本居宣長 「もののあはれ」と「日本」の発見
先崎彰容(さきざきあきなか)
新潮選書
2024年5月20日
小林秀雄の『本居宣長』を難儀しながら読んでいるときに、参考になるといって教えていただいた一冊。比較的新しい本だけれど、図書館で検索したら出てきたので借りて読んでみた。
ちょうど、昨日の日経新聞の書評でも紹介されていた。記事に書かれていた理解と、私の理解はちょっと違うかもしれないけれど、たしかに良書。
著者の先崎彰容さんは、1975年、 東京都生まれ。 東京大学文学部倫理学科卒。東北大学大学院文学研究科博士課程を修了、フランス 社会科学高等研究員に留学。現在、 日本大学危機管理学部教授。 専門は、倫理学、思想史。主な著書に、『ナショナリズムの復権』『 違和感の正体』『未完の西郷隆盛』など。『未完の西郷隆盛』は、養老孟司、茂木健一郎、東浩紀『日本の歪み』(講談社現代新書)の中で、言及されていた本。ちょっと気になっていた著者だけれど、私にとっては本書がはじめて読んだ本。
裏の説明には、
”日本の思想史を画す「知の巨人」。その肯定と共感の倫理学とは。
中国から西洋へ、 私たち日本人の価値基準は常に「西側」に影響され続けてきた。貨幣経済が浸透し、 社会秩序が大きく変容した18世紀半ば、 和歌と古典とを通じて「日本」の精神的古層を掘り起こした国学者・本居宣長。波乱多きその半生と思索の日々、後世の研究をひもとき、従来の「もののあはれ」論を一身する渾身の論考。”
とある。
目次
序章 渡来の価値観 「西側」から西洋へ
第一章 「家」と自己像の葛藤 商人、あるいは医者と武士
第二章 貨幣経済の勃興 学術文化の都への遊学
第三章 恋愛と倫理のあいだ 『あしわけをぶね』の世界
第四章 男性的なもの、女性的なもの、 契沖、国学の源流
第五章 「もののあはれ」論の登場 『石上私淑言』の世界
第六章 源氏物語をめぐる解釈史 中世から近現代まで
第七章 肯定と共感の倫理学。 『紫文要領』の世界
第八章 「日本」の発見 「にほん」か「やまと」か
終章 太古の世界観 古典と言葉に堆積するもの
感想。
おおぉ!!これは、すばらしい。
本居宣長を知るという意味では、小林秀雄の『本居宣長』を読む前によむべきか。。。いやいや、小林秀雄の『本居宣長』を読んだ後だから、先崎氏のいわんとすることが分かるのか。。。おそらく、両方だ。そして、先日の橋本治『小林秀雄の恵み』も含めて、何度も読み返して、ようやく、、、自分の言葉で語れる『本居宣長』が現れるのかもしれない。
なんにせよ、これは、読んでみてよかった。薦めてくれた方は、「彼の著書は素直で読みやすい」とおっしゃていた。少なくとも、これまで私にとってはしらなかったことがたくさんでてきたし、宣長、儒教、国学、儒学者、、、江戸の人々の生活変化、、、いろいろなことが、これまでの点とつながって、がってん!!!になった。
お、、、、あれ?
ガッテンって、合点がいくって、、、、語源は文字通り点と点がつながるってことだったのか!?もしかして!!なんとなく、「ためしてガッテン!」で、ガッテン!ガッテン!ってやってたもので、、、、単なる「わかったぁ!」っていう感嘆の言葉におもえるけど、、、。
そう、まさに、合点した。
小林秀雄の『本居宣長』では、契沖、荻生徂徠、伊藤仁斎らの話に、延々とページがさかれているのだが、その意味が、ようやくわかった。。。江戸時代、彼らによって従来の西側(中国)への評価が変わっていったということ。そして、その流れの先に国学と言われる宣長の研究した世界が繋がっていたということ。
林羅山のように、政治にまかれていった儒学者がいた一方で、政治とは一線を画した儒学者が徂徠や仁斎だった。
本書のタイトルが最後に、「日本」の発見、となっているのも、読みすすめていくとよくわかる。そうか、、、国学、、、その先に、日本の発見なのだ・・・。
序章で、国文学者の野口武彦さんの「 一体いつの頃から日本は「西側」の一員になったのだろうか?」という言葉が引用されている。
おぉ、、なんと。。。重い問いかけだろうか。
日本は、遣隋使、遣唐使の時代、いやその前の弥生時代から大陸からの影響を受け続けてきたわけだが、戦後、いつのまにかアジアの一員から「西」の一員になってきた・・・・。日本人の思想の変化。西洋に追いつけ追い越せで成長してきた戦後の日本。じゃぁ、、、それ以前の日本の知性は?!?!ということなのだ。
そして、260年続いた江戸時代も、その間に貨幣経済が発達することによって、人々の生活だけでなく、思想も変容していった。その社会変化のはざまの中で、「私たち日本人とは?」を追求したのが国学であり、その筆頭が本居宣長だということ。普遍的価値とおもわれていたものが揺るいだ時代。
アイデンティティの喪失のなか、いにしえに思いを馳せたくなるのは、昔の人も今の人もかわらないのだ、、という気がした。
