映画 『オッペンハイマー』
クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を観てきた。
原爆の父、オッペンハイマー、J. Robert Oppenheimer。アメリカでの公開は、2023年7月だけれど、日本での公開が決まるまでは、ちょっと時間があったようだ。
アカデミー賞、7冠。クリストファー・ノーランの監督賞をはじめ、オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィは、主演男優賞。3時間の大作。
映画の紹介では、
”2006年ピュリッツァー賞を受賞した、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」を下敷きに、オッペンハイマーの栄光と挫折、苦悩と葛藤を描く。”と。
感想。
泣いた。私は、泣いた。
自然と涙がこぼれた。。。
原爆に対してではない。
オッペンハイマーの苦悩に対して。。。。
そして、あぁ、これが、クリストファー・ノーランの映画かぁ、、と。交差する時間軸と、それをカラーと白黒で描き分けることで、観ている方は時間がスイッチすることがわかる。なるほど。。。。それは、同時に視点のスイッチでもある。
そして、キリアン・マーフィ演じるオッペンハイマーが、自分がつくりだした技術の威力を目の当たりにした時、、、、映像に重なるのは、オッペンハイマーの息づかい。緊迫感が、ひしひしと伝わってくる。そして?そして?どうするの?どうなる?息づかいだけがひたすら続く時間、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を彷彿させる。
ニールス・ボーア、ハイゼンベルク、アインシュタインと、物理の神様のような人々も登場する。とくに、アメリカに渡ったアインシュタインとオッペンハイマーの友情、相互信頼、人としての支援、、、、。心が痛む。。。
アインシュタインがアメリカに渡った晩年は、量子論を理解できない時代遅れの人とされてしまっていた。でも、オッペンハイマーが理論物理の相談相手として信頼していたのが、アインシュタインだった、はず。それが、映画の中で描かれている。核分裂反応がいわゆる臨界に達したとき、もしかすると大気に引火して、一気に地球全部が火に包まれるかもしれない、、そんな計算結果がでてきて、その可能性を「ゼロ」と言い切れない理論物理学の限界を感じたオッペンハイマーは、アインシュタインに相談する。アインシュタインは、答えは言わない。「それは君の仕事だ、、、」と。
アインシュタインとオッペンハイマー。お互いの信頼が、うらやましくも思える。
本作は、アメリカを中心とした話だけれど、ハイゼンベルクの著書『部分と全体』の中では、自分たちの研究が戦争に利用されることを畏れていたドイツの研究者が描かれている。まさか、アメリカに亡命した仲間が、人類最大の殺りく兵器をつくりに加担するとは、、、。でも、亡命するしかなかった研究者もいたのだ。そして、ナチスを亡き者にするためなら、、、と、、、。
そんな研究者たちの葛藤が、、痛い。痛いのだ。痛くて涙が出た。
映画では、そんな話は出てこない。あくまでも、オッペンハイマーの話だ。だけど、ハイゼンベルクやアインシュタインだけでない、科学者は、、、正しい科学者は、だれも、人類殺戮技術なんて、つくりたいと思っていない。。。
オッペンハイマーは、ユダヤ人系移民の子だった。だから、ヒトラーより先に、ナチスより先に、原子爆弾を作らなくては、、と思った。。。。その心も、理解しないわけではない。
そして、研究としての開発と、、、それが、、、出来上がってしまった原子爆弾は、、、使わねばならなかった。。。ドイツは5月9日までに降伏した。ドイツのために作ったはずの原爆。。。ドイツに落とす口実がなくなった原爆。その対象は日本になった。。。
悲しい。
マンハッタン計画によって、ロスアラモス(ニューメキシコ州の砂漠)にオッペンハイマーらの研究者が集められる。そして、人類初の原爆実験が行われる。「トリニティ」。
実験は、成功する。でも、それが意味するのは、、、オッペンハイマーの物理学者としての成功は、、、、原爆によって人を殺す手段を作ってしまったということ。
物語は、オッペンハイマーの物理学者としての栄光ではなく、彼の人生の苦悩、共産党のかかわり、女関係、、、が描かれる。どんな天才も、ただのひとりの人間なのだ。
誰かを愛しもすれば、誰かを傷つけたりもする。それでも、、、、ただ、家族と平穏に暮らすことが許されなかったオッペンハイマー。英雄とあがめられたと思ったら、権力の陰謀の罠にはめられ、何ゆえこんな仕打ちを、、、というめにもあう。それでも、、、、強く生きていたオッペンハイマー。憤るどころか、冷静に、、、負け戦に挑むオッペンハイマー。。。それは、妻のキャサリンが、自分の代わりに怒りを表に出してくれたからかもしれない。。。
キャサリンがいたから、オッペンハイマーは、オッペンハイマーでいられたのかもしれない。二人の間には、子どもたちがいる。彼らは、、、どんな人生だったのかな、ということも私の頭によぎった。映画の中では、まったく触れられていない。
どうして、ただただ、、研究者としてだけ、生きていくことができなかったんだろう。。。
私にとって印象的だった場面は、オッペンハイマーがマンハッタン計画のリーダーに任命されて、軍服をきるようになり、それを友人の物理学者イジドール・ラビに「軍服はやめろ。科学者らしい服をきろ」と言われて、次のシーンから、これまでのスーツ姿にもどること。
研究者とは、科学者とは、何者なのだろうか。
オッペンハイマーは、水爆開発に反対した。ちゃんと、意見した。そして、大統領に嫌われた。いいのだ。それでいいのだ。
佐藤優の著書『未来のエリートのための最強の学び方』にでてきた言葉を思い出す。
「ただ危険だというのではなく、何がどうなると危険で、どう使えば人類のためになるのか、それを明らかにするのが科学者の役割。」と。
人は、自分に都合の良いことしか聞こうとしない。。。ただ、恐れるだけでもだめなのだよね。
映画『オッペンハイマー』を見て、もっと、オッペンハイマーの人生を知りたいと思った。彼が、怪物なのではない。彼の作った技術を、戦争につかった人間が怪物だ。日本人にとっては、怪物だ。映画のなかでは、原爆の成功に喚起するアメリカ人たちもでてくる。それもまた、怪物だ。いやいや、日本人も、同じように好戦的な怪物になっていたこともある。
怖ろしいのは技術ではない。それを誤った方法で使う人間なのだよ。。。
やってみないとわからないこともある。だから、実験は必要。しかし、それは、、、代償が大きすぎる実験は、、、本来許されない。問題は、、、良かれと思うし、実験より実践が優先されることもあるということ。。。
正解は、誰も知らない。
でも、やってみないと、、、わからない。
エリザベス・コルバートの著書『世界から青空がなくなる日』で描かれる環境問題も、しかり、かもね。
『オッペンハイマー』、サイエンスをめざす若者に、観てもらいたい。