邪馬台国の女王 卑弥呼
真鍋和子
講談社火の鳥伝記文庫
1997年7月28日第1刷発行
2007年5月31日第6刷発行
図書館で、時間つぶしになる本を探して児童書のコーナーで見つけた本。日本史の勉強になるし、とおもって読んでみた。
歴史の本かと思ったら、伝記文庫ということで、物語だった。中国の歴史書『魏志』倭人伝に基づいて、物語風になっている。
1997年の本で、邪馬台国の九州説、畿内説がそれぞれ、どのような考察にもとづいているかも解説にでてきた。それは、『魏志』倭人伝にかかれている邪馬台国への行き方を頼りにどっちとも決定付かずにいる。。
中国からは、朝鮮半島の南の端にある狗邪(くや)韓国から海を渡り、対馬国(とやまこく:対馬)の一支国(いきこく:壱岐)を通って、九州の末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)に来るまでの道順は分かっているが、問題はこの先。奴国(なこく)、不弥国(ふみこく)、投馬国(とうまこく)、邪馬台国については次のように書かれている。
奴国:東南に百里
不弥国:東に百里
投馬国:南に水行(船で行くこと)、二十日
邪馬台国:南に水行十日、陸行(陸地をいくこと)一月
二つの読み方があって、一つは奴国から順番に通って邪馬台国にいくこと、もう一つは伊都国からの行き方として読むこと。
実は、どちらの読み方をしても、邪馬台国の場所は、九州のはるか南の海の中になってしまう・・・。
邪馬台国の戸数は7万戸となっていて、そんな大きな国は、遺跡の発掘状況からすると、九州か畿内(奈良県大和地方)のどちらかしかないだろう、ということ。
史実として参考にあることを覚え書き。
・紀元前1世紀頃の日本は、倭の国と呼ばれていた。
・西暦57年、奴国(九州北部玄界灘に面した所)の王が、中国の都・洛陽に使者を送り、皇帝から金印をもらった。この金印が、江戸時代にいまの福岡県志賀島の農民、甚兵衛によって発見され、現在は福岡市立博物館に展示されている。「漢委奴国王」と刻まれている。国宝。
・卑弥呼は、239年、魏の国に使者をおくる。狗奴国(くなこく)との戦いで苦しいを状況をうったえた。魏の皇帝は色々と智恵をさずけ、はげまし、邪馬台国「親魏倭王」という金印をさずけた、と魏志倭人伝にある。でも、これは、発見されていない。
・当時、鉄は貴重なもので、鉄の材料を得るために、人々は大陸に渡った。
・卑弥呼の時代、中国大陸では400年の間支配していた漢王朝がたおされ、魏、呉、蜀の三国時代が60年続いていた。三国は、流民を地主のいない土地に引き入れ、田畑を耕作させ、新しい生産と社会の仕組みをつくっていた。大陸に派遣されていた邪馬台国の使者は、これを卑弥呼に伝えた。
・邪馬台国の卑弥呼が亡くなる日、日の出のすぐ後に皆既日食が起き、人々はこの世の終わりだと思った。
児童書なので、あっという間に読める。でも、ちょっとだけ歴史の復習にはなる。
火の鳥伝記文庫、なかなか、面白い。
そうそう、この時代はべつに邪馬台国だけが国だったわけではなく、たくさんの国があったのだ。日本というのは一つの国ではなかったのだ。そして、卑弥呼がいたことで邪馬台国が有名だけれど、「親魏倭王」は、文献にでてくるだけで、金印そのものは見つかっていない。「漢委奴国王」の金印が有名だけど、奴国という国が邪馬台国と同じころに存在していたということ、あまり意識していなかった。こうして、児童書でも読んでみると、再認識することってある。大人の記憶なんて、いい加減なもんだ。ま、歴史は新たな発見で新事実に塗り替えられることもあるけどね。
歴史を、一人の人の視点から見るという点で、伝記というのは実によくできた本なのだ、ということに気づかされる。他の伝記も読んでみよう、って気になった。
児童書でも、大人でもそこそこ楽しめる。
絵本を読んでいるのに近い感じだったけど、気分転換にわるくない。