『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 by  南直哉

超越と実存
「無常」をめぐる仏教史
南直哉
新潮社
2018年1月25日 発行
2018年11月30日 四刷

 

養老孟司さんの『老い方 死に方』の最初の対談相手。

megureca.hatenablog.com

自ら、お坊さんらしくないお坊さんという南さんの著書。気になったので、図書館で借りて読んでみた。小林秀雄賞をとったという一冊。

 

本の紹介には、
”私とは何か。死とは何か。仏教とは何か――。
全身全霊の問いから始まった仏教探求の旅。ブッダから道元までの思想的変遷を読み解く、仏教史の哲学。

諸行無常(=すべての〝実存〟は無常である」。そうブッダが説き始まった仏教は、インドから中国、そして日本へと伝わる過程で、「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的理念」と結びつき、大きく変化していった――。
「私がねらうのは、ゴータマ・ブッダに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどのように扱われ、意味づけられ、あるいは変質したかを見通すことである。(中略)無常という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである」(序章「問いの在りか」より)
「恐山の禅僧」が、ブッダから道元までの思想的変遷を「超越と実存の関係」から読み解く、かつてない仏教史の哲学。”
とある。

 

感想。
う~~~ん、難しい!!!
仏教がどのように今の日本の解釈になっているか、ご本人の解釈に至ってきたのかを仏教史の順で、インド⇒中国⇒日本と変遷を語ってくれているのだけれど、正直に言って、難しい・・・・。さらに本文中で搭乗する他のお坊さんの書いた本からの引用は、もうそれだけでなんだかわからん?!って感じだし、そもそも、仏教の全体像の基本が頭に入っていないので、なかなか南さんの中で納得いったようには私には解釈できなかった。それでも、なんだか、ページをめくらずにはいられない本、という感じ。そして、養老さんが書評として、「著者の強さ」をいった意味がず~んと伝わってくるような感じがある。ブレがない。軸がある。つまるところ、考える自分がいて、自分がいる、、、「我思うゆえに我あり」の実践をできている方というのか。。。
難しいけれど、私にとって、南さんという人が興味深い人であるということがドンと落ちてきた。こういう人、好きだ。考えることをやめられない人。

 

プロローグで、「君はまだ正師にあっていないな」と言われて、「いいんです。私が自分で正師になりますから」と答えた若いころの南さんの言葉が紹介されている。キャリアモデルにしたいと思うお坊さんがいない、この人についていこうと思えるお坊さんがいない。。。だから、自分が正師になる、という答えをだした。そして、修行生活が7,8年を迎えたころ、ふと、「ああ、よかったな。本当によかった。」という思いが修行の鐘にあわせて礼拝しようとしたときに頭に浮かんだのだ、と。それは、なにかを悟ったということではなく、釈尊道元禅師がかつてこの世にいて、自分と同じように問題を抱えていたのだということに気がついた問題を共有する人がかつて確かに存在していた、それが救いだったのだ、と。

 

難しいけど、ちょっと、わかる気がする。答えはわからないけれど、同じ問題に取り組んだ人が、今ここにいないとしても、過去にいたということ。つまり、これは問題として取り組む意味のあること、そう確信できた瞬間だろうか。この問題に取り組むことが間違っていないと思えること。そう確信できた時、私もやったー!と思うことがある。私は、何かを達成したときより、取り組むべき課題が見えて、それに取り組もうと決心がついたときが一番ワクワクする。達成するかどうかなんてわからない。南さんが言う通り、夢も希望も叶わないことの方が多い。それでも、これに取り組もうと思えることに出会える幸せ。それは、私のような凡人にでもあるのだ。それでもいい。それでいい。そう思えたのが、この本に出会って良かったと思える一つかもしれない。

 

自分の中で、悶々と答えのない問題を抱えているとき、同じ問題に悶々としている人に出会ったとき、よかった、と思える瞬間がある。ただし、それは、人としてその相手を動物的直感で「仲間」と感じられるときに限るけれど、、、。釈迦や道元を仲間と感じられたとしたら、それは幸せだろう・・・。


目次
プロローグ ―― 私の問題

序章 問いの在りか
第一部 インド 無常の実存、超越の浸透
 第一章  ゴータマ・ブッダ
 第二章  アビダルマ、般若経典華厳経典の思想
 第三章  法華経、浄土経典、密教経典の思想
 第四章  竜樹と無着・世親の思想

第二部  中国 超越論思想としての中国仏教
 第五章  中国仏教、智顗と法蔵の思想
 第六章  中国浄土教と禅の思想

第三部  日本 「ありのまま」から「観無常」へ
 第七章  空海以前と空海の思想
 第八章  天台本覚思想と法然の革命
 第九章  親鸞道元の挑戦

エピローグ ―― 私の無常


序章の「問いの在りか」というのは、信仰があって仏門にはいったのではない、ということ。そしてお釈迦様、ゴータマ・ブッダだって、問題を抱えていたから出家したのであって、信仰が先ではない、ということ。おっと、そりゃそうだ。イエスキリストだって、キリスト教を信仰していたのではない。ユダヤ教徒だ。そして、そこから宗教が発生した。信仰からはじまるのではなく、既存のものへの問いから始まったのだ。

