『マンガ日本の歴史12  傾く摂関政治地方の社会』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 12
傾く摂関政治地方の社会
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年 10月5日 初版印刷
1990年 10月20日 初版発行

『マンガ日本の歴史 11 王朝国家と跳梁する物怪』の続き。

megureca.hatenablog.com

 

藤原道長による藤原家の繁栄に陰りが出始めるところ。

 

目次
序章 かける望月
第一章 平忠常の乱
第二章  自立の動き、寺社勢力
付章 荘園の乱立
第三章 前九年の役から後三条親政へ

 

藤原道長が死んでから半年後の1028年(長元元年)6月、東国から、 前上総介平(さきのかずさのすけ)の平忠常(たいらのただつね・平将門係累)が、叛乱をおこしているとの報告が内裏に届く。

 

時の関白は、 藤原頼道(37歳・道長の長子)。平将門の乱から100年たっても、将門の怨霊が、、、と。このころ、東国だけでなく、全国のあちこちで地方軍事貴族や豪族が現れて、国司を無視して公事(納税)をも無視する風潮がひろがっていた。

道長の時代の望月は、欠け始めていた・・・。

 

忠常の反乱は、上総国全体におよび、筑波山のあたりから、房総半島の先っぽまで。国司たちは、妻子の命をまもるために、忠常の配下に入ることもあり、勢力はどんどん広がった。

この忠常反乱に対して、だれを追討使として派遣するか、、という会議が開かれた。話し合いに参加したのは、

右大臣:藤原実資(さねすけ)72歳
内大臣藤原教通(のりみち)33歳
大納言:藤原斉信(ただのぶ)62歳
と、藤原筋のものたちばかり。

候補は、
満仲(みつなか)と子どもたち。頼光(よりみつ)、頼親(よりちか)、頼信(よりのぶ)。

頼長に頼めばまちがいないが、それでは「源氏」の一族の名がますます高まってしまうのが藤原たちは面白くない

そこで、
平直方(たいらのなおかた・右衛門尉検非違使)と中原成道(なかはらなかみち・右衛門志検非違使)の二人あわせれば一人前ということで、ふたりが200人の軍勢で東へ向かう。

忠常の夜襲によって、追討軍は崩れ、なかなか功をおさめることができなかった。中原成道は、追討軍を解任され、叛乱は長期化。

関白頼道は、こうなれば頼信にたのむしかない、、、と断念。

 

頼信は、満仲の子。満仲は、経基公(清和天皇の孫)の子。このころ、平氏が東国を固めていたのに対して、源氏は藤原氏にとりいることで、都の武者としての繁栄の道をもとめていた。経基公を始祖とするこの一族は、「清和源氏とよばれていた。源氏が活躍し始めるきっかけが、この平忠常の乱。そして、前九年の役後三年の役の平定においてもこの源氏が活躍することとなる。

 

頼信は、籠る忠常に対して長期戦に持ち込み、自滅をまった。3年に及ぶ戦乱は、上総、下総、安房の三国を疲弊させ、住民は他国へ離散。忠常は、出家し、とうとう頼信に降伏した。

 

とうとう、忠常を打ち取った頼信だった。そして忠常のような地方の豪族は、朝廷にはかなわない、源氏はますます力を増すだろう、、、と人々は思うようになった。

 

後に頼信ら清和源氏は、八幡神氏神と仰くようになる。頼信は、武芸をもって朝廷に仕えているものの、真につかえるべきは「神」であり、係累の発展をねがった。武士による統治の野望を最初に抱いたのは、頼信か?!

 

1036年(長元9年)、後一条天皇(68代・一条天皇と彰子(道長の子)の子)が病没。弟の敦良親王後一条天皇と同じ、一条天皇と彰子(道長の子)の子)が即位し、後朱雀天皇(69代)となる。

 

禎子(ていし)内親王(三条帝の皇女)が、中宮となり、すでに尊仁(たかひと)親王をうんでいた。

頼道の妹にあたる藤原嬉子(きし)は、後朱雀天皇の子親仁(ちかひと)親王を生んで、なくなっていた。

 

藤原頼道と頼宗(頼道の弟)は、なんとか藤原家の血を濃くしようと画策するが、なかなか藤原の血の親王が生まれない。女たちは、子どもを授からないことに苦しみ、子どもを産む道具として使われることを嘆いていた。

 

と、そのころ、南都では武士勢力の伸長とあわせて、寺社勢力も跳梁が目立つようになってくる。

東大寺vs興福寺比叡山延暦寺、など宗教を重視する人々の戦い。農民は、横暴な国司を訴えても改善されないことから、郡司や寺社を味方にする。朝廷も、神仏に刃をむけることができなかった。そして私有地である「荘園」が乱立していく。

 

1050年(永承5年)、陸奥国士が安倍頼良(あべよりよし)の反乱によって倒されるという事件が起こる。前九年の役の発端。安倍にしてみれば、強欲な国司が悪者を倒して農民を味方としたのだった。

反乱をしずめるため、朝廷はふたたび源氏の力にたよる。陸奥守鎮守将軍として贈られたのは、頼信の息子、頼義(よりよし)安倍頼良(頼義と同じヨリヨシを頼時と改名)は、頼義と争うことを避け、共存していく道を選ぶ。しかし、頼時の息子が頼義の軍を夜襲するという事件をきっかけに、頼義と頼時は戦いをまじえることとなる。頼義の子・義家も参戦するが、戦死との誤報もまわった。

戦いは、長くつづき、1062年、ようやく〈前九年の役〉は、終焉。

長く続いた戦で、安倍氏は滅び、頼義・頼家には、諸国から多くの兵士が集まることとなった。

 

1068年、後冷泉天皇(嬉子の子)が病没。尊仁親王(35歳・禎子の子)が、後三条天皇(71代)として即位。藤原氏外戚としない天皇は170年ぶり。

 

すでに35歳と壮年である後三条天皇は、摂関政治に頼ることなく、親政をおこない、政治の刷新をうちだす。「延久の荘園整理令」では、公領の回復につとめた。
そして、摂関政治の影響をさらに弱めるために、即位から4年で、貞仁(さだひと)親王に譲位する。白河天皇(72代)の誕生。

 

後三条天皇は、摂関家を抑え、院政(院(上皇)が全権を揮う政治スタイル)を生み出していった。

 

藤原氏は面白くない、、、そして、、、13に続く。