『鶴川日記』 by  白洲正子 

『鶴川日記』
白洲正子 
PHP 文芸文庫
2012年6月1日 第1版第1刷
*本書は、1979年文化出版局より刊行された『鶴川日記』を再編したものです。

 

図書館の棚で見つけた本。白洲正子さんは、白洲次郎さんの妻として有名であると同時に、当時の女性としては、自立したというのか、自己主張をするというのか、時代の先をいく女性像の代表のような方。に造詣が深く、世阿弥を研究されていた。また、親しく交流していた青山二郎小林秀雄の影響を受けて骨董も愛していた。
伯爵家の生まれであり、強く、美しい女の代表、、、って感じだろうか。

白洲正子さんと小林秀雄にまつわる骨董の話は、松原友生の『骨董と葛藤』を読んだ時に、へぇぇ、、、すごい人たちと言うのは、すごい人たちと、すごいもので親交するのだ、、、と思ったもんだ。

megureca.hatenablog.com

 

本書は、1979年が初出ということで、その時点で既に過去の回想記録になっている。1910年、東京生まれなので、登場する人物や、出来事は、当然、戦前から戦争中。鶴川には30年住んでいた。鶴川のことを書いている部分もあるが、住んでた頃の諸々の随筆、と言った感じの一冊。

時代を感じつつ、戦争の厳しさ、鶴川のほのぼのさ、、、なんとも言えない一冊だった。牧歌的な所があるかと思えば、戦争中でもあり、、、、。戦争中であっても、普通に暮らしていた人々もいたのだよな、、、という、なんとも不思議な感覚。戦時中の日常をちょっと垣間見た様なところもあり、戦争中であっても、人はご飯は食べるし、寝るし、遊ぶし、働くんだよね、、、なんて、思った。

 

裏表紙の説明には、
”「農村の生活は、何もかも珍しく、どこから手をつけていいか、はじめのうちは見当もつかなかった」ー。
本書は、名随筆家として今なお多くのファンを持つ著者の知性と感性が光る珠玉の随筆集。往時の町田市鶴川での幸福な日々と人々の交流を描いた「鶴川日記」。山の手育ちの著者が憶い出に残る坂を訪問する「東京の坂道」梅原龍三郎・芹沢銈介そして祖父と過ごした日々を綴る「心に残る人々」を収録する”
と。

 

随筆としては、3つの作品。「鶴川日記」は、戦争を逃れて東京から移住した鶴川での日々のこと。藁ぶきの屋根をふき替える町内行事が、みな普段は他の仕事をしている普通の住民たちの協力作業だったことや、田畑を耕すこと=カルティヴェートCultivateすることがカルチュアCultureなんだと、体をもって感じたこと、などが綴られる。東京では、みんなやらないと非国民と言われるので、いやいややっていたバケツリレーの練習なども、鶴川の田舎だと、なんだかほのぼのしていたと言う話。
だれが、B29の空襲がある中で、タケヤリやバケツリレーの火消しで勝てるなんて信じていたものか、とバッサリと切り捨てている。
 小林秀雄さんとの交流についても、言及されている。彼女にとって、「小林さんの本をいくつか読んでいたが、むつかしくてよくわからず、わからないなりに強く惹かれるものがあった」のだと。そうか、そうだったのか、、、。そして、名文句が音楽のように耳につく文体なのだと。一方で、小林秀雄の『本居宣長』では、きらきらした名文句は影をひそめ、宣長の足取りを尺取り虫のようにたどっている、と。

 

本居宣長』、先日、とある勉強会で課題になっていたのだけれど、この一冊を読むのは難儀なので、本居宣長記念館」の小冊子を紹介いただいた。日本のこころ、日本のことをかんがえるにあたっては、やはり本居宣長を抜きにしては学べないのだ、、、。でも、私にとっては、未だ、難解。課題図書は、永遠に課題図書か、、、。本居宣長を一言で言えば、もののあわれ。。。って、簡単には言い切れない。。。

