わりと、納得する話だった。

 

第二章以降が、だんだんなんだか、わからなくなっていった・・・。
第二章のタイトルにある「ニューロティピカル」というのは、Neurotypycal。直訳すると「神経組織としては定型的な」であり、「健常発達」のこと。ある日本人研究者らが、健常発達的なひと(たとえばBちゃんみたいな)を「健常発達症候群」とみたてて、疾病的特徴をあげている話が紹介されている。挑発的なパロディーとでも言おうか。共感するかどうかは別にして、本書の中でも「健常」を一定の見方で定義する部分なので、紹介しておこう。

 

(1)ニューロティピカル症候群は、遺伝的に発生すると考えられています。
(2) 非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実を歪めて嘘をつきます。
(3) 社会的地位と認知のために、生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。
(4) テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。
(5) 特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解で物を言う傾向があります。しかしそれはしばしば 伝達不良に終わります。
(6) ニューロティピカル症候群は社会的関心にのめり込み、自分の方が優れていると妄想し、周りの人間と強迫的に同じになろうとすることに特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。
(7) 悲劇的にも発生率は非常に高く、1万人に対して9624人と言われます。
(8)治療法は現在のところ分かりませんが、多くの ニューロティピカル症候群を持つ人は自らの障害を代償して、正常に自閉症の人と交わることができるようになります。

と。
パロディーだ。
(8)の意味はちょっとよくわからないけど、他は、なんとなくわかる。

 

このあたりまでは、わかるようなきがしたのだけれど、このあと、クオリアの話、デカルト的コギタチオの話になってくると、それと健常性とがどう関係していると言いたいのかがわからなくなってきた。ADHD的な人は、健常発達の人に比べると時間的リズムの知覚がばらつくので、感覚クオリアと現象クオリアの一致に時差が生じやすい。だから、はたから見ると、反応が遅くて、ぼやっとしているように感じるとのこと。
クオリアは、茂木健一郎さんがよく話しているが、脳科学の用語で、なにかを主観的に感覚すること。サクランボの佐藤錦をたべて、赤なら赤、甘さは甘さと実感する感覚のこと。コーラと思って飲んだら実は中身がミルクだった時、普通の人は、感覚クオリア(思っていた時)と現象クオリア(飲んだ時)が一瞬にして違っていることにきづき、感覚クオリアをミルクに修正する。あ、コーラじゃなかった、と気づく瞬間が、デカルト的コギタチオ。
コギタチオ:「コギト(cogito)」ともいう自我の知的作用

ADHD的な人は、感覚クオリアを修正するのに時間がかかるのだという。健常といわれる普通ではないことの話から、ADHDの説明になってきて、おやおや??という感じ。

 

第三章、第四章の「いいね」の話になると、また、少し、健常ということにもどってくる。

健常者が、意識の中に常に持っているテーマに「色、金、名誉」があるということ。「色、金、名誉」が絡んでくると、「小学生のいじめ」に近い行動がでてくるのだ、と。

これは、お、なるほど、と思う。恋愛がらみの殺傷事件、金が絡む汚職事件、名誉をめぐる人事攻防、、、健常者がしばし起こすいざこざは、「色、金、名誉」に絡む。そういわれると、なるほど、と思う。ごもっとも。そして、Aちゃんみたいなタイプが、まったく興味をそそられないのも「色、金、名誉」かもしれない。

 

第五章で紹介された、著者がドイツにいた時に、学会でドイツ語でたどたどしく発表したとき、隣の同僚のドイツ人がびっくりした顔をしたという話。ちょっといたたまれないような、わかるような気がした。たどたどしくドイツ語を話す著者は、同僚にとって異質だったのだろう。普段は英語で会話していたからだと思われるが、外国語圏に行ったとき、たどたどしくその言語を使うと、なにか、割れ物に触るかのような、、、扱いを受けることがある。もちろん、無視される、ということもあるのだが、、、。その言語を喋れない、二級市民に対するイタワリの心であったり、逆に侮蔑の心情であったり、、、。ちょっと、微妙な感じ。

言葉という道具を使いこなせないとき、人はだれでも、普通の人でなくなることがある、とでもいおうか。通訳者としてそこにいるのに、上手く通訳できなかったときの人々の対応と似ているかも。。。痛いのだよ。。。とほほほ。

 

本書の中では、デカルトの他、サルトルハイデガー、あるいは現代の哲学者の言葉が引用されている。でも、ちょっと、ピンとこないところがあって、読み飛ばしてしまった。
最後まで読むと、ますます、なぜ、こんなにたくさんの人の名前がでてきて、それでいて、何を言いたいのかがわからなくなってしまったのか、、、(私にとって)。わからない。なんだか、ちょっと読みやすいとは、、いいがたい本だった。

 

最初の一章くらいは、面白かった。

ま、新書だから、こんな感じの感想もあり。

 

普通、という言葉に気を付けよう。