宝暦・明和の時代は、貨幣の流通がさかんになり、その経済システムに政治システムが追いつかないという事態に陥っていた。主君の立場危うし!偉いと思っていたお侍さんも、この人についていってもやばいかも、、、の時代。そして、地元の物々交換で人間関係が成り立っていた社会が、貨幣の流通によって遠く離れた地との商売へと広がり、人より金を信頼するしくみが人間関係にも変化をもたらした。
幅広い世界との交流が、人びとの関係性にも影響を及ぼし、地域共同性は解体・・・。
今のグローバライゼーションとローカルエコノミーの葛藤みたい・・・。
そうか、そういう、歴史背景のなかで宣長が取り組んだ『源氏物語』であり『古事記伝』だったのだ。
また、本居宣長の人生そのものについても、初耳のはなしがいくつもあった。
宣長は、町医者として生計をたてていた。でも、もともと家(小津家)は商家だったのだ。11歳の時に、父が亡くなり、その後をついだ義兄も若くして亡くなる。商家の後継ぎとして商売を勉強するために、今井田家に奉公にだされた宣長だったが、商売センスの悪さに出戻りになる。。。なんと、家業をつぐセンス無し!とうい挫折を味わうのだ。小津家の家業を継がなくていいという「自由」は、当時でいえば「役立たず・・・」に等しい。そして、本の虫だった息子が商売人になるのはムリだと見定めた母は、宣長に医者になることを勧める。そして、宣長は京都にでて、学問にはげんだのだ。かあちゃん!あっぱれ!そして、宣長は儒学者・堀景山のもとに寄宿し、視野を広げていく。
当時の京都というのは、明治期における「パリ」のような存在で、学問、芸術、あらゆる分野の華やかな人々が集まっていた。伊藤若冲、円山応挙、杉田玄白、前野良沢、、。宣長は、まさに花の都パリならぬ、花の都京都で20代の多感な時期を過ごしたのだ。そして、儒教に触れ、医学に触れ、昔から好きだった歌にふれ、、、歌の解釈にも嵌っていく。
宣長は、歌を政治的文脈から切り離した契沖の考えに強く惹かれた。歌は、心のままに読むものであり、言葉を使う以上は上手い言葉を使うべきであるけれど、「うまい歌をつくろう」とおもってつくるものではない、と。勅撰和歌集は、政治・道徳に利用されてきたけれど、宣長は歌というのは、ただありのままに思いを詠み、政治的善悪・道徳的良し悪しと異なる基準で評価されるべきである、とした。それが、「もののあわれをしる」につながっていく。個人の感情の解放へ。
第六章では、『源氏物語』について詳しくなるのだが、私は、ここではじめて折口信夫が「源氏物語を深く読んだ」民俗学の巨人であるということを理解する・・・。なんてこった。そうか、、そういう知の巨人が、「小林さん 本居さん はね、やはり源氏ですよ。では、さようなら」と言って立ち去って行った、、というくだりが、小林秀雄の『本居宣長』の最初なのだ。
あぁ、、そうかそうか、、、ここで、橋本治さんのいう「知の権威」に立ち向かった、、という意味がわかった。
本書は、源氏物語の解釈についても、勉強になる。人々の言葉を歌にしたということだけでなく、そもそも、その時代の政治の仕組みを物語として揶揄している。紫式部という才女は、幼くして母を亡くし、嫁いだともおったら夫との生活も3年で夫の死で終わり、、、”自己恢復は自らの手でするしかなかった”と言っている。なるほど、、、。女性が直接政治に介入することはできないけれど、物語を書くことで思いを表現することはできる。そういう深さがあるのだ。ただの、女好きイケメンの恋愛物語ではなかったのだ・・・。
深いなぁ。源氏物語に、そんな深さを求めて読んだことはなかった。でも、多くの人が研究対象にし、かつ、現代語訳にとりくみたくなるのは、そういう深い内容があるからなのだろう。
そして、西側の影響をうけている『日本書記』に対して、日本の国風文化である『源氏物語』を研究対象にした宣長。かつ、『日本書紀』ではなくて『古事記』を研究対象にした宣長。
『日本書紀』は、政治的意図をもって中国に習って編纂された。『古事記伝』のほうが、もっと純粋に、日本の歴史なのだ。
政治と歌を切り離す。そして、純粋に楽しむ。
それが、宣長が目指したものだった。折口信夫は、その点は宣長を否定した。賀茂真淵の「ますらおぶり」に共感したのが、折口だった。
「もののあはれ」論とは、古典や常識、あるいは風景に蓄積された太古の日本人の生き方に共鳴し、それを受動的に感じ取る能力、つまり「肯定と共感の倫理学」であるということ、と先崎さんはまとめている。
そして、本書は日本とは?につながっていく。
うん、また、少し、本居宣長がなぜすごいのかがわかったような、、気になった。
新潮選書は、はずれがない。
読書は楽しい。
そして、わからなくてもとりあえず読み進めてみるって、大事だと思う。
最初から全部わかろうとすると挫折する。
小説も然り。
映画も然り。
繰り返し触れ合うことで、理解が深まっていく。
あぁ、そうか。
それは、人間関係もそうかもね。
善悪とは関係のないところで、感性で楽しもう。