『日本という方法  おもかげ・うつろいの文化』 by  松岡正剛 (その2)

日本という方法
おもかげ・うつろいの文化
松岡正剛
日本放送出版協会
2006年9月30日 第一刷発行

 

目次
第1章 日本をどのように見るか
第2章 天皇と万葉仮名の語り部
第3章 和漢が並んででいる
第4章 神仏習合の不思議
第5章 ウツとウツツの世界
第6章 主と客の数寄の文化
第7章 徳川社会と日本モデル
第8章 朱子学陽明学・日本儒学
第9章 古学と国学の挑戦
第10章 2つのJに挟まれて
第11章 矛盾と葛藤を編集する
第12章 日本の失敗
第13章 失われた面影を求めて

 

昨日の続き。

megureca.hatenablog.com

 

第4章は神仏習合について。これは、もう、あまたの本で語られているので、ここではさらっと本地垂迹説」について。まずは、本源として仏や菩薩が衆生を救うために「迹」を諸方に垂れて、それが神となって姿を表した、ということ。もともといた仏に、神様が宿ったとでもいおうか。別に、無理やり仏教と神様をくっつけたのではなく、日本人の生活になじんでいた仏様に、神様が下りてきたって感じ。神様は様々な形で現れる。ときには、自然の脅威となって元寇の襲来を撃退することを助けてくれる。日本は、古来より神風が吹いていたのだ。元寇の時代から、神風と神国の思想は、日本のこころにのこっていくことになる。

 

第5章は、ウツとウツツ。ウツは、「移ろい」につながる。空っぽのウツから、何かが生まれる移ろい。中が空洞なのに、そこから何かが生まれたり、宿ったりする生成力をもつのが「ウツ」。鈴は空洞だから美しい音が生まれる。神社に鈴があるのは、鈴の音が鈴に籠っている神威を降りだすため。「空」があって「全」があるように、「正」と「負」、「凹」と「凸」、空っぽだから、生まれるものがある、というリバース・モードの力がウツにはあるのだと。それは、常と無常につながる。

 

人生が大きく凹んだ時、凹むなら凹むだけ凹んで、それが大きな器になるって、そう考えるのと一緒かな。人生山あり谷あり。空っぽだから、満たせる空間がある。そういうリバース・モードは、空になるところから始まる。ヨガでも吐く息に意識を入れて吐ききることで、たくさんの新鮮な空気を吸い込むことができるという。

そうか、ウツ、空(から)って、大事なんだな。

 

浄土を「常」とみて、穢土(えど)を「無常」とみる。此岸の穢土をはなれて彼岸の浄土をめざすのが「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」。極楽にいる阿弥陀信仰も広がる。貴族たちは、競って往生を願い、観音堂や念仏堂を建て、大規模には平等院鳳凰堂クラスの堂宇を構えて、阿弥陀如来を安置した。当時流行った往生思想は、同様な建物を多く生み出す。


東に薬師堂薬師如来を祀る)を置き、あいだに二河白道に見立てた池や川を配して、西に阿弥陀堂をおいて阿弥陀如来を祀る設計は、多く見られる。
浄土思想が広まる一方で、天台法華の考え、密教などが広がり、無常感もしだいに世の中に広がっていく。


いろは歌の解釈がある。

色は匂へど散りぬるを(諸行無常
わが世たれぞ常ならむ(是生滅法)
有為の奥山けふ越えて(生滅滅己)
浅き夢見じ酔はもせず(寂滅為楽)

 

常と無常、夢と現実、ウツとウツツの間には、ウツロイがあるということ。ヴァーチャルな無のウツとリアルな有のウツツ。それらは、正反対の意味でありながらリバースに行ったり来たりするのだと。
ウツとウツツをつなぐウツロイがあるのが「日本という方法」。
岡倉天心は、「あえて仕上げないで、想像力で補う」という言い方をした。そこに水を感じたいから水を抜いて枯山水とする。そうして、ウツロウ国にいるのが私たち日本人なのだ、と。

 

う~~ん、ちょっとわかるような。。。想像、妄想で、無から有をつなぐものを心の中に描き出す力。日本人が得意的に高いのかはわからないけれど、すべてが見えていないところに美を見出す、というのはあるのかもしれない。等伯の竹林も、華道における空間も、何もないところに美を見出す心。それは、ウツとウツツのウツロイにあるのかもしれない。なんとも漠とした言葉だけれど、ちょっと素敵な世界のような気がする。

あえて仕上げないで、想像力で楽しむ。うん、その控え目?!な感じが、結構好きかも。

 

第6章では、日本の作法は、「客」と「主」があるから、生まれたということ。どんな世界にも、招くものと招かれるものとの関係性はあるが、一神教的社会と多神教的社会では、文化的に違いがあるのではないか、という話。

一神教は乾いた砂漠の思想が典型で、誰か一人のリーダーの決断でさっさと決断して、さっさと進まないと、みんなが死んでしまう。結論は誰かひとりがだして、みんなが従うという運命共同体。他方、多神教はガンジスの森で芽生えたヒンドゥ郷や仏教に代表されるように、森林型。森林型の日々では雨によって動けば却って危険になる事態もあるので、たくさんの知識、意見を収集して結論をだす。場合によっては、坐禅をして待機を待つ熟考も必要とする。砂漠で坐禅なんかしていたら、干からびて死んでしまう。