ま、本書をよんで、やっぱり小林秀雄の『本居宣長』、きちんと読みたいな、と思った。


「東京の坂道」では、さまざま東京の坂を散歩しながら、その歴史、風景、実際の坂としての機能などについて語られている。
「今から500年ほど前、太田道灌武蔵野台地の突端に、江戸城を築いた時、日比谷のあたりまでは入江で、下町呼ばれる区域はおおむね沼地か湿地帯であった」と。地理の勉強にも、歴史の勉強にもなる。太田道灌の名前なんて、近頃の本で目にすることは無い。江戸城は、徳川家が建てたんじゃないんだよね。太田道灌が建てたのだ。室町時代後期の武将。

 

富士見坂、三宅坂、永田町から麹町。番長皿屋敷から靖国神社。。。まるで、ブラタモリならぬ、ブラマサコだ。ブラマサコとしては、坂に名前をつけるなんて、日本人くらいだ、と。古くは古事記にも「黄泉比良坂」がでてくることから、日本では「坂」が身近であり、暮らしと切り離せなかったのであろう、と考察している。「サカ」というのは、「サカイ」から出た言葉で、単に国や県の境界を示すだけでなく、あの世とこの世をへだてる恐ろしい場所であったに違いない、と。結構、面白い。

伝通院や後楽園の様子がなんとも心癒される感じで、ちょっと、散歩に行きたくなった。後楽園って、野球場でもなく遊園地でもなく、お庭。
後楽園のお庭は、天下を憂えた後に楽しむという意味で、「後楽園」と名づけられたらしい。水戸徳川家の初代頼房から、二代光圀の時代にかけて完成されたという。平安の面影をつたえるのびのびとした名園である、と。

「番長皿屋敷」の話から、「皿屋敷物」の怪談の話へ。うらめしやぁ、、、とでてくるお化けは、お化けになってしまった理由が演じられる時代とともに変化している、というのが正子説。
そして、芝居の変遷も、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(鴨長明方丈記』)といっている。面白い。確かにね。

 

赤坂から麻布にかけての坂のはなしでは、乃木大将明治天皇崩御のときに、夫婦そろって殉死した話がでてくる。まぁ、、、それが美談として語られる時代だったのだろう、と。そして、そういったことも、時の流れとともに評価は変わるのだ、、と。

 

「心に残る人々」では、私には馴染みのない方が多かったのだが、熊谷一守さんのお話は、ちょっと頭に思い描くことができた。映画、モリのいる場所を観ていたから。山崎努さんと樹木希林さんが出演された、画家・熊谷一守の日常を描いた映画。自然に対して優しくなれる、そして、自分でも絵が描きたくなる、そんな映画だった。その熊谷一守さんについて。

 

宇野千代さんの『薄墨桜』の小説で有名になった桜の話を教えてくれたのが、荒川豊蔵さんだった、と言う話が出てくる。『薄墨桜』にでてくる桜は、美濃の奥地、継体天皇のお手植えと伝えられ、死に瀕していた樹齢千数百年という桜の木。漢方医が、まわりに若木を何十本も植えて、根継ぎをすることによって命を復活させた、っていう話。小説『薄墨桜』そこに男と女、さまざま人間模様が描かれている、人情物語。以前、読もうと思って図書館で借りたけれど、あまりに古い文体で、ざー--っと読んだけれど、古文を読んでいるみたいだった。


とまぁ、随筆なので、様々な話題が飛び出す。
でも、こうして読んでいると、様々な土地、人、時代、、、時々、現代と繋がったりして、面白い。

なんか、かっこいい人だなぁ、と思う。
シャキシャキとした文体。聡明さ。かっこいい。
ま、だんなの白洲次郎はもっとかっこいいけど!なんて。

 

なかなか、良い一冊だった。
東京も、悪くないね、って感じ。

 

身近なところにも、たくさん良いところはある。

そういうまなざしで、「もののあわれ」を探す心が「日本のこころ」かな。

 

読書は楽しい。