南さんの抱えていた問題、それは、
一、死とは何か
一、私が私である根拠はなにか

3歳で重症の小児喘息に罹患した南さんは、幼いころから死が身近にあった。自分が死ぬってどういうことなのか?生きている人にきいても答えは出てこなかった。そして、死ぬということは生まれてきたということ。自分はなぜ生まれて、なぜ死ぬのか?私がここにいるのはどういうことなのか????
そして、15歳の春、諸行無常という言葉に衝撃をうけたのだと。問いの答えがわかったのではないけれど、問いに言葉が与えられた、そういう感覚だったらしい。そして、諸行無常という言葉が仏教の言葉であるということを知り、仏教が南さんにとって決定的な存在となった。

諸行無常、「一切の形成されたものは無常である」。

まぁ、わかるような、わからないような。。。である。
「無常」も「無我」も、いくら坐禅をしたところで私には、やっぱりわからない・・・・。
そういう、素人さんにもわかるように何かを説明してくれているのが本書なのかもしれないけれど、いやいや、これは、修行している人に向けた本だろうか。。。次々と仏教用語がでてきて、難しかった。

 

諸行無常の言葉は、ブッダの『ダンマパダ』に次のように書かれている。

「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそひとが清らかになる道である。

そして、一切皆苦(一切の形成されたものは苦しみである)、と諸法非我(一切の事物は我ならざるものである)との言葉が続く。

諸行無常一切皆苦、諸法非我、これらこそが人が清らかになる道である、と。

 

うん、ブッダがそういったということくらいは、聞いたことがある。でも、次々でてくる仏教用語は、判らないものばかりだった。でも、なんとなく大事とおもった言葉を覚書。

 

「十二支縁起」:無明ー行ー識ー名色ー六入ー触ー受ー愛ー取ー有ー生ー老死
 前項がその項目の原因。後項がその項目の結果として連鎖すること。

 

ブッダの悟りは、「無明」の発見。

 

五蘊:人間の存在を身体(色)、感受作用(受)、表象作用(想)、意志的作用(行)、認識作用(識)の五つにわけたもの。
 五蘊のそれぞれが無常であり、実体(アートマンではない。

 

・「無本性」、すなわち「無常」であることこそ、「成仏」に必須の条件。

 

ナーガールジュナ(竜樹):インド大乗仏教の思想家。「難行」と「易行」という考えを生み出した。頭のいいお坊さんがやれる大変な修行と、庶民でもできる簡単な念仏って感じ?

 

ヴァスバンドゥ(世観):インド大乗仏教の思想家。

 

曇鸞(どんらん):476~542。中国において浄土思想の骨格を構築した。

 

「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」(ふりゅうもんじ きょうげべつでん じきしにんしん けんしょうじょうぶつ):中国(宋の時代)に、中国禅を表す言葉。インド由来の経典とは別に発展し始める。
 不立文字:文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄である
 教外別伝:釈迦の言葉による教えのほかに、心から心へと直接に伝えられ得るもののこと
 直指人心:経文などによらないで、坐禅により心の本性を見きわめ、人の心と仏とは本来同一物であることを悟って成道すること。
 見性成仏:身に本来そなわる仏性を見抜いて、仏果をさとること。

 

道元の言説は、空海への対抗思想道元は、歴代の仏祖が伝えてこられた正しい仏法とは、ただひたすらなる坐禅只管打坐 しかんたざ )であるとし、その実践を修行僧達にも広く求めた。

 

・日本は、『古事記』にあるような神様たちがいて、そこに仏教が入ってきてもそのまま人々に受け入れられてきたのは、もともと形而上学」をもたない日本という思想風土があったから。 天とか、神とか、別に説明されなくても、そのまま受け入れられたのが日本の思想風土。形而上学」をもたない日本 という表現が、わかりやすい。

 

インドに始まった仏教が中国を通じて日本へ入ってきた。その過程で解釈も色々と変化してきた。法然親鸞が念仏を唱えるようになったのは、難しい修行をするにはそれなりに「おつむがいい」必要があり、そうでない庶民を救うには「易行」が必要と考えたから。そして、親鸞は、自分自身も「庶民」であり、「悪人」であるとした。いわんや悪人、、なのだ。

 

一度読んだだけでは理解しきれない一冊だったけれど、問題を考え続けていいのだ、、、という確認ができた気がする。だれも、悟ったりしていないとしても、それでいいのだ。人間、悟ったなんて思ったらおしまいだ。そんな気がする。

 

自分の頭で考える。

やっぱり、それが生きているってことなんだと思う。

無常だけど、ね。

 

ちなみに、インパクトのある装丁は、鉛筆画で有名な木下晋さんの「祈りの塔」という作品。ちょうど、現在(2023年8月26日~10月15日)、瀬戸内市立美術館で「木下晋展」を実施中だということでちょっと気になっていたのだ。本を手にした瞬間、あれ?この絵は??と気になったのだ。もう、展覧会に行く時間は取れないけれど、思いがけずに木下さんの作品に出会った。鉛筆でこれだけ描くのもすごい。