日本は四季のウツロイを持つ風土なので、自然の変化に常に気を配っておく必要がある。しかも、それぞれの変化に、それぞれの神様がいる。微妙な変化に敏感であることが大事。だから澄んでいることが大事なこととなる。清明心をもつことは、微妙な情報に敏感であることで、判断力の源泉だった。だから、禊なのだ。「心新たに」頑張るというのは、日本人ならではのウツロイの文化の一つなのだ、と。

 

先日の、スリッパを整えるという話もそうだけれど、整えてあるところにこそ、気が付く余裕ができるというもの。整理整頓、侮るなかれ。変化の大きい時代こそ、整理正統、片付けが大事なのかもしれない。

 

第7章は、日本の将来をみる視点の変化について。言い方をかれば、世界との関係性について。

戦国時代、織田信長は、カリスマ性を発揮し、典型的な専制君主の振舞いをしたリーダーだったが、明智光秀に暗殺されたために、国内政治の改革で留まる。つづいた豊臣秀吉は、国内政治を改革したのに加え、長命であったので、アジア戦略にも手をつけた。大陸制覇の野望をもった秀吉だったけれど、文禄の役漢城(はんそん)と平壌(ぴょんやん)を陥落したものの、委舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の猛攻にあい、事態は膠着。慶長の役でも、秀吉軍は委舜臣の反撃にくるしめられ、苦杯を嘗める。朝鮮を救った委舜臣は、のちに朝鮮最大の英雄として語り継がれることとなる。

ちなみに、今日の韓国でもっとも嫌われている日本人は、プンシン・スギルとイドン・バクムン。豊臣秀吉伊藤博文、だそうだ。どっちも、彼らを支配しようとした日本人ということだろう。

江戸時代になると、平和な日々がやってくる。一方、隣の中国では大国の明が崩壊するという大事件が起こる。もはや、中国は頼りにならない。であれば、日本は日本として自立せねば!と、「日本とはどういう国であるべきか」という議論が沸き起こる。幕府にもたいしたアイディアがあるわけではない。一生懸命考えた一人が、水戸藩徳川光圀水戸黄門だった。光圀は、明の王室から逃れて長崎にいた朱舜水(しゅしゅんすい)を訪ね、ヒントを得ようとする。そして、彰考館をつくり、大日本史の編纂へとつながる。
日蓮の『立正安国論北畠親房の『神皇正統記にて、国に関する議論はされていたが、国際性を意識した日本モデルは提案されていなかった。江戸時代には、中国にモデルがないのないのなら、日本自身をモデルにすればいい、という議論になっていった。中華思想華夷秩序)の中軸を日本にしちゃえと。日本にも、中華秩序の中軸になるような根拠が或る、ない、そんなものはない、様々な議論が吹き出した。中でも、山鹿素行の日本のモデルは、日本と中国の朝廷を比べると、日本の方が中国よりも一貫性をもっているのだから、日本が新たな中華秩序の中心になるのは当然だ、というものだった。中国の王朝は、しばしば異民族の王朝になるけれど、日本の王朝は天皇家という同一王朝で保たれていることに意義をみいだした。のちにこれは、「日本の天皇がそもそもの皇帝」ということで、一人歩きするようになる。そして、「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」といった思想にもつながっていったのだ、と。

うん、これは、、、歴史を、中国、半島と一体である日本という歴史を理解するうえで、かなり重要なことの様だ。

 

中国の属国でこそなかったけれど、中華を真としていた時代から、日本が真だとする時代へ。グローバリズムへ。山鹿素行のロジックは、全てが受け得れられたわけではなかったけれど、様々な亜流が生まれた。そして、亜流は本流を駆逐する勢いを持つことがあるのが歴史である、と。

うん、これは、ふかいなぁ。。。

 

また、徳川時代には、経済としても株仲間が商売をしきるようになるなど、日本の社会に大きな変化をもたらした。だが、天保の改革(老中水野忠邦による)で、株仲間を批判し、後に株仲間解散という方向へ進む。それは、いってみれば規制緩和。菱垣廻船など株仲間が仕切っていた積荷は、一般人が自由に売買していいことになった。しかし、これは、物価騰貴につながり、かつ流通機構の大混乱をもたらした。規制緩和による市場の混乱、今日も繰り返されている、、、、その原型は、江戸時代にもあったのだ。

水野忠邦の改革を、規制緩和と見ると、その後の混乱がわかるような気がする。これは、私にとっては、目からウロコ。

 

規制強化と規制緩和。短期思考と長期思考。なんでも、どちらかに偏るとその揺り戻しがやってくる。バランスが大事って一言でいってしまえばそうなのだけれど、人は、自分で痛い目にあわないと気が付かない。だから、失敗もあっていい。次の失敗をしないようにすることで、前に進む。それが、人生の繰り返しだなぁ、、、、。

 

と、まだまだ続きがあるので、また明日。