『大人が読みたいアインシュタインの話』 by  石川憲二

大人が読みたいアインシュタインの話
石川憲二
B&Tブックス 日刊工業新聞社
2017年7月18日 初版第一刷発行

 

図書館の特設コーナーに置いてあった本。アインシュタイン、面白そうなので借りてみた。

表紙には、
エジソンの発明と相対性理論の意外な関係。
光への強いこだわりと
人並みはずれた集中心で天才はつくられた!”
とある。

 

著者の石川憲二さんは、1958年東京生まれ。東京理科大学理学部卒業。ジャーナリスト、作家、編集者。本書の前編?!として、『大人が読みたいエジソンの話』という著書もあるらしい。

 

目次
プロローグ 笑わない天才が舌を出した理由
第1章 夢も希望も感じられない子供時代
第2章 光への興味から始まった相対性理論への道
特別講座 10分でわかった気になる相対性理論
第3章 アインシュタイン博士の日本旅行
第4章 天才科学者の「晩年」はいつから始まったのか?
エピローグ 天才とは人生における「選択と集中」ができる人である

 

感想。
さーーっと読めて、面白い。一応、私は理系だけれどやはり相対性理論はうまく説明できない。観察者によって時空が相対的に変化する、といわれても、ふむ、、、そうか、、、で、どういう数式で?となると、さっぱりだ。でも、アインシュタイン相対性理論くらいはわかる。

 

本書によれば、あの有名な「あっかんべぇ」している写真は、一見フレンドリーな人柄のようにみえるけれど、まったくそういう人物ではなく、たまたま自分の72歳の誕生日祝いパーティーの帰り、家路につくために自動車に乗り込んだところをINS通信社(現在のUPI通信社の前身)のカメラマンに直撃されたのだそうだ。
アインシュタイン博士、笑顔をください」と言われたアインシュタインは、いつもならそっけない対応なのに、その日は上機嫌だったからか、思わず笑いそうになる。その照れ隠しでついつい舌をだしてしまった、、、というのが真相だ、と。

 

アインシュタインのボーボー頭、舌をだした写真のイメージは、イメージだけの一人歩きをさせた。ほんとうのアインシュタインは、実にそっけなく、他人にはあまり興味が無いタイプだったらしい。自閉症だったとも言われているのだから、まぁ、個性的だったのだろう。

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1879年にドイツのウルムという村で生まれたアインシュタインは、子供のころはぱっとしない。ドイツはプロイセンバイエルンが対立しあう状態から、統一へとすすみ、ビスマルクの富国強兵への道が推し進められていくころ。アインシュタインは、家族の引っ越しと同時に、16歳でスイスの学校へ行く。そして、その後ドイツの国籍を捨ててしまう。兵役につくのがいやだったから、、という説がある。そして、一時は、無国籍状態で過ごす。その後、アメリカへ亡命。アインシュタインは、ユダヤ人一家のうまれであったものの、直接ナチスの迫害にはあっていない。アインシュタインが生れたころか、ドイツ国内のユダヤ人の多くは、一般のドイツ人と同じ生活をしていて、あまり民族意識もなかったらしい。

 

そんなアインシュタインだったけれど、生れた家庭が「知」を重んじるカルチャーだったことから、科学への興味は小さいころから芽生えた。5歳の時に父に与えられた方位磁石をみて、「触れていないのにモノを動かす力」に興味をもつようになる。アインシュタインと妹の写真が残っているのだが、当時そのような写真をとるというのはそれなりに裕福な家庭だったということらしい。

そして、学校は嫌いだった、、、と。小学校時代、特に問題はおこさなかったものの、アインシュタイン曰く、「学校は退屈きまわりなく、教師たちは誰もが下士官みたいだった。私は知りたいことを学びたかったのに、彼らは試験のための勉強をさせようとした。学校の競争システムと、とくにスポーツが大嫌いだった。」そうだ。

 

国を離れることでドイツでの兵役を免れたアインシュタインは、スイスで生活するようになって、休暇のたびに家族のいるミラノやジェノバに遊びに行くようになる。南欧に初めて足をふみいれた北欧の人が、強烈な光に驚くように、アインシュタインも、南の明るい日差しに衝撃を受けた。このころから「光」に対する執着がはじまったのではないか?というのが著者の推論。
そして、大学中に恋人ができる。最初の奥さん、ミレヴァ・マリッチ。後にはアインシュタインの浮気で離婚することになるのだが。。。また、二人にできた最初の子供は、結婚前で、二人で育てることなく養子にだされる。アインシュタインは認知もしなければ子供の顔をみなかったらしい。愛情も関心ももたなかった、と。やはり、ちょっと変わっている。その次の子供は、養育している。ただ、結婚しても、忘れ物が多かったり、注意力散漫なところはあったようだ。

 

よき家庭人にはなれなかったアインシュタインは、就職にも難儀する。やはり、人とうまくやっていく力が欠けているところがあったのだろう。それでも、23歳でスイス特許局に就職、29歳でベルン大学講師に就職。その後、チューリッヒ大学助教授、プラハ大学教授、チューリッヒ工科大学教授、と転々とし、34歳でどいつにもどって、35歳でベルリン大学教授となる。その間、ミレヴァと離婚。その際、「将来、ノーベル賞を取った場合、その賞金を全額与える」という約束をし、実際、そうなる。。。

家庭がぐちゃぐちゃになっていく中、アインシュタインは仕事では快進撃を続ける。『光量子仮説』『ブラウン運動論文』などの論文を発表し、当時のドイツ物理学会の会長で重鎮のマックス・プランクが興味をもったことから、アインシュタインは注目を集めるようになる。若い時の学説がみとめられたというのは、科学者にとっての最大の幸運ともいえる。

そして、「光の速度は一定で、変化するのは距離や時間」という相対性理論に行きつく。
その詳細は、、、ここでは割愛。

 

アインシュタインは、1922年、来日している。日本初の講演は、3円という高額の入場料(オペラより高かった)にも関わらず、大勢の人が集まった。物理学の先鋭、大学関係者、大臣から一般市民まで。日本人の知的好奇心はこころからつよかったのだ、と、著者。というか、その直前にノーベル賞を受賞しているから、知的好奇心というより野次馬根性だったのでは?なんていったら、おこられちゃうか・・・。
でも、もっとすごいのは、アインシュタインの方で、初回講演では、合計5時間にわたって熱弁をふるったのだ、と。いったい何語で話したのだろうか。。。気になるけど、説明はなかった。

晩年は、量子力学の先駆者たちと学術論争がおこる。ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクといった量子力学者たちの学説と、アインシュタインはあわなかった。ボーアvsアインシュタインの論争が起こる。でも、時代は量子力学になっていた。

 

アメリカに渡ったアインシュタインは、マンハッタン計画アメリカを中心とした原爆開発プロジェクト)に巻き込まれている。でもアインシュタインは、原爆の使用には反対していたので、その旨を覚え書きとして書き加えることで、計画に同意したらしい。結局、つかわれてしまった原爆。アインシュタイン本人は、強く責任を感じ、激しい後悔の念にかられ、日本人に会うたびに謝罪したのだそうだ。

 

1955年、アインシュタインは入院中の病院で動脈瘤破裂で死去する。死の間際につぶやいたのはドイツ語だったらしく、看護師には理解できず、偉人の時世の言葉はのこっていない、、、と。

 

偉人の裏話もあって、なかなか面白い一冊。

注意散漫で、女にだらしがないところもあった、、、ともいえるかも。

アインシュタイン、やっぱり気難しいおじさんだったのかな。最後、ハイゼンベルクらとともに、もっと物理の世界を広げていたら、、、また、違った人物像になったのかもしれない。ハイゼンベルクのように、言葉を残すこともなかったアインシュタイン。やっぱり、頭の中は物理でいっぱいだったのだろう。

 

サイエンスの世界は、何が真実か、、、やはり、わからないこともある。権威ある人が認めないと、新しい学説も認められにくい。結局は、人間の頭で考えたことなのだ。それに対して、単純に自然の中で起きているのは、いまここ、の真実。

相対性理論も、実際に超精密時計をもって飛行機に乗れば時間がずれることを確認できるらしいが、、、言うは易し。それでも、目の前でおきている自然現象は、やはり正しい。テクノロジーも正しい。でも、それは平和目的で使われなくてはいけない。。。

 

ハイゼンベルグの言葉が、思い起こされる。アインシュタインですら政治的批判を浴びるようになっていった大戦時の世界。

学問さえも真理のためでなく、むしろ利害得失のために利用されるのなら、いったいそれに努力することがそれだけの価値のあることだろうか。”

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それでは、学者はサイエンスを追求し続けるのだ。

 

軽い一冊だけれど、サイエンスとは、テクノロジーとは、と考えてみると深い。

 

読書は、楽